招待される者は多いが、選ばれる者は少ない

デレク・プリンス
Published: 2022
Last Updated: October 2026
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「ありのままを伝えなさい。」今回の「ティーチング・レガシー・レター」で、デレクは自身のアドバイスに従い、神への召命に真剣に取り組むよう私たちを励ましています。そして、もしそれを怠った場合に何が起こるかについて、率直な警告も添えています。このレターのテーマは私たちにとって喫緊の課題であり、重要な問いを投げかけています。私たちは人生における神の召命に耳を傾けているでしょうか?
あなたは、「生まれながらのリーダー」と呼ばれる人を知っていますか。あるいは、とても美しい声に恵まれた、「生まれながらの歌手」と言われるような人を知っていますか。そういった人たちがいるとして、あなたは何かをするために「生まれた」のに、それをしていないために、悲しみに暮れている人々を見たことがありますか。
召されることと、選ばれることには、明確な違いがあるのです。マタイ22章14節で、キリストが「招待される者は多いが、選ばれる者は少ない」と言われた時、イエスはご自身の考えや可能性について言ったのではありません。事実を述べられたのです。その事実は、キリストが最初にそれを言われた時と同じく、今なお真理です。
試練の期間
多くのクリスチャンが、神の働きのために召されますが、その働きに選ばれ、任命されて歩む人はわずかです。
あるクリスチャンは子どものときに招かれ、また対照的に、生涯の終わり近くになって招かれる人もいます。しかし、10代、20代のクリスチャンが神の働きに召されることが多いことに私は気づきました。ですから、マタイ22章14節は、若い信者に特に重要なのです。 クリスチャンが最初に働きのために召された時と、実際に神がその働きのために任命される時の間には、試される 期間があることがほとんどです。 たいていは、召される働きに求められる責任が重ければ重いほど、その人が最初に 通らなければならない試練は大きなものとなります。その試練に耐え抜いた人だけが、その働きを実際に行なうために選ばれるのです。
士師記で、ミデヤン人と戦う神の働きに、イスラエルの民を招集するためにギデオンが最初に角笛を吹き鳴らした時、32,000人の男がその呼びかけに応じました。しかし、ギデオンがその者たちを神が示された方法でテストすると、残ったのは300人でした。テストに合格し、働きに選ばれた者は、1%未満でした。仮に、今日そのテストを行なったとしたら、その割合はもう少し高いのではないかと推測します。
しかし、神の知恵は、出来事によって証明されます。ギデオンは、単なるしもべ32,000人が成す以上のことを、わずか300人の、試され、訓練された男で成し遂げたのです。そして、それは今日にも当てはまります。試され、訓練され、弟子とされ、自分に死んだ、一人のキリストのしもべは、単なる何かしらの集まりや団体の会員100人以上の価値があるのです。
改宗者か弟子か?
近年の伝道は、改宗者を数えることが中心です。神は、弟子を作ることにもっと集中しておられると私は信じます。キリストは、ご自身の初期の働きにおいて、何千人という改宗者を得ましたが、十字架にかけられる前の最期の時には、11人の弟子が残っていただけでした。イエスは復活の後でさえ、「五百人以上の兄弟たち」にご自身を現わされました(Ⅰコリント人15:6)が、天からの力を求めて、屋上の間に行ったのは、たった120人だけでした。
神の国の本当の前進は、数の多さではなく、常に質によるものです。今こそ、再びこの事実を強調する時です。
二種類の試練
神が、働きのために召されたクリスチャンを試す方法には、大きく2つあります。
- まず、物事を困難にすることを許すことによって。
- 第二に、物事を簡単にすることを許すことによって。
マルコ4章の種を蒔く人のたとえで、イエスは岩地に落ちた種について話し、「すぐに喜んで受けるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう」クリスチャンにたとえています。しかし、イエスはまた、いばらの中に落ちた種についても話し、それを、「世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結ばない」クリスチャンにたとえています。
反対や迫害、あざけり、孤独、貧困、また福音ゆえの明白な失敗に耐える準備ができていないクリスチャンがいます。また、世の気楽さや快適さ、評判、富、成功のただ中にあって、忠実であり続けることができないクリスチャンもいます。神の働きのために召された人たちは、恐れて思いとどまらされてもいけないし、他のものに混乱されることがあってもいけません。
聖書は、クリスチャンが試練を受けるであろうということを続けて警告しています。ヤコブの手紙の最初でこう言われています。
「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです」(ヤコブ1:2-3)。
ペテロは試練について、
「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」(Ⅰペテロ1:7)と書いています。
厳しい試練は、真のクリスチャンにとって、何も驚くべきことではないのです。その試練は、神ご自身が与えられたものです。
ヨブ
また聖書には、神の忠実なしもべたちと、彼らが通らなければならなかった試練について多く書かれています。典型的な例の一つがヨブです。
ヨブ記23:10-12で、ヨブは自分の試練についてあかししています。
「しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。私の足は神の歩みにつき従い、神の道を守って、それなかった。私は神のくちびるの命令から離れず、私の定めよりも、御口のことばをたくわえた。」
12節に、ヨブの勝利の秘訣があります。それは、神のことばに対するヨブの態度にありました。何にもまして神のみことばを大切にする人は、常に試練を勝利で乗り越えます。
エレミヤ
事実、彼は自分が預言者になるには若すぎると思いました(エレミヤ1:6)。
若いクリスチャンにとって、最も困難な試練の一つは、孤独です。神への誠実さは、自分の世代が楽しんでいる、むなしい世の快楽や活動から離れさせます。彼らは、遠く隔離されたように感じるのです。
哀歌3:27-28でエレミヤは、その試練をこう表現しています。
「人が、若い時に、くびきを負うのは良い。それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。」
エレミヤはこの特別な試練に耐えました(エレミヤ15:17参照)。ヨブのように、エレミヤは神のことばに対する態度をもって耐える力を得ました。これは、真の神のしもべとしてのしるしです。
「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです」(エレミヤ15:16)。
モーセ
モーセも、試練を耐え抜くことを学んだ、もう一人の偉大な神のしもべです。彼の最初の試練は、世の地位と楽しみでした。
パロの家で育ち、パロの座を受け継ぐ可能性がある中におり、彼はあらゆる富とエジプトの文化と贅沢を楽しむことができました。 彼がその誘惑に負けることを拒否した時から、自分の民に拒絶され、パロに迫害され、40年間のさすらいの旅と貧困、孤独に耐えなければなりませんでした。しかし彼は、それらすべての試練に打ち勝ちました。なぜなら、神の真の栄光と神がくださる永遠の報いを見失わせる、一時的な富や栄光の誘惑を決して受け入れなかったからです。
へブル書は、モーセがこれに耐えたのは、
「キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにし」(へブル11:26-27)たからだと言っています。
今日、多くのクリスチャンの若者が世の快適さと成功に目を奪われて、クリスチャンの働きの真の栄光と永遠の報いを見えなくさせられています。
召命の重み
聖書は、神の召命について、3つの力強いことばを用いています。第一に、「上に召してくださる」(ピリピ3:14)です。それは、他のあらゆる人生の関心や利権とは別レベルです。クリスチャンの人生において、家も、家族やこの世のつながりなど、他の何ものも、神の召命の上に立つものはないでしょう。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません」(ルカ14:26)。
第二に、神の召命は、「聖なる招き」(Ⅱテモテ1:9)です。それは、あらゆる妥協や汚れから守られた、聖なるものです。祈りにささげる時間と霊的自己否定が求められます。その成就には、私たちの長所と私たちの時間、献身、そして私たちが持っているすべての賜物と才能の発展が要求されます。
第三に、神の召命は、「天の召し」(へブル3:1)です。クリスチャンの奉仕のために私たちを召す声は天から来ます。それが、「静かで小さな声」、あるいは「大水の音」のように来る全能の神の声です。神の声には、最高の権威があり、無条件に従う価値があります。パウロが神からの招きを聞いたとき、「私はすぐに、人には相談せず」と言いました(ガラテヤ1:16)。パウロは、国の宗教の指導者や、すでにキリストの弟子となっていた人たちからの確認や許可を求めることはありませんでした。自分の人生に対する神の目的を十分に理解し、ただ神だけから受け取りました。
今日、神が特別な働きにクリスチャンを召されるとき、多くの人が最初にする反応は、他の人の意見を求めることです。誰が私を遣わすのか。誰が経済的サポートをしてくれるのか。その結果、神の声はすぐに人間の意見に飲み込まれてしまいます。しかし、召され、自分の信頼のすべてを神にゆだねるクリスチャンには、神ご自身のことばからの祝福された確信がやって来ます。
「あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます」(Ⅰテサロニケ5:24)。
クリスチャンの召しの成就は、最高で唯一のお方、神ご自身によるのです。
遅らせないでください
最後に、神の招きは緊急です。ヨシュアは、神に仕えるために招集したイスラエル人たちを前にして、「あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。」(ヨシュア24:15)と言いました。
詩篇95:7は、「きょう、もし御声を聞くなら」と言っています。
神の声は人間の都合を待つことはありません。私たちは、もっと「都合のいい時期」に神に明け渡す、というように決心を先延ばしにはしてはいけません。サタンは「明日」でいいと言いますが、神は「今日」と言われます。
箴言1:24-32に、神の招きへの応答を先延ばしにすることに対して、重要な警告がされています。そこには、自分の繁栄と自己満足に浸り、神の招きに背を向ける人々について書かれています。実際、あとで思い直して神を求めて引き返した時には、遅すぎるのです。神はすでに退かれています。かつて招いた声は、今は沈黙しています。機会は過ぎ去ってしまったのです。
神のあなたへの招きが一般的なもの(ミカ書6:8)であろうと、特定なもの(Ⅰペテロ4:11)であろうと、神の招きに心を留めるようにしていただきたいのです。それを真剣に受け止めてください。神の試練に耐え抜いてください。天の働きにあなた自身を捧げてください。招かれたが、決して選ばれない「多数」にあなたの名が加えられることがないようにしてください。
Prayer Response
親愛なる主よ、私はあなたの私への召しに応えたいと思います。私はあなたに仕え、あなたが私に与えられた計画を実現するために選ばれたいです。私が奉仕するように召された人々に対しても同様です。どんな代償があろうとも、私は遅れません。今日、この瞬間に、私はあなたに「はい」と言います。アーメン。

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