「高慢と謙遜」というテーマは、実に範囲が広く、全宇宙に及びます。永遠から時を通り抜け、再び永遠の中へ、そして天から地へと、さらには地獄にまで及びます。たとえ、このテーマが非常に広いものであっても、私たち一人一人の個人的な人生にも当てはまるのです。この永遠なる全世界的原則は、マタイ 23:12 でイエスによって語られています。

「だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」

高慢と謙遜の五段階

世界の高慢の歴史を振り返るために、高慢と謙遜の 5 つのおもな段階を見ていきましょう。

第一段階: 最初の高慢の罪。

全世界が陥った最初の罪は人間によるものではなく、御使いによって陥った高慢の罪でした。それは地においてではなく、天におけるものでした。その御使いの名前はルシファーで、光り輝く栄光ある御使いでした。しかし、彼は高慢の罪とそれに続く反抗のゆえに、神の臨在から追い出されてしまいました。その後、彼の名前は、サタンに変えられました。それは、敵対者、反抗者です。

第二段階: 創造。

神は、ちりからの被造物、すなわちアダムという「人」を造ることによって、この最初の高慢の罪に応答しました。神はこの被造物を造るためにちりの中に身をかがめられました。神は、人から、そして全被造物から、いかなる高慢の根となるものも取り除きたかったのです。

第三段階: 堕落。

なんと、人は敵であるサタンによって、サタン自身が犯した同じ高慢という罪の中へと陥りました。高慢の罪により、人もまた堕落してしまったのです。

第四段階: 受肉。

神は堕落した人を贖う計画を持っておられ、その計画の中で、神はなお低くなられました。キリストにあって、神はまさに堕落した人類という低いレベルになられました。堕落した状況から永遠に至るまで、ご自身との交わりの場へと再び人を引き上げるために、神は人間の一人となられたのです。

第五段階: 贖い。

神は贖われたアダムの子孫、つまり贖われた被造物を、永遠に至るまで天の栄光の輝きの中で神とともに治めるものとしてくださいました。神は、最も高い場所を最も低い者のために備えておられるという全人類への証明とされるためです。

神の被造物の取り扱いの全記録の中に、次の原則を見ることができます。それは、神は低い者を引き上げ、高ぶる者を引き下げます。高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになるのです。

高慢の本質

アダムがサタンによって誘惑され、陥った罪の本質的性質は、サタン自身の罪と同じものでした。それは神への反抗につながる高慢の罪でした。

創世記 3:5 でサタンは、自分の究極的誘惑をアダムとエバに提示しました。それは何だったでしょうか。神にそむき、神が彼らに食べてはならないと禁じた園の中央の木の実を食べてしまいました。蛇であるサタンは、アダムとエバに言いました。

「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

天においてサタンの反抗を駆り立てた動機は、「いと高き方のようになろう。」(イザヤ 14:14)という自己を引き上げることばに要約されます。のちに、アダムとエバへのサタンの究極的誘惑は、「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる・・・」でした。それは、悲惨な結果を生む同様の動機、すなわち、堕落に至る高慢でした。

高慢の本質はいったい何なのでしょうか。それを理解することは何よりも重要です。私はそれを簡単な一文にまとめました。「この種の高慢は、神からの自立を模索することである。」それは、全世界の神の主権の否定ではなく、単純に神なしでも大丈夫だという、アダムとエバによる個人的な決断でした。彼らは神を必要としませんでした。もし、善悪の知識を手に入れることができるなら、もはや神に頼る必要なないというものです。サタンは彼らを誘惑したとき、アダムとエバが彼らの可能性に見合わない、神の奴隷のような依存の位置にあるとほのめかしました。サタンの言い分は、アダムとエバは神に信頼しないほうが、より幸せになるというものでした。

核心部分:自立

その誘惑の本質は、「自立」という一言で表わせます。それは、神からの自立願望です。それがその本質、高慢です。しかし、それはサタン的高慢です。サタンの堕落を引き起こした、まさにその高慢です。必然的に、神にゆだねたることを望まない生き方はすべて高慢によるものです。

これは、非常に巧妙な欺きです。自分が高慢ではないと考えている多くの人が、神にゆだねることを望まない生き方をしようとしています。その裏にある動機は高慢で、高慢の結果は常に、反抗と災難です。

高慢のたとえ

ルカ 12 章でイエスは、神に対するこの種の間違った態度、すなわちまさに高慢という自立の罪を犯した人のたとえを語っています。この箇所を読んで、私たちがプライドの性質に気づかない限り、この裕福な人の本当の間違いを見逃してしまうでしょう。

それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』(ルカ 12:16-19)

あなたは、現代の世界でそのように豪語する人を知っていますか。それは、まさに今日の社会の態度の構図です。その話の結末を読んでみましょう。

しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」(ルカ 12:20-21)

神は、その人を愚か者と言いました。しかし、その人は現代文明の何百万人という人が行なっていることをしたに過ぎません。自分に必要なことを考えたのでした。ある意味、その人は慎重でした。彼は良い管理者で、畑から立派な収穫をもたらし、もっと大きな倉が必要だと知ったとき、倉を建てる能力がありました。大部分の人がむしろ彼を立派な分別のある人物だと考えるでしょう。率直に言うと、彼は教会に通う、現代の教会の多くで歓迎されている人であり得ます。その同じ態度が今日、多くのクリスチャンと公言している、また教会に通っている何百万人にも見られるのです。

神は、その人を愚か者と言いました。しかし、その人は現代文明の何百万人という人が行なっていることをしたに過ぎません。自分に必要なことを考えたのでした。ある意味、その人は慎重でした。彼は良い管理者で、畑から立派な収穫をもたらし、もっと大きな倉が必要だと知ったとき、倉を建てる能力がありました。大部分の人がむしろ彼を立派な分別のある人物だと考えるでしょう。率直に言うと、彼は教会に通う、現代の教会の多くで歓迎されている人であり得ます。その同じ態度が今日、多くのクリスチャンと公言している、また教会に通っている何百万人にも見られるのです。

新約聖書この問題の原因を非常に明確に究明しています。たとえば、ヤコブ4章にこうあります。

「聞きなさい。『きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう』と言う人たち。

あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あな

たがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎませんむしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです。」(ヤコブ 4:13-16)

その高ぶりは、高慢です。神から自立したいという願望、私たちの人生に神の権威がないかのような行いです。これは、Iヨハネ 2:16でも語られています。

「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」

高ぶった人生は、まるで神があまり重要でない、神に主張、主権がないかのように生きることです。その本質である高慢は、神から自立しようとするのです。

謙遜の完璧な模範

これまで、イエスによって述べられている普遍的律法である、「だれでも、自分を高くする者は低くされ・・・」(マタイ23:12)の否定的な面を主に見てきました。では、この律法の肯定的な面にフォーカスしていきましょう。「自分を低くする者は高くされます。」と言われていることばです。この肯定的な面の最も偉大で完璧な実証は、イエスご自身です。実際、サタン(あるいはルシファー)とイエスはまったく正反対です。それは、次のようなものです。今はサタンと呼ばれるルシファーは、自分自身を引き上げようとして、投げ落とされました。神の子イエスは、ご自身を低くして、引き上げられました。

ご自身を低くされたイエスの姿を、パウロはピリピ 2:5-11で見事に描写しています。この書簡は牢の中で書かれた重要な意味のあるものだと思います。パウロは自分の人生で学ばなければならなかったものに適用するとき、すでにイエスが成し遂げた完璧な模範を見ていました。この箇所で、パウロは2つの真理を述べています。イエスのへりくだりと、結果としての父なる神からの引き上げです。

まず、ピリピ 2:5-11でのイエスのへりくだりの描写では、神と等しい位置にいたところから、十字架での犯罪人として死ぬまでのイエスが取られた七つの連続した低くなる段階を見ることができます。聖書では7という数字はしばしば完全、完成を表わします。ですから、この低くなる七つの段階において、主イエスの完全なへりくだりを見ることができるのです。

初めのことば、「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい」は、すべてのことが、行ないではなく、その態度で始まることを示しています。何よりも、ルシファーの反抗の行ないを駆り立てたものは、高ぶりの態度でした。イエスを低いところへ下られる過程へと導いたものは、イエスのへりくだりの態度でした。

「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」

低くなられたその七段階を簡単に見ていきましょう。第一段階、イエスはご自身を無にされました。チャールズ・ウエスレーは自身の作った讃美歌の中で、「彼はすべてを捨て、愛だけとなられた」と言っています。イエスは神としての性質をすべて捨てられたのです。

Step one, Jesus emptied himself. Charles Wesley, in one of his hymns, says, “[He] emptied Himself of all but love.” He laid aside all His attributes as a divine person.
第二段階、イエスは仕える者の姿をとりました。ギリシャ語では、「奴隷」となっています。イエスは神のしもべでありながら、すべて神のしもべである御使いのレベルに残ることもできました。
第三段階はさらに低いところです。イエスは人間と同じようになりました。イエスはご自身をアダムの子孫と同じレベルにされたのです。忘れないでください。イエスはすべての面においてアダムが堕落する前の完全な姿で地に来ることもできました。しかし、イエスは完全に人となられたのです。
第四段階、イエスは外見上は人として見られていました。その当時の人たちとまったく同じ性質をもった人でした。イエスはナザレの通りで人々と話し、誰一人イエスの身体的違いに気づきませんでした。
第五段階、イエスは単なる人としてご自身をへりくだらせ(卑しくし)ました。あなたはそのことについて考えたことがありますか。イエスは統治者でも、軍の司令官でも、祭司でもなかったのです。
第六段階、人としてイエスは、すべての人がたどる運命、すなわち死に耐えました。イエスは死を最後まで経験されたのです。
第七段階、最終段階は十字架の死です。病床で親類に囲まれての死ではなく、自分の家での安らかな死でもなく、ローマの死刑台上で裸にされ、もだえ苦しみと恥の中での犯罪人としての死でした。それが、イエスの完全なへりくだりでした。

高く上げられる

では、結末を見てみましょう。すぐ後に続くことばは、「それゆえ」です。イエスは、神としての地位を捨てるふりをしたのではなく、実際にその地位を放棄したのです。それを取り戻すためにイエスは権利を得なければなりませんでした。そして、それを得ました。自分自身を低くすることによって。パウロはピリピ 2:9-11 でそれを証言しています。

「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」

上昇の七つの段階に注目してください。一つ目、神はイエスを高く上げられた。二つ目、神はすべての名にまさる名をイエスに与えられた。三つ目、神はイエスの御名によってすべてのものがひざをかがめるようにされた。そこでは、3つの領域が特定されます。四つ目、天にあるもの、五つ目、地にあるもの、六つ目、地の下にあるもの、すなわち被造物のすべての領域です。そして最後の七つ目は、すべての舌がイエスを主であると告白する、です。「それゆえ」ということばは、イエスがご自身を低くしたことによって、この高く上げられることを得たということを忘れないでください。イエスは、「自分を低くするものは高くされ」という原則の完璧な模範でした。

謙遜から生まれるもの

次のピリピ 2:12-15に進むにあたって、再び、それゆえと同義である、「そういうわけですから」ということばに注目していただきたいのです。この原則から生まれるもう一つのことは、特に私たちの人生に当てはまります。

「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり...」

イエスがご自身を低くされ、その後高く上げられた記録のすぐ後に、「そういうわけですから」ということばが来ています。何のためでしょうか。私たちの人生にその原則を適用するためです。イエスがまさにご自身を低くされたように、私たちもそうするのです。もし、私たちが成功したクリスチャン生活を送り、イエスの模範に従うおうとするなら、私たちも自分自身を低くしなければなりません。自分を低くすることは、新約聖書にあるように、成功するクリスチャン生活に導かれるために不可欠な条件です。イエスの内に働いた同じ原則は、私たちの内にも必ず働くのです。

その箇所で自分を低くすることによる3つの結果をパウロは述べています。一つ目は、従順です。パウロは、「いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら...」と言っています。高慢な人は従順になることができません。高慢と反抗は、決して従順と両立しません。心の中に高慢と反抗がある限り、私たちは神に従うことができないのです。従うためには、私たちは自分を低くしなければなりません。

自分を低くすることによる二つ目の結果は、神が私たちの内で働くことを可能にするというものです。パウロは言っています。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」高慢は神が私たちのうちに働くための障壁となります。神は、自分を低くする人だけにみこころを働かせることができるのです。私たちが高ぶり、横柄で、うぬぼれたままでいる限り、それは神からの自立を守ろうとすることで、神が私たちのうちに働く方法がないということです。高慢は神の働きの障壁です。

自分を低くすることによる三つ目の結果は、非常に素晴らしいものです。謙遜は、宇宙の星のように私たちを輝かせます。それは、神の民を、この世の人々とまったく異なるものとさせます。高度な技能や知的能力によってではなく、その謙遜さによって、人は際立つのです。それは、今日の世界でほとんど見られない特質です。それを実行するとき、確かに、神の民を異なる者とさせます。

私たちを取り巻く世界はますます暗くなっています。私たちが安全だと考えていた多くの「光」が、私たちから取り去られつつあります。夜空の素晴らしい事実は、夜が更けて暗くなるほど、星がより明るく輝くことです。それこそ、神が私たちに望んでおられることです。しかし、そのカギは、自分を低くすることです。

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