私が初めてビリー・グラハムの話を聞いたのは、1954 年ロンドンでのことでした。その礼拝の中で彼が言った一つのことを私は忘れたことがありません。彼は、「神は失望したクリスチャンを用いることは決してありません。」と言ったのです。私はそれを吟味し、理にかなっていないと結論付けました。失望は、確かに当時私自身が直面していた問題であり、ビリー・グラハムがそのように言うことは良くないと考えたのでした。

彼は、完全な失望の中にあって酒ぶねの中で小麦を打ちながら隠れていたギデオンを例に挙げました。御使いがギデオンのところに来て、予想もしなかったことを告げました。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」(士師記6:12)。ギデオンは、御使いが誰に向かって語っているのかと、あたりを見回したでことしょう。なぜなら、彼はミデヤン人を恐れて縮こまっていたからです。主はギデオンとともに行動する前に、彼の持っていたセルフイメージを変えなければならなかったのです。

それは、私たちにも当てはまります。もし、私たちが信仰の目を通して自分自身を見ることができないなら、とても神の奉仕のためにふさわしいとは言えません。別の光に照らして物事を見ない限り、自分自身への誤った否定的なイメージは、神が私たちのためにしたいと思っておられるすべてのことにおいて失望となるでしょう。私はみなさんに失望に対する基本的な聖書の答えと、その種の霊的攻撃への対処法をお話ししたいと思います。

私たちに必要な備え

エペソ 6 章には、戦いの武具の6つが書かれています。真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の靴、信仰の大盾、救いのかぶと、御霊の剣です。これらは、単に空想的な名称や神学的洞察ではありません。これらは、私たち一人一人が手にする必要のある非常に具体的な本質です。その6つの武具のうち2つを取り上げ、霊的失望の攻撃を阻止する具体的な方法を聖書から分かち合いたいと思います。

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」(エペソ 6:12-17)

私の学んできたことと数多くの現代翻訳に基づいて、最初の節は、次のように読むのがさらに正確であると、私は信じます。「私たちの格闘は、肉体を持った人間に対するものではありません。」これは、非常に鮮明です。つまり、私たちは人間の存在と闘っているのではありません。あなたの姑が問題ではなく、さらにはスターリンやヒトラーのような独裁者が問題なのでもありません。

「私たちの格闘は、肉体を持った人間に対するものではなく、権威の領域の支配者に対して、また今現在の暗闇の世界の支配者に対して、天にいる悪霊の力に対してです。」

武具を着ける

私たちは、恐ろしいほどの力を持ち、高度に組織化され、完全に私たちと神、そして神の民の側に立つすべてのものに敵対する見えない霊的人格との闘いに、全面的、徹底的に携わっているのです。彼らの本拠地は天にあり、私たちにあらゆる形で霊的圧力をかけ、どんな方法であれ私たちを打ちのめすのです。その事実の論理的結論として、パウロは13節で言っています。「あなたは武具を着けなければならない。さもなければ、あなたは敗北者となります。」それは非常に論理的で具体的な結論です。

誰であっても、最初に武具を着けずに、霊的戦いや神の国を建て上げることに関わることは、私はお勧めしません。なぜだと思いますか。私を信じてください。それは、あなたが悪魔を攻撃するとき、悪魔は反撃をし、ルールに従わずに戦ってくるからです。

「ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。」(エペソ 6:13)

パウロは邪悪な日が来ることを想定しています。私は、これは大患難のことを言っているのではないと思います。すべてのクリスチャンがそれぞれの邪悪な日を経験するという意味です。イエスが岩の上と砂の上に家を建てた 2人のたとえ話をしており(マタイ 7:24-27)、イエスは「もし、風や雨が来るなら...」とは言わず、「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いて...」と言いました。それぞれの家は同じ試練に会いました。

イエスは種まきをする人のたとえを話されたとき、こう言われました。「みことばのために困難や迫害が起こると...」(マタイ 13:21)。イエスは、「もし」とは言いませんでした。迫害が来ることは当然であるとみなしたのです。すべてのクリスチャンは困難や迫害に会うとき、邪悪な日を経験しなければならないのです。パウロが使徒の働き 14:22 で言っているように、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」のです。他の道はありません。

ですから、まず私たちは、しっかりとそれを思いに刻み付ける必要があります。自分が大きな圧力の下の邪悪な時代にいると気づくとき、何かが間違っているという意味ではないことを覚えておいてください。それは、私たちが神のみこころの外にいるという意味ではありません。反対に、私たちが神の国に入る途上にいるという良いしるしでしょう。

パウロが武具として6つ挙げているうちの2つだけについてお話ししたいと思います。胸当てと大盾です。他の4つも不可欠ですが、この学びの目的のためにその2つに焦点を当てたいのです。主に個人的な経験から、その胸当てと大盾の機能を具体的にお分かちします。

胸当て

初めに、Iテサロニケ5章の、エペソ6章と並列している興味深い箇所に注目しましょう。

「しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。」(8 節)

エペソ 6:14は、「正義の胸当て」と言っていますが、Iテサロニケ 5:8では、その正義とは何かをさらに特定して私たちに教えています。それは、自分の努力や良い行ないの正義ではなく、愛によって働く信仰による義です(この信仰のテーマは、これらの武具と守るべきからだに不可欠な器官の中心です)。

胸当てが守る、からだに不可欠な器官とは何ですか。心です。心を防御することは、愛によって働く信仰を通した正義の胸当ての目的です。聖書的信仰は頭の中にではなく、常に心の中にあることを忘れないでください。たとえば、ローマ 10:10は言っています。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」 本物の信仰とは、単なる知的概念や神学、教理ではありません。それは、第一のものである、愛によって働く心の信仰です。

これに関連するガラテヤ 5:6 を見てみましょう。

「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」

これはシンプルですが、奥深いことばです。私たちは、クリスチャン生活のすべてにおいて、本当に重要なことは愛によって働く信仰だけであることを決して忘れないでいましょう。私たちはあらゆる種類の神学的疑問の答えを持っているのに、中心的な本質である愛によって働く心の信仰を欠いているという誤解をし得るのです。愛によって働く信仰なしでは、あなたはすべてにおいて欠けてしまいます。

心を守る胸当ては、愛によって働く信仰です。胸当てが外されてしまうと、私たちの最も重要な器官である心がむき出しになってしまいます。

信仰の性質を考えるとき、それは決して目に見えるものではなく、常に目に見えないものに関連していることを理解する必要があります。IIコリント 5:7で非常にシンプルに、「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」と言っています。「歩む」とは、「生きる」の意味です。私たちのクリスチャンとしての生涯は、見えるものにではなく、信じるものによっています。見えるものによらず、信仰によって、です。その2つは互いに正反対のものです。もし、私たちが見えるものによって歩むなら、信じているものによって歩んでいないことになります。

すべての問題は、人類が犯した最初の間違いから始まったのです。エデンの園で蛇が神のことばについて疑問を投げかけたとき、エバはその疑問を受け入れ、失敗しました。創世記 3:6はエバが答えるときにどんなプレッシャーがあったかを私たちに教えています。「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く...」。ここでカギとなることばは、「見る」です。エバは目に見えないことばにおける信仰の領域から、自分の目に映るものを信頼へと移ってしまいました。次の瞬間、エバは打ち負かされたのです。この同じ原則が私たちにも当てはまります。私たちが見えるものによって歩むときは、悪魔に打ち負かされているのです。私たちは見えるものではなく、信仰によって歩まなければなりません。

心を守る胸当ては、目に見えない神と神のことば、そして愛によって働く信仰です。その信仰を捨てる瞬間、私たちは真に愛することを失ってしまいます。ある人は、「愛は信仰より重要だ」と言います。そうかもしれませんが、愛する唯一の方法は信仰によります。信仰が愛によって働くので、胸当てを下ろした瞬間、私たちはいらいらし、フラストレーションを抱き、我慢できないのも不思議ではなく、配偶者に厳しい口調で言ってしまうのです。愛を生む唯一のものである私たちの信仰が去ってしまったからです。結果的に、意地悪な言葉や気まぐれな言動をもった古い人が現われてしまいます。しかし、根本的な問題は何でしょうか。胸当てが下ろされてしまったからです。

大盾

胸当てが心を守るなら、大盾はその人全体を守ります。ローマ時代、大盾の使い方を知っているなら、飛んでくる火矢が身体のどの部分にも当たることはありませんでした。同様に、信仰の大盾はその人全体を守ります。

時に、私たちは信仰を、何かいつも意識的に行なっていなければならないものだと誤解します。「私は霊的筋肉を柔軟にし、信じなければならない。」 しかし、信仰とは神への信頼の態度であって、それほど行動的なものではありません。

私の先妻のリディアは、父の腕に抱かれた男の子を例に挙げていました。その子は落ちないように父親のコートの襟をしっかりつかみますが、しばらくして眠くなり、うとうとします。その子の手は緩みますが、父親は彼をしっかり抱いています。その男の子が襟をつかむことは不可欠な努力ではありませんでした。それは、神と私たちも同じことです。私たちはとどまり続けることができますが、たとえ私たちがそこを離れても、神はなおもそこにおられます。

ある意味、私たちはリラックスできるのです。信仰は、神が離れないようにと、神にしがみつく継続的な努力ではありません。そうではなく、神がそこにおられ、そこには神の永遠の武器があることをただ信じるという態度です。その態度とともに、あなたが持っている信仰の確信があるのです。

あなたは、おそらくこの3つの教えを聞いたことがあるでしょう。事実、信仰、感情、この順序です。事実は聖書にあり、信仰はそれらの事実を確信し、あなたの感情がそれらを守るのです。しかし、もし私たちが感情から始めるなら、感情のように私たちは不安定になるでしょう。事実は決して変わることはありません。感情は、常に変化します。

私たちは、自分の感情に信仰を基礎とする立場にはありません。決して変わることのない神のことばの中の事実にあなたの信仰の基礎をおいてください。神のことばは常に同じです。それを信じるには、心の決断が求められます。スミス・ウィグルスワースはかつて言いました。「私は、自分がどう感じるかによって決して動かされない。唯一私が信じるものによって動かされる。」

唯一の、永遠で変わることのない確かな事実の源は、聖書です。信仰は言います。「聖書は真理で私はそれを信じる。神はここにおられる。神は私を去らせない。私の感情は、それを守ることができる。」もし、あなたがそのような態度を持つなら、あなたの感情は事実の線上に入って来るでしょう。しかし、あなたが感情で始まるなら、あなたは、事実にたどり着くことは決してありません。神のことばの中にある事実から始めることが絶対的な優先順位なのです。

事実を知る

そうするために、あなたは事実を知らなければなりません。聖書が言っていることに注意を払はなければならないのです。

例えば、私たちの贖いの事実です。「贖う」という語は、「買い戻す」という意味です。聖書は、私たちは罪の奴隷の下にあったけれど、イエスがご自身の尊い血潮で罪の奴隷から私たちを贖い、あるいは買い戻してくださったと言っています。その事実はどこに書かれていますか。詩篇 107:2でこういっています。「主に贖われた者はこのように言え。主は彼らを敵の手から贖い...」主が私たちを贖ってくださったので、私たちはもはや敵の手の中にではなく、主の手の中にいるのです。

また、コロサイ 1:12-14を読んでみましょう。

「また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」

神が私たちを暗闇の圧制、すなわちサタンの王国から救い出し、キリストの王国へと移してくださったことは事実です。このように、私たちは贖いと罪の赦しを得ています。私たちはもはやサタンの領土にも、サタンの支配下にもありません。信仰を持っていない、キリストを拒絶する人々、反抗者、不従順な人は、サタンの支配下にあるのです。しかし、私たちはそうではありません。

私たちが悔い改め、自分自身をイエス・キリストに明け渡し、イエスを主としたとき、霊、たましい、からだが、サタンの王国からキリストの王国へと移されたことは事実なのです。

ですから、私たちはもはや、自分の感情によるのではなく、神のことばの見えない領域からの事実を信じています。その信仰の大盾は生活のあらゆる領域を覆います。その大盾を突き通すことができる火矢は一つもありません。

このように、敵が私たちを失望させようとするときのために、神は私たちに効果的な武具を与えてくださっています。必ず来る攻撃に対する防御として他の4つの武具も含めてそれらを着けることで、日々自分自身を整えることを忘れないでいるとき、聖霊において勝利に立つことができるように、神は私たちの信仰と希望を必ず強めてくださいます。

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