私は、長年のミニストリーの中でたびたび聖霊について教えてきました。その中で、聖霊をより良く理解することが、私たちを神の御国のためにさらに効果的にさせる、ということを経験しています。私たちの人生の中で、イエスのミニストリーを継続させるお方は、聖霊なのです。

聖霊の一つのカギとなる働きは、私たちの導き手であることです。聖霊は私たちの生涯を導くために、父なる神から遣わされました。ヨハネの福音書 16章1節でイエスは言われています。

「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」

ローマ人への手紙 8章14節で、パウロは、私たちが神の子どもとしてどのように生きるのかを、具体的に説明しています、それは、聖霊に導かれる者であるということです。

「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」

ここで使われている時制は、現在形です。いつも神の御霊に導かれている人は、だれでも神の子どもなのです。この「子ども」という単語は、成熟という意味です。幼い子どもという語ではなく、成長した子どもです。神の子どもとなるために、私たちは神の御霊で新生しなければなりません。イエスは、このことをヨハネ3章で、非常に明確にしています。しかし、いったん新生すると、成長し、成熟し、完全にされるために、私たちはいつも聖霊に導かれる必要があります。

悲しいことに、新生したクリスチャンの多くが、まったく聖霊に導かれ続けていません。結果、その人たちは決して成熟に達することがありません。神が意図されている、成熟したクリスチャンになることが決してないのです。ですから、この「聖霊に導かれる」というテーマの学びは、極めて重要です。

義を達成する

聖書は、神の義を得るための二つの方法として、律法と恵みを取り扱っています。その二つは互いに矛盾しています。もし、あなたが律法による義を得ようとするなら、恵みによる義を得ることはできません。また、恵みによる義を得ようとするなら、律法を守ることによる義を得ることはできません。このことに注目することは重要です。というのは、私は多くのクリスチャンが、律法と恵みを混同していることを見てきたからです。

彼らは部分的に律法によって、そして部分的に恵みによって、神との良い関係を保とうとしています。実は、彼らは律法も恵みも理解していません。

律法は、守らなければならない規則です。あなたが常にすべての規則を守ることができるなら、義を得ます。一方、恵みは、私たちが努力して得られるものではありません。エペソ人への手紙 2章 8節にあるように、恵みは神から一方的に受け取るものです。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。」

私としては、神ご自身だけが、信仰による義を達成する方法を生み出すことができると思っています。自分の思うままに生きている生まれつきの人間は、義を達成する方法を考え出すことが決してできないと私は考えます。私の知る限り、他の主な宗教は、何かの行ないによって義を得ることを人々に要求します。それぞれの宗教で異なることが要求されますが、本質的には、それらの宗教はすべて次のような考え方です。「これこれを行ない、これこれをしないなら、義とされる。」

私たちの理解が正しければ、キリスト教信仰は絶対的に独特なものであるということです。他のいかなる宗教も、信仰のみによって受け取る恵みに基づいた義を提示しようとすることさえありません。しかし、神の恵みに応じるとき、神は罪の支配から解放する力をあなたに与えてくださいます。ローマ人への手紙 6章8節で、パウロは神の恵みを受け取った人々にこう語っています。

「というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」

この二つが互いに矛盾していることに注目してください。あなたが律法の下にあるなら、あなたは恵みの下にありません。あなたが恵みの下にあるなら、あなたは律法の下にはありません。あなたは、同時にこの両方の下にあることはできないのです。

私はまた、あなたがたは律法の下にないので、罪はあなたがたを支配することがないと、パウロが言っていることにも注目しています。ここで言われていることは、あなたが律法の下にあるなら、罪があなたを支配するということです。もし、私たちが律法を守ることによって義を得ようとするなら、私たちは決して罪の支配から逃れるとこはできません。

ローマ人への手紙8章14節をもう一度見てみましょう。

「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」

私たちは、決められた規則を守ることによって、神の子どもとして生きるのでしょうか。違います。私たちは聖霊に導かれていることによって、神の子どもとして生きるのです。それこそが、成熟した神の子どもとして生きることができる唯一の方法です。

では、ガラテヤ人への手紙5章18節を見てみましょう。

「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。」

繰り返しになりますが、メッセージは明らかです。あなたは、聖霊に導かれて神の子どもとなります。そしてあなたが聖霊に導かれているなら、あなたは律法の下にはいないのです。

しかし、信仰を公言している多くのクリスチャンは、規則に従うことが松葉づえのようになっています。彼らは、倒れないように松葉づえに寄りかかって、足を引きずって歩き回ります。神は言われます。「松葉づえを捨てて、私に信頼しなさい!」私は、神の恵みに完全に信頼することは、人々にとって恐れであるということに気づきました。私たちは、自分たちが守っているわずかな規則にしがみつきたいと願うのです。それが、私たちの松葉づえです。しかし、それは役に立ちません。私たちは、聖霊に完全にゆだねるようにならなければなりません。

義と聖への神の方法は、苦悩を通してではなく、聖霊に明け渡すことによります。あなたは努力の末に言います。「聖霊さま、おゆだねします。私はこの状況をどうすることもできません。でも、あなたにはできます。」あなたには、意志の力が必要ないという意味ではありません。別の方法で、あなたの意志の力を用いる必要があるということです。あなた自身が努力するという意志の用い方ではなく、聖霊に信頼するという意志を用いるのです。

私は生まれつき独立心が強い、意志が強い人間です。問題があると、常に本能的に自分自身で解決しようとします。自分で解決しないというところまでたどり着くのに、何年もかかりました。自分で解決しようとする代わりに、「主よ、あなたの解決は何ですか」と言うことがなかなかできなかったのです。神の解決方法はしばしば、私が思いもよらなかった、まったく別のものです。クリスチャンの生き方は、苦悩の生き方ではなく、私たちの内におられる聖霊にゆだねる生き方です。

ローマ人への手紙 7章で、パウロはそのことを結婚関係にたとえています。あなたの人生の実は、あなたの努力の度合いによって決まるのではなく、あなたが結婚した人によって決定づけられるということです。もし、あなたが肉的な欲求で結婚したなら、あなたは肉の実を結ぶでしょう。しかし、聖霊によって復活のキリストと結ばれるなら、その一致を通してあなたは御霊の実を結ぶでしょう。

とどまり続ける

ヨハネの福音書 15章1節でイエスは、ご自身と私たちの関係をぶどうの木とその枝にたとえています。

「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です・・・刈り込みをなさいます。」

4-5節でイエスは、弟子たちに続けてこう言っています。

「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません・・・わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」

ぶどうの枝は、大変な努力をして実をつけるのではありません。枝が、「さあ、今からぶどうの実を実らせるぞ!」と決意して言うのではありません。単にぶどうの木の幹につながっていることで実をつけるのです。幹の中にある同じ命が枝の中に流れ、枝の中の命がふさわしい実を結ぶのです。イエスは言われました。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。あなたがたがわたしにとどまるなら、あなたがたは多くの実を結びます。」

イエスは続けて刈り込みの話をされます。農夫はぶどうの木を刈り込むとき、ためらいません。枝の根元の幹のところで枝を切り落とします。あなたは、ぶどうの木はもう二度と実を結ばないと思うかもしれません。しかし翌年、それは以前より多くの実を結ぶのです。

私たちの大きな痛みを伴う苦悩のいくつかは、実を結ぶことにつながるかもしれません。今、父はあなたの刈り込みをしておられるかもしれません。しかし、あきらめないでください。「どうしてこんなことが私に起こったのか。」と言わないでください。ただ、ゆだねてください。農夫に明け渡してください。

三位一体の3つの人格は、実を結ぶこのプロセスに関与しています。父は農夫です。イエスはぶどうの木です。そして、聖霊はぶどうの木と枝の中を流れるいのちです。実際に実を生み出すものは、聖霊です。それは、私たちの最善の努力による実ではありません。宗教の実でもありません。それは、聖霊の実です。

地図?それとも案内人?

これを鮮明にしているたとえ話を分かち合いましょう。私自身の経験からのものです。自分の努力で神を喜ばせようとする苦悩がどういうものであるかを私は知っています。私は時に、より「宗教的」であろうとしてきました。しかし、大きなフラストレーションを感じてきたのです。どうすればいいのかわかりませんでした。しかし、私が学んだことは、これがまさに、私たちのイエスとの歩みを生き生きとさせるプロセスの一部であることです。

このたとえは、地図と案内人についてです。仮に、あなたがある場所から、一度も行ったことがない地方の離れた目的地に行く道を知る必要があるとします。神はあなたに2つの選択肢を与えます。地図を手に入れるか、個人的な案内人を手に入れるかです。

あなたは強く、賢く、また自立心が強い人です。神は言われます。「あなたは、地図と案内人、どちらを望みますか。」あなたは答えます。「私は地図を見るのが得意なので、地図にします。」あなたは、どの方向へ行けばいいのかわかっていて出発します。太陽は輝き、鳥たちは歌い、あなたは幸せな気分です。そして自分にこう言います。「簡単だよ。朝めし前だ。」

三日後、あなたはジャングルの真ん中にいます。真夜中です。雨も降っています。苛酷です。さらに、あなたは崖っぷちに来てしまいました。東西南北もわかりません。しかし、やさしい声が語りかけます。「案内しましょうか?」そしてあなたはこう答えます。「ああ、あなたが必要です、必要なんです!」その案内人は言います。「あなたの手を出してください。ここから出してあげましょう。」少し経つと、あなたと案内人は再び道路へと出てきて一緒に歩きます。

そのすぐあとで、あなたは、「あのジャングルにいるというだけでパニック状態になり、私は本当にばかげていた。自分でもなんとかできたはずなのに。」そして、案内人にそれを説明しようと振り返ると、案内人はもうそこにはいません。そして、あなたは肩をすくめて言います。「なんだ、自分でできたじゃないか。」そして再び出発します。

二日後、あなたは沼地の真ん中におり、歩くたびに少しずつ沈んでいきます。どうしていいのかわかりません。そして、こう思います。「もう一度助けを求めることはできない。前回、助けが来たが、助けを求めたことは間違っていたんだ。」

今回、あなたはその案内人が再び真横にいるので、驚きます。案内人は言います。「あなたを助けましょう。そしてもう一度一緒に出発しましょう。」

ここで、あなたのポケットにはまだ地図が入っていることを思い出します。そしてそれを案内人に見せ、言います。「たぶんこれがいるでしょう。」しかし、案内人は答えます。「ありがとう。でも、私は道を知っているので、地図はいりません。実は、その地図を作ったのは、この私です。」

もちろん、その地図は律法です。それは完璧です。詳細のすべてが全く正しいのです。地理の一つ一つが正しく記されています。「この地図は持って行かない。案内人を信頼する」と言う決心は、あなたにかかっています。

個人的な案内人とはだれのことですか。もちろん、聖霊です!

そのようなことが何度起こる必要がありますか。私たちは自分の知恵と器用さを信頼し、そのように聖霊を無視するようなやり方を、いったい何度してしまうことでしょうか。

案内人を信頼した花嫁

創世記 24章は、アブラハムが息子イサクのための花嫁をどのように得たのかという鮮明な記録です。アブラハムは、当時の習慣の必須条件に従って、自分の家系の若い女性から見つけるために、しもべをメソポタミアの地に遣わしました。

この物語は、歴史で実際に行なわれたたとえでもあります。アブラハムは父なる神の型です。イサクは御子イエス・キリストの型です。選ばれた花嫁(リベカ)は教会の型です。そしてもう一人、名前の出てこない主役のしもべがいます。しもべは、聖霊の型です。創世記 24 章には、聖霊の自画像が含まれています。聖霊自身の名前さえないのが特徴です。聖霊はご自身には決して注目を浴びさせず、常に父と御子への栄光をもたらすために働いています。

しもべは、さまざまの贈り物の荷を積んだ10頭のらくだと、花嫁を選ぶのだという思いをもって旅立ちました。中東では、重要な選択や関係を築くときには、いつも贈り物をし、その贈り物が受け取ってもらえたら、あなたは受け入れられたということになります。贈り物を拒否されたら、あなたは拒否されたのです。これは、どのような人間関係においても絶対的に重要な部分です。

私は、世界のそのような地域に住んだことがあるので、らくだがどれほど多くの荷物を運ぶことができるかを語ることができます。しもべは10頭以上ものらくだと旅をしているのです。彼は、らくだに水を飲ませる場所に着き、祈ります。「私は、この町の若い娘たちの一人に水を飲ませてくださいと頼みます。選ばれた若い娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう』」と言うようにしてください。」(一頭のらくだは180リットルの水を飲むことができます。ですから、その選ばれた娘は1,800リットルの水を汲むことを申し出ることになります。)

ここで、リベカがやって来て、しもべは言います。「どうか、少し水を飲ませてください。」リベカは答えます。「もちろんです、あなたのらくだにも水を飲ませましょう。」そして、しもべは独り言を言います。「これこそ、その娘だ。」リベカは信仰と労働の模範であることを付け加えたいと思います。10頭のらくだに水を飲ませることは、かなりの労働です。

それから、しもべは素晴らしい宝石を取り出し、リベカの額につけます。彼女が宝石を受け入れた瞬間、その宝石は、示された花嫁としてのしるしとなります。もし、リベカが宝石を拒否していたらどうなっていたでしょうか。彼女は決して花嫁にはなりません。聖霊の賜物を拒否する教会には、何と言ったらいいのでしょうか。花嫁としてのはっきりとしたしるしを欠いていることになります。

リベカは、地図を持ったことがありませんでした。案内人が連れて行こうとする場所に行ったこともありませんでした。結婚する相手や、その父親を見たこともありませんでした。しかし、彼女には道を知っている案内人がいました。案内人は父と子を知っていました。案内人は、彼女に必要な情報を提供することができました。

それは、あなたや私にも当てはまることです。私たちは、それを地図によってすることはできず、案内人が不可欠です。この人生において私たちは、父や御子、私たちの目的地を決して見ることはできないかもしれません。しかし、聖霊が私たちを導き、道を示してくださいます。また、父と御子についての情報源となってくださいます。

今日、時間を取って、神に聖霊を感謝しましょう。

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