すべての人のあるべき姿をとられた唯一のお方

「それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに『さあ、この人です。』と言った。」(ヨハネ 19:5)。

ピラトはこの言葉を発したとき、自分がゼカリヤ書 6:12 の「見よ。ひとりの人がいる。」という預言の引用と成就の両方をしているということを知っていたのでしょうか。あり得ません。しかし、ゼカリヤのことばは、群衆の前にイエスを連れ出して言った、ピラトの言葉とまさに同じく、イエスを指しているのです。

ピラトが用いたギリシャ語の言葉は、性別に関係なく、人類の一員としての「人」を意味しています。しかし、ゼカリヤが用いたヘブル語は、女性ではなく、男性としての「人」を表わします。人類としての人、男性であること、これら両方の意味がイエスに当てはまります。イエスは人間として、男性として、完全な肉体を持ったお方です。イエスは、すべての人のあるべき姿をとられた、ただ一人のお方です。

神が人として受肉されたイエスは、旧約聖書の預言者たちによって預言されていました。イザヤは「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」(イザヤ 7:14)と宣言しました。マタイ 1:23でヘブル語の名前であるインマヌエルは、「神は私たちとともにおられる」と訳されています。「インマヌエルの種族」は、神と人との2つの性質が一体化した「神であり人間である」種族です。

人の子

イエスがご自身のために最も用いられた称号は、「人の子」です。これに相当するヘブル語はベン・アダムで、文字通り、「アダムの子」という意味です。このように、明確にイエスをアダムの種族の一員として見なしています。これに呼応して、パウロはイエスを、「最後のアダム」(Iコリント 15:45)と呼んでいます。

イエスが真の人間であったことは、新約聖書の残りの部分全体に同様に強調されています。例えば、へブル書の著者は、イエスについてこう言いました。「そこで、子たちはみな血と肉を持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。・・・主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。」(へブル 2:14、16)。イエスは、アブラハムの直系の子孫であり、それはつまり、アダムの子孫でもあるのです。イエスは御使いの性質を持っておられたのではなく、真の人間の性質を持っておられたのです。

各福音書のイエスの系図は、独自のイエスへの表現をもって一致しています。マタイは、アブラハムにさかのぼって、イスラエルと同一視して強調しています(マタイ 1:1-17)。ルカは、アダムにさかのぼり、全人類と同一視して強調しています(ルカ 3:23-38)。ヨハネは、神とともにおられる永遠のことばとして、人間の系図なしにイエスを紹介しています(ヨハネ 1:1-2)。マルコも、同様に系図なしにイエスを紹介していますが、それは古代の習慣に従って、しもべ(あるいは奴隷)には系図が必要ないという別の理由からです。

完全な人間として受肉されたにもかかわらず、イエスが神性を失うことは決してありませんでした。イエスの中に、神と人が完全に一体となっていたのです。

バランスのとれた2つの性質

イエスの内にある、神であり人であるという2つの性質は、福音書の様々な箇所で並行して述べられています。ヨハネ 4:5-14に、イエスが人として肉体的に疲れ、ヤコブの井戸のかたわらに腰かけたとあります。しかし、そのすぐあとイエスは、神としてサマリヤの女に話します。「しかし、わたしが与える水を飲むものはだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命への水がわき出ます。」 イエスはこのことばにより、詩篇の作者が「いのちの水はあなたにあり」(詩篇 36:9)と言った、イスラエルの神としてのご自身を表わしたのです。

ガリラヤ湖で、ひれ伏して叫んだペテロの礼拝を、イエスは神として受けました。

「主よ。私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから。」(ヨハネ 5:8)

しかし、この同じガリラヤ湖で、人としてのイエスは、舟の中でぐっすり眠っていて、弟子たちに起こされました(ルカ 8:23-24)。

出エジプト記3:13-14で主はモーセに、ご自身の変わることのない御名、『わたしはある』という者であると、神性を示されました。15世紀のちに、ゲッセマネの園でご自分をとらえに来た者たちにイエスは、それと同じことば、「それはわたしです。」と宣言し、ご自身を表わしました。この聖なる御名が、まさにその本人によって宣言された時、その名には、イエスに向かって来た者たちすべてが「あとずさりし、そして地に倒れた。」(ヨハネ 18:5-6)という神の力が満ちていました。これは主の変わることのない神性のあかしです。しかしその後、イエスは人として、むち打ちと十字架の試みで辱めと苦痛に耐えました。

模範的な息子

エペソ 1:5 でパウロは、神が「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた。」と、すべての信者に言っています。ローマ 8:29でパウロはさらに、神の子としての目的を表現しています。

「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」

このように、イエスは模範となる子であり、私たちが完全と成熟に近づくために従わなければならないお方です。イエスご自身が「新しいいのちの道」で、「完全を目ざし」、「至聖所に入り」、「神に近づく」お方です(参照:へブル 6:1、10:19-22)。イエスが完全へと導かれた道、それは、私たちひとり一人もたどらなければならない道です。

成熟への道のりは、イエスの道のりのほうが私たちよりも容易であったわけではありません。イエスは、「罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」(へブル 4:15)。ご自身の人としての性質において、イエスは私たちが経験するすべての誘惑を経験されましたが、決して罪を犯すことはありませんでした。誘惑されても罪を犯さないという、そのことは私たちにとってどれほど重要なことでしょう。

完全な人間でありながら、すべての誘惑に打ち勝つことを可能にしたものは何だったのでしょう。イエスの成功の基盤は、父のみこころを行なうという、ひたむきで変わることのない動機にありました。これは、詩篇 40:7-8 でダビデによって預言的に示されていたことでした。「そのとき私は申しました。『今、私はここに来ております。巻物の書に私のことが書いてあります。わが神、私はみこころを行うことを喜びとします。』」(比較:へブル 10:7)

イエスは地上でのミニストリーの間、ご自身が行なうことすべての根底にあった動機として、このことを繰り返し明らかにしておられます。イエスは、父がご自分に課したすべての働きを終えるまで、完全で最終的な満足を得ることはできませんでした。ヤコブの井戸でイエスは弟子たちに言いました。「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」(ヨハネ 4:34)。その後、続けて2回このことを断言しています。「わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。」(ヨハネ5:30)。「わたしが天から下って来たのは、自分のみこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。」(ヨハネ 6:38)。

地上の生涯を終えるときの大祭司としての祈りで、イエスは父にこのように言うことができました。「あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。」(ヨハネ17:4)。ついに、十字架上での最後の苦痛の瞬間、偉大な勝利の叫び、「完了した。」と宣言されました(ヨハネ19:30)。ご自身のいのちという代価に、揺るぐことも、たじろぐこともなく、イエスは父から課された働きを終えたのです。その確信によって、イエスはご自身の霊を父の手にゆだねました(ルカ 23:46)。

イエスを罪から遠ざけ、完全な勝利へと運んだその同じ動機が、私たちにも同様に勝利を与えてくださいます。私たちは神の子どもとして天の父のみこころを行なうという、人生の最高の目的へのひたむきな決心をしなければなりません。その他のあらゆる個人的願望や思いは、この一つの最優先の動機に従わせなければなりません。時にはくじけたり、つまずいたりするでしょうが、罪は決して私たちを再び支配することはなく、最終的に勝利は私たちのものとなります。

正義と真実の緊張感

イザヤ 11:5で、預言者はイエスのご性質に関する 2 つの要素を明らかにしています。「正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。」 正義は神に対する正しい態度で、真実(あるいは誠実)は人に対する態度です。その順序は重要です。正義は真実の前に来ます。神に対する私たちの義務が最初です。神への義務をさまたげる、人への約束をする自由は私たちにはありません。いったん神の主張を認識すると、真実は、私たちがすべての義務と献身を守ることを要求するのです。

正義と真実の和解には、常に緊張感が秘められています。その緊張感とは、神の要求と人の要求を正しく合致させることにおいてです。イエスの生涯と教えは、この正義と真実の間にある緊張感をどのように解決するかを、様々な例をもって私たちに提供しています。

モーセの律法を説明するイエスは、正しい順序でその2つの重要な基本的命令を述べています。第一に、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」、第二は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マタイ 22:36-40)です。イエスご自身の生涯は、完全さにおいて、これら両方の愛の実例となっており、優先順位は常に正しいものでした。

新約聖書に記録されているイエスの少年時代の唯一の出来事で、この2つの義務の間の緊張感が初めて現われています。12 歳の時、過越の祭りのために、イエスはヨセフとマリヤにエルサレムに連れられて行きますが、ナザレに戻る帰路についた一行から離れて宮にとどまっていました。ようやく、ヨセフとマリヤはエルサレムに引き返してイエスを見つけました。「イエスが宮で教師たちの真ん中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられた」(ルカ2:42-46)。

マリヤはイエスに言いました。「見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」しかし、イエスは、「わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」と答えました(ルカ 2:48-49)。これらの節にある、父という言葉には二重の応用があり、神と人への二重の義務を明らかにしていることに注目してください。イエスが実質的に言っていることは、「天の私の父の言われることは、地上での私の父よりもが優先されるのです。」です。しかし、話は続きます。「それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親(ヨセフとマリヤ)に仕えられた。」(ルカ 2:51)。天の父への義務を成し遂げたイエスは、地上の父であるヨセフへのすべての義務に対しても忠実でした。イエスは、すべての点において模範的息子で、神に対する正義とヨセフに対する真実さを兼ね備えていました。

のちに、イエスは公生涯に入った時、母と兄弟たちが彼に話そうとしていた時のことです。「イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。『見なさい。わたしの母、私の兄弟たちです。天におられる父のみこころを行う者はだれでも、見なさい、わたしの母、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。』」(マタイ 12:46-50)。ここで、再び優先順位の微妙な解決があります。従順により生まれる、父なる神と弟子たちとの霊的関係は、自分の母や兄弟たち(その時点で彼らは弟子ではなかった)との単に自然な関係以上に優先されました。

しかし、十字架上のイエスの最後の行動は、愛する弟子ヨハネに母をゆだね、一人の息子として自分の死後に母の世話をさせることでした(参照:ヨハネ 19:25-27)。ご自分を産んでくれた母に、イエスは人としての最後の義務を誠実に成し遂げました。

なおも永遠の人

受肉によってイエスが真の完全な人となられたのは、実に驚くべきことです。しかし、何よりも驚くべきことは、イエスが決して人であることをやめなかったことです。受肉の事実を認める一方で、多くのクリスチャンが、イエスが33年間の短い期間だけ人であって、現在はもはや人ではないと考えています。しかし、新約聖書の教えは異なっています。

イエスが昇天されて、少なくとも30年後にパウロはテモテに書いています。「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(Iテモテ 2:5)。ここでパウロが言っていることはすべて現在形です。イエスは、今も人であられます。神の右に座しておられるお方は、天と地とにおいてすべての権威を持ち、すべての御使い、支配、権力を治めておられます。(参考:マタイ 28:18、エペソ 1:20-21、Iペテロ 3:22)

神の右に座しておられる、神であり人であるというこの奥義を、預言的視点から詩篇の作者ダビデは、こう叫んでいます。

人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。(詩篇 8:4-6)

「人とは何者なのでしょう。」という質問に、完全で決定的な答えを提供できるお方、神の右に座し、神であり人であるイエスの奥義を思い巡らしてみましょう。

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