神が私たちのために備えてくだっている約束の相続があることを、ほとんどのクリスチャンは知っています。しかしな がら、多くのクリスチャンはその相続が実際にどのようなかたちで来るかを知らずにいます。その結果、彼らはその相続の中へ入ることができず、神が意図されているその約束を宣言することもできないでいます。

その原則を理解するためにカギとなる聖句は、Ⅱペテロ 1:2-4です。

「神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。 というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、 神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。 その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」

この聖句で 2つのフレーズを覚えておいてください。「神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。」と、「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。」です。

私は時に、ペテロの手紙に驚かされます。彼は比較的無学でしたが、その手紙には、高度な教育を思わせる概念と、ことばによる素晴らしい真理が書かれています。もちろん、ペテロは、今日もなお世界で最高の教育者である 聖霊を通して教育を受けました。

重要ポイントをとらえる

論理的順序に従って、ペテロがこの聖句で言っているいくつかのポイントを示したいと思います。2節から始めましょう。「恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。」最初のポイントは、神の私たちへの備えは豊かだということです。神はケチではありません。神は貧乏ではありません。神は金銭的に困っていません。神は宇宙のすべてのものの創造者であり、源です。神が私たちのために備えてくださるとき、豊かに与えてくださるのです。

ペテロは、その恵みと平安がどこから来るのかをその前に言っています。「神と私たちの主イエスを知ることによって…」これは、神のすべての備えは、神とイエスを知ることによって来ることを示しています。私はそれをこのように表現します。神だけが源であり、イエスが唯一の道である。

そして、3節の最後に驚くべきことばが見られます。「神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。」その動詞の時制は、実は過去分詞形で、つまり、「すでに」与えられていると言っているのです。その事実を握っていてください。なぜなら、それを逃すと、神の備えの本質を理解することができないからです。

3節では、イエスがすべてであるというテーマに戻っています。「私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって…」この概念は、ペテロが2度も言っているように非常に重要です。しかし、3節で訳されている、「知った」という単語は、2節で訳されている、「知る」という単語と全く同じなのではありません。3節の「知った」はギリシャ語では、「認める」の意味です。ペテロはイエスについての知的、あるいは神学の知識のことではなく、イエスを認める、すなわちイエスが誰であるかを理解し、私たちの人生の中で正しい位置にイエスを置くことについて言っているのです。

それらの4つのポイントを復習しましょう。

  1. 第一に、私たちのための神の備えは、豊かである。
  2. 第二に、神がすべてのものの唯一の源、イエスが唯一の道である。
  3. 第三に、神の力は私たちが必要とするすべてのことをすでに与えてくださっている。神はすでにそれをなされた。
  4. 第四に、人としてイエスを知ることがすべてであり、イエスを主として私たちの人生の中に正しい位置に置く。

私たちが見逃しているもの?

今、あなたは自分の人生を見てこのように言うかもしれません。「もし、神がそれを与えてくださっているとしたら、私にはわかりません。私は信者ですが、自分の人生では必要ばかりです。私はクリスチャンとして、また神の民の一人として最善を尽くしています。」

もし神が、すでにすべてのものを与えてくださっているなら、それはどこにあるのでしょうか。なぜ、私たちはそれを持っていると思えないのでしょうか。一見すると、矛盾に思えるこのことについて、何年も前に聖霊が私に示してくださった重要な洞察を分かち合いたいと思います。それは、4節に基づいています。

「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。」

前の節に、「神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。」とありました。この節では、「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。」とあります。結論は何でしょうか。それは、非常に単純で理論的です。私たちのすべての必要は、神の約束の中にあります。神は私たちに約束を与えてくださり、それらの約束の中で、時にかなって、また永遠に、私たちに必要なすべてのものを与えてくだっています。私はこのように表現したいと思います。備えは約束の中にある。

ですから、多くのクリスチャンが必要を欠いているのは、神の備えがどこにあるかを見出していないからです。それは約束の中にあります。備えを受け取るために、あなたは神の約束を知らなければなりません。また、その約束をどのように宣言するか、すなわちどのようにその約束の中に入り、手にするかを知らなければなりません。

約束によって変えられる

必要な約束を私たちが見出し、それを宣言し、人生に適用し始めるとき、2つの驚くべき結果が伴います。4節です。

「それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」

神の約束の宣言には2つの結果が伴います。一つはプラスの結果で、もう一つは引き算となる結果です。プラスの結果とは、私たちが神ご自身のご性質にあずかるものとなることです。それは素晴らしいことです。もし、それが聖書のその箇所になかったら、私はそのように大胆に言うことができません。しかし、はっきりと言われているのです。その約束のゆえに、私たちが神のご性質にあずかる者となるのだと。神ご自身のご性質が私たちの内に入り、私たちはさらに神に似た者とされていきます。

そのプラスの結果は、世にある欲のもたらす滅びを免れ、という引き算の結果を私たちにもたらします。私たちの古い堕落した性質は、道徳的、霊的、肉体的において基本的に腐敗です。しかし、神のご性質が入ってくるとき、その私たちの堕落の性質の腐敗は、神の朽ちないご性質にとって代えられます。ですから、私たちは神の約束を受け取ると、新しい性質、人格、人生が私たちの内に入って来るのです。

この新しい性質をあずかることは、私たちを非常に重要で素晴らしい結論に導きます。最終的に、神ご自身が私たちの相続となられるのです。祝福ではなく、経験でもなく、私たちの最終的な相続は神ご自身です。経験や祝福、賜物などは、みなとても素晴らしいものです。しかし、神の本当の目的は、私たちが神の約束によって神ご自身を相続することです。

備えの7つの真理

次の7項目は、この学びの核となるⅡペテロ1:2の中の神の備えについての真理をまとめたものです。

  1. 1.神の備えは、豊かである。
  2. 2.神はその唯一の源、イエスはその唯一の道である。
  3. 3.神の力は、私たちに必要なすべてをすでに与えてくださっている。
  4. 4.それは、イエスを知り、認めることによって、すべてが含まれている。
  5. 5.その備えは約束の中にある。(これはすべてを理解するためのカギです)
  6. 6.約束を適用するとき、私たちは神ご自身のご性質にあずかる者となる。
  7. 7.約束を適用することに比例して、私たちは世にある欲のもたらす滅びを免れる。なぜなら、神のご性質と滅びは相いれないものであるからである。

私たちの相続を受け取る

私たちが相続に入るために実際に踏むステップは、旧約聖書のヨシュア記に見ることができます。ヨシュア記には、神の民イスラエルがどのようにして神が約束された地に入ったかが書かれています。間違いなく、ヨシュアは私たちもならうことができる模範を与えています。ヨシュア記1:1-3から始めましょう。

「さて、主のしもべモーセが死んで後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」

ここで使われている時制に注目してください。2節では、「私が与えようとしている」という現在形ですが、3節では、「あなたがたに与えている」と完了形になっています。ここから学べることは、神がいったん「私があなたに与える」という限り、それはすでに与えられているのです。私は神の民のために、すべての信者が完全な相続の中に入ることが可能とされるとき、同様のものが先にあると信じます。

先にある神の約束の視点からすると、イスラエルは神に与えられた全地に対する法的権利がありました。しかし、彼らはまだその地の所有を経験していませんでした。みなさんにこの重要な原則を理解していただきたいと思います。神が私たちに相続として約束してくださっているものの法的権利と経験的所有は異なります。

約束の中へと踏み出す

イスラエルがその地に移っていく実際の過程は、奇跡による最初の2つの成功で始まりました。奇跡はヨルダン川を渡るための道を開き、奇跡を通して彼らは最初の町エリコを占領しました。しかし、よく聞いてください。そのあと、彼らは残りの町すべてと戦わなければなりませんでした。神は言われました。「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」(3節)。経験的所有を得る唯一の方法は、求めるその地を実際に自分たちの足で踏むことです。

これは、私たちが相続を得るときに起こることと非常に似ています。旧約聖書で、ヨシュアという指導者の下で、神はご自身の民を約束の地に導きました。新約聖書では、イエスという(ヨシュアと同じ名)指導者のもと、神はご自身の民を約束の地へと導き入れました。私たちが新生し、神の子どもとなるとき、それから先、私たちは神が持っておられるすべての相続人です。パウロはローマ8:16-17でこのように言っています。

「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります・・・」

これは興奮すべきことです。私たちは神の御子イエス・キリストとともに相続にあずかるのです。しかし、そのあとに続くことばが重要です。

「私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」

私たちはすべての相続人です。すべての祝福だけてなく、苦難も相続します。私たちは苦難を飛ばして、祝福を相続することはできません。祝福を相続する条件は、「もしキリストと苦難をともにしているなら」です。

何をしなければならないか

クリスチャンとして相続を経験的に所有するために、私たちはヨシュアのレッスンを適用する必要があります。主な原則として以下をお勧めします。

  1. 神は奇跡を行なわれる。しかし、神は不必要な奇跡はなさらない。
  2. イスラエルのように、私たちはほとんどの相続のために戦わなければならない。私たちが暗闇という反対勢力に立ち向かい、打ち倒す準備ができるまで、私たちは相続にあずかることができない。
  3. 私たちは神が約束してくださったものに個人的に立ち、それを所有しなければならない。私たちがそうするとき、必然的にキリストと苦しみをともにしていることに気づく。

基本的に、私たちは2つの行動を起こさなければなりません。第一に、戦いの準備をすること、第二に、私たちの相続として求めるものの上に立つ必要があるということです。

言い換えれば、戦う!踏み込む!です。

すべての約束

私たちの相続の範囲は、神のすべての約束という豊かなものです。この真理のカギとなる聖句は、Ⅱコリント1:20です。2つの翻訳から読んでみましょう。

「神のすべての約束はこの方(イエス・キリスト)においてしかりであり、アーメンで、私たちは神に栄光を帰します。」(英欽定訳直訳)
神の約束はことごとく、この方において『しかり』となりました。それで私たちは、この方によって『アーメン』と言い、神に栄光を帰するのです。」(新改訳)

どちらの翻訳であっても、私が説明する特定の重要なポイントは出てきます。何よりも、私たちの相続は神のすべての約束を含みます。一部ではなく、すべてです。

「しかり」と「アーメン」

次に、約束は現在形です。神のすべての約束は、「しかり」と「アーメン」であって、過去形でも未来形でもありません。聖書は時にそれが持っている価値のほとんどすべてを奪ってしまう残念な方法で解釈されます。以下はいくつかの例です。「奇跡は使徒の時代で終わった。」あるいは「繁栄は千年王国のためのものだ。」それまでの間、私たちはかろうじて首の皮一枚で生き延びているかのようです。しかし、この聖句は、約束は今のものであるとはっきりと言っています。

神は約束をしておいて、のちに心変わりをするようなことはありません。神は「私はこれをしよう。」と言っておいて、のちにあなたが神のもとに行ったときに、「やはりそうするかどうかわからない。」と言うことはありません。ここに、私たちには聖書全体で最も強調され、ポジティブな聖句があります。「神の約束はことごとく、この方において『しかり』となりました。」ただわかりやすく、シンプル、明確な強調の「しかり」です。

しかし、神の「しかり」に付け加えるものがあります。新改訳では、「私たちは、この方によって『アーメン』と言い、神に栄光を帰するのです。」アーメンという語は、「その通りです」、あるいは、「みこころがなりますように」という意味です。神が「しかり」と言われるとき、私たちは「アーメン」と言うことがふさわしいのです。これは、まさに今この時に約束を私たちのものとしてくれます。

ある人が数えたところ、聖書には約8,000の神の約束があるということで、私たちが必要とするとき、それらはすべて私たちに与えられるのです。これはカギとなるⅡコリント1:20を要約する方法です。「私の状況にぴったりで必要を満たすすべての約束は、今私のものである。」

条件を満たす、確信を維持する

終わりにあたり、多くのクリスチャンが見過ごしている、神の約束を求める重要な要素を挙げましょう。ほとんどの神の約束は条件付きです。ほとんどの場合、神は約束を与えるとき、こう言われます。「もし、あなたがこれこれをするなら、私はこれこれをしよう。」私たちが最初に条件を満たさない限り、約束を求める権利はないのです。

私たちはまた、神の約束の成就は私たちの状態によるのではないことを理解する必要があります。それは、私たちが神の条件を満たすことにかかっています。私たちはその条件に視線を保ち、信仰が状況に左右されることなくその条件を満たすことを確認します。信者が自分に必要な約束を見出すときによく起こることですが、その人がそれを求め始めるとき、代わりに自分の好ましくない状況を見て、こう結論付けます。「なるほど、その通りだ。神はその約束をされた。しかし、今の私の状況では何も起こらないだろう。」それこそが、多くの人が相続を失うところなのです。

アブラハムの例を見てみましょう。神はアブラハムに一人の息子を約束しましたが、アブラハムは99歳になっており、子どもはまだいませんでした。

なぜ、神は私たちが求めている約束を成就する前に、しばしば不可能に思えるようなところへ私たちを置かれるのでしょうか。私は、2つの具体的な理由があると信じます。まず、私たちが自信を失うようにです。私たちはそれをなさるのが神であることを知ることになります。それが、アブラハムがたどり着いたところです。彼は、その約束が成就されるには、当然可能性がないことを知っていました。ですから、彼はただ神だけにフォーカスしなければなりませんでした。

2つ目の理由は約束がなされるとき、すべての栄光が神のものとなるからだと、私は信じます。自分の努力でそれができる可能性がある時、私たちは自分の手柄にするかもしれません。しかし、自分の努力でそれを成就できない状況に置かれるとき、そして自信を消失したとき、すべての栄光は確かに神に帰されます。

アブラハムにならいましょう。神の条件を満たすために、私たちの状況を越えて踏み出しましょう。そして、主の約束に含まれる素晴らしい相続の中へ入ってください。

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