父親のリーダーシップ

Teaching Legacy Letter
*First Published: 2007
*Last Updated: 2025年12月
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神は、父としての役目においてリーダーとしての最大の特権と責任を結合しました。このテーマは聖書の最初から最後まで駆け巡っています。洪水の前の恐ろしい悪に満ちた時代に、神の目にかなった一人の人、ノアがいました。神はノアに言われました。「あなたとあなたの全家族とは、箱舟に入りなさい。あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである」(創世記7:1)。彼の全家族に守りを与えたのは、ノアの正しさでした。ノアは、家長として神の前に正しいスタンスをとっていたので、箱舟に全家族が入るという特権を与えられたのです。
To Noah, God said: “Come into the ark, you and all your household, because I have seen that you are righteous before Me in this generation” (Genesis 7:1). It was the righteousness of Noah that provided a covering for his whole household. Because Noah took his rightful place before God as head of his house, he had the privilege of bringing his entire family with him into the ark.
家庭でリーダーシップをとる
洪水のあと、神は全人類に特別な祝福をもたらす、特別な国民のかしらとなるべき一人の人を探し始めました。ようやく、神は探し求めていたアブラハムに出会いました。創世記 18:19は、神が、その時代のすべての人の中からアブラハムを選ぶこととなった、その特別な資質を表わしています。
「わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行わせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」
神がアブラハムを選ばれたのは、一つの重要な根拠からです。神は、彼が自分の子どもたちや家族に主の道を教え、訓練することができることを知っておられました。神は、人のその特別な資質が非常に重要であると考えておられます。
神は、アブラハムがその子どもたちや家族たちに「命ずる」ことを期待されました。命ずる、という言葉は民主的でないように聞こえるかもしれませんが、この聖句の鍵となる言葉です。人には、命令する権利とそれに対する義務を要するときがあります。人が神の代表として、また家を治める者として立つとき、その人は弱かったり妥協したりしてはいけません。妻と子どもたちに、「私はあなたに何々しなさいと命令する。」とはっきり言わなければなりません。
ある男性は、「妻や子どもたちは何と言うだろう。彼らは私からそのような言い方をされたことがないのです。」と尋ね
家族がどのように反応するか、私はこう思います。おそらく、家族はショックから立ち直るのに数分間かかるでしょうが、結局はこう言うでしょう。「やっと、我が家に男性が来た!」 妻も子どもたちも、心の中では、指導するべき人はだれであるかをわかっており、ふさわしい立場をとる父親に応答するでしょう。多くの妻たちは、自分の夫たちが家庭内で指導者の立場をとることに失敗したので、やむなく彼女たちが指導することになったのです。そして、妻たちは男性がそれをしてくれるなら、喜んでその立場を明け渡すでしょう。
ロトの失敗
私たちは、自分を神にゆだねたアブラハムの家庭内での性格と行ないを見てきました。しかし、アブラハムの甥のロトは、悲しくも対照的な態度でした。ロトの始まりはアブラハムと同じでした。神の祝福を見、神の約束を聞きました。それにもかかわらず、彼はひどく愚かな決断をしたのです。彼は、家族を堕落したソドムの町の中に引き入れたのです(創世記 13:10-13)。ロトの失敗を読むたびに、私は深く考えさせられます。彼はソドムに家族を導き、決してそこから家族を連れ出すことはありませんでした。神のさばきがその町に下った時、ロトは二人の娘以外の全家族を失いました(創世記 19:15-26)。
父親のみなさん、このことをはっきり言わせてください。もしあなたが主の道を知っているなら、ロトと同じ愚かな道を歩まないでください。あなたはソドム(罪深い楽しみや誘惑に満ちたこの世)へと家族を引き込むかもしれません。あなたはこの世を家族の生活の中心としてしまうかもしれません。そしてあなたがこの世にうんざりし、神に立ち返る日が来るかもしれません。しかし、このことを覚えていてください。あなたの家族は、もはやあなたについて行きたくないと思うかもしれないことを。ソドムへと引き込んだあなたは、そこから彼らを連れ出すことができなくなるかもしれないことを。
ヨシュアの選択
神の民であるもう一人の指導者、ヨシュアを見ていきましょう。ヨシュアは、生涯の最後にイスラエルを約束の地に導き入れ、民に一つの決心をするチャレンジを与えました。
「もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」(ヨシュア 24:15)
長年、私はヨシュアのこの言葉を不思議に思ってきました。明らかに、彼は主に仕えるという個人的な決断をすることはできました。しかし、どのようにして自分の家族が主に仕えると確信できたのでしょうか。そしてある日、私はヨシュアの確信の基を理解しました。ヨシュアは神が与えてくださった家庭内での祭司、預言者、王としての立場をとっていました。ですから、彼は家族のために祭司的にとりなす、家族のために預言的に宣言する、家族に対する王的権威を維持する、その立場にあることが、神をあがめ、神の誠実さにゆだねることになるのだと知っていました。ヨシュアの確信は、自分の中にあったものではなく、彼がとっていた父としての立場に対する神の誠実さに基づいていました。
父親の信仰
新約聖書で最も引用される聖句の一つ、使徒の働き 16:30-31を見ていきましょう。深い罪責感にさいなまれたピリピ人の看守はパウロとシラスに尋ねます。「救われるためには、何をしなければなりませんか。」その答えは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」でした。
ある日、私は自分の家族の救いを心配している一人の女性に、この約束を引用していたとき、聖霊がやさしく、しかしはっきりと私の霊に語りました。「あなたはその約束を誤用している。それは、女性に対して語られているのではなく、男性に語られているのです。ピリピ人の看守は夫、そして父として彼の全家族の救いを宣言するために、神からの権利が与えられたのです。」神は、すべての父親にその立場にあるということで、自分の家族の救いのために信仰を遂行する権利と責任を与えてくださいました。
これは、家族が自分たちの個人的な信仰生活をせずに、ただ父親の信仰によって救われるということでしょうか。いいえ、そういう意味ではありません。それは、神が与えてくださった立場にある父親の信仰と働きを通して、家族のひとり一人がキリストにある個人的な信仰を持つようになり、そして救われるということです。
これは、信者である母親や家族の他の者の信仰を通しては、家族が救われることがないと言っているのではありません。エリコの売春婦ラハブは、その信仰と勇気が家族全員に救いをもたらしたという、素晴らしい女性の模範を表わしています。彼女が住んでいた町が完全に破壊されるただ中で、
「斥候になったその若者たちは、行って、ラハブとその父、母、兄弟、そのほか彼女に属するすべての者を連れ出し、また、彼女の親族をみな連れ出して、イスラエルの宿営の外にとどめておいた」(ヨシュア 6:23)。
これらすべてはラハブの信仰の実です。
しかし、父親には家族の他の者たちとは異なる関係にあります。父親が、神が与えてくださった家長という立場をとるなら、神が与える家族の救いを宣言する権利があります。この権利は、ただ父親個人の信仰に基づくだけではなく、父親が持つ父親としての役割にも基づいています。神の義務は、その立場に対してであり、単に人に対してだけではありません。
義務を怠る父親の結末
神のことばは、両親、特に父親が、神が与えてくださった家庭内での権利を遂行することに失敗したときの悪い結果について、多くの警告を与えています。申命記 28:15-68で私たちは、イスラエルが神の律法に不従順であるなら、彼らの上にのぞむ神ののろいの長いリストを見ることができます。ある日このリストを読んでいて、私は 41節にくぎ付けになりました。
「息子や娘が生まれても、あなたのものとはならない。彼らは捕らえられて行くからである。」
(「生む」という単語が父の生殖器を表現しているので、これは特に父親に語られています。)
子どもというものは、私たちが楽しむようにと、神によって与えられているのだというシンプルな思いが生じました。子どもは、親である私たちにとって常に喜びの源となるべきものです。しかし、今日いったいどのくらいの親が自分の子どもたちを本当に喜んでいるでしょうか。かつて、大家族を持つバプテスト派の説教者が、「主よ、私たちの子どもたちが重荷ではなく祝福であることを忘れないようにさせてください。」と祈ったことを私は思い出しました。私はなぜか、彼が自分の祈りに対して肯定的な答えを期待していないのではないか、という印象を受けたのです。
親として、私たちはこのことについては確かでしょう。私たちが子どもたちを祝福と感じようが、重荷と感じようが、彼らに対する私たちの真の態度を子どもたちは認識しているということです。そして子どもたちは、それに応じた反応をするのです。
もし、私たちが子どもたちのしつけや、子どもたちを楽しむという関わり方ができなかったなら、どんな代償が待っているのでしょうか。申命記 28:41 は、はっきりと教えています。「彼らは捕らえられて行く。」このことは私たち西洋文明にいる何百万人もの子どもたちに起こらなかったと言えるでしょうか。彼らは、捕らえられていきました。薬物、不誠実な性的関係、オカルト、その他数えきれないほどのサタンの罠に。そのような子どもたちは、まるで何か外国の勢力によって奴隷となって連れ去られたように、確かに捕らわれの身となっています。その責任は、子どもたちとの良い関係を持つことと神の律法を教えることに失敗した父親にあるのです。
神の律法を伝える
マラキ 2:7 に神の律法の管理者、解説者としての祭司が描かれています。
「祭司のくちびるは知識を守り、人々は彼の口から教えを求める。彼は万軍の主の使いであるからだ。」
(ここでの“知識”とは、神の律法の知識のことを指す。)家庭内の祭司として、それぞれの父親は家族のために神の律法を管理し、説く責任があります。
もし父親、あるいは一国の祭司が、その責任を果たすことに失敗したらどうなるでしょうか。ホセア書 4:6で神はその結果の悲惨な状況を要約しています。
「わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしはあなたを退けて、わたしの祭司としない。あなたは神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れよう。」
神ご自身が私たちに、私たちの子どもたちを“忘れる”と告げることは、なんと恐ろしいことでしょうか。父親が神の律法を拒絶する時、その父親はもはや家族のための祭司としての務めを行なうのにふさわしくありません。その結果、子どもたちは父の権威と覆いの守りを失い、あらゆるサタンの罠と偽りのえじきとなってしまうのです。なぜ、今日私たちの周りには、神の契約と備えを知らない、神を忘れた子どもたちであふれているのでしょうか。それは彼らの父親たちが神の律法を忘れてしまっているからです。
約束のことば
マラキ書 4:5-6、この旧約聖書の私たちへの最後のことばは、のろいですが、約束でもあります。
「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」
聖書は、世の終わりの直前に来る、差し迫った社会問題を預言的な啓示によって描いています。両親と子どもたちが互いにばらばらで分裂し争いで満ちた家庭です。神のことばは、なんと的確なのでしょうか。今日私たちが直面しているその状況そのものです。それがひっくり返されない限り、結果はただ一つです。全地にのろいがおよぶのです。しかしながら、神は助けを遣わすと約束されました。「父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。」状況は絶望的ではないことを神に感謝します。私たちの家庭内の和解と回復は、まだ可能です。これは今日の私たちへの神の霊のメッセージです。
しかし、私たちは神のみことばを確立する順序に気づかなければなりません。初めに、父親が子どもたちに向き合わなければなりません。各家庭の和解は、父親側から始めなければならないのです。父親が悔い改め、子どもたちの前にへりくだる。そうすると、子どもたちの心も父親に向けられるでしょう。そうです、最初の行動は父親がするのです。
父親である皆さん、私はあなたに男であってほしいと願います。立ち上がり、神のもとであなたの家族のかしらとしての立場をとってください。もし、あなたが神から離れていたのなら、悔い改め、妻と子どもたちに赦しを求めてください。彼らと和解してください。そして、家族のための神のまったき備えの中へ彼らを導いてください。
コード: TL-L058-100-JPN









