家庭での模範的人間関係

Teaching Legacy Letter
*First Published: 2007
*Last Updated: 2025年12月
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権威を持とうとする人は、権威の下にある人でなければなりません。家庭内での人間関係を治めるのは、この原則です。夫がキリストの権威の下にある時、その夫はキリストの権威を持っています。妻が夫の権威の下にある時、その妻は家庭での夫の権威を持っています。しかし、その権威の連鎖がどこかで切れてしまうと、家庭内での権威のあり方も崩れてしまいます。アメリカや他の国々における、現代の多くの家庭での大きな問題はここにあるのです。連鎖の輪の一つが外れているために、権威の崩壊があるのです。キリストに従っていない夫、あるいは夫に従っていない妻のどちらかです。多くの場合、両方ともがその位置から外れてしまっています。その結果は、無秩序、不一致、反抗です。
家庭における女性の従順について、数多くの教えがなされてきました。多くのクリスチャンの女性たちは、自分たちが「劣った者」と言われていると感じ、この教えを嫌います。しかし、これは夫と妻の関係の基本的な誤解から生じているのです。
イエスと父との関係
イエスは、父との関係について三つのことを言われました。その三つすべては、妻と夫との関係に等しく適用できるものです。
第一に、イエスは、「わたしと父とは一つです」と言われました(ヨハネ 10:30)。イエスと父の間には完全な一致がありました。父と一つであることは、イエスも父と等しいということです。ピリピ 2:6は、イエスに「神と等しい」聖なる権利があることを私たちに教えています。イエスは神でした。
同様に、夫と妻も一つです。聖書は、夫と妻が「一心同体」であると言っています(創世記 2:24、マタイ 19:5-6)。一つのからだの一部が別の部分に対して「劣っている」ことはあり得ないのであって、一つのからだのすべては等しいのです。妻が夫に従うというのは、妻が劣っていると言っているのではなく、神は、キリストのからだと等しいものとして、夫と妻を見なしているということを、聖書ははっきりと示しています(ガラテヤ 3:28)。
第二に、イエスは父との関係について、「それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです」という神の要求について語っています(ヨハネ 5:23)。父ご自身は、いっさいのものをイエスの下に従わせることによって、子を敬いました(エペソ 1:22)。父は子を敬うことを喜びました(ピリピ 2:9-11)。神は、イエスが高く上げられ、すべてのものがイエスに従うことを願われています。父が子を「引き下げる」ようなことば、あるいは子よりもご自身のほうが敬われるようにしているようなことばは一つとしてありません。すべての被造物がイエスをあがめ、高く上げ、認めることが、父の願いです。
夫の妻に対する態度は、父のイエスへの態度を反映したものであるべきです。夫は妻を敬い、引き上げることが喜びであるべきです。夫は何をするにも、妻が敬われている、賞賛されている、尊重されていると感じるようにその力を発揮させるべきです。父なる神は、イエスがほんの少しでも侮辱されることは耐えられないでしょう。夫の妻に対する態度もまったく同じでなければいけません。妻が自分の名誉を求めたり、自分の立場を確立しようとしたりする必要がないようにしなければなりません。夫がそのことを妻にするべきです。このようにして、あらゆる劣等感の汚名はすべて取り除かれます。
男性が常にこのように妻を取り扱うなら、何が起こるでしょうか。ほとんどの場合、女性たちは夫たちがかしら...であることを喜んで心から認めます。妻たちは、もはや認められることや、自立のために奮闘したいとは思わないでしょう。
へブル 1:3 で著者は、イエスは「神の栄光の輝き」であると教えています。Iコリント 11:7 でパウロは、「女(妻)は男の栄光の現れです。」と言っています。ここで再度、父なる神とイエスの関係と、夫と妻の関係に、類似が認められます。父は人としてのイエスにご自身の栄光を現します。夫は妻の人間性の中に自分の栄光を現します。
もし、妻が平安で満足しているなら、夫に栄光をもたらします。それは、夫がしかるべき形で妻を取り扱っているということを表わします。しかし、妻が苦々しく、怒りに満ち、不安定であるなら、夫に不名誉をもたらします。それは、夫が妻に対する責任に失敗したことを表わします。ある有名な説教者がある時、ある人について、彼は良いクリスチャンですか、という質問を受けました。その説教者の答えはこうでした。「わかりません。私は彼の奥さんに会ったことがありませんので。彼の奥さんに会ってからあなたに答えましょう。」
このことは、父とイエスの関係の第三の側面を私たちに見せてくれます。イエスは言われました。「父はわたしよりも偉大な方だからです」(ヨハネ 14:28)。ここに、一見すると矛盾が見られます。イエスは父と等しいお方でありながら、イエスは、父の方が偉大であると言っているのです。それは、イエスは「神のあり方を捨てられないとは考えず」(ピリピ 2:6)ということです。イエスは、認められることや権威のために奮闘するのではなく、ご自身が父に従順であること、父がかしらとしての当然の立場を果たすことを願われました。父への従順にとどまることにより、イエスは神格の中に一致を保ちました。もしイエスが、自ら従順の立場を捨てたなら、神格の一致は壊れてしまいます。
同様に、妻は夫と一心同体であり、夫と等しい者ではありますが、神は、家庭内での一致と秩序のために夫に従うことを妻に求めています。もし妻がそれを拒むなら、家庭の一致は崩壊し、無秩序な結末となるでしょう。多くの幸福なクリスチャンの妻たちは、夫の権威の下で守られ、覆われる立場にあることは、確かに神が意図された安全と平安の立場にあると証言しています。
しかし、これは妻にとても大きな責任を負わせます。それは、妻が夫の権威を認めない限り、どんな男性も真のかしら...にはなれないということです。頭は、それを支える首がなければ、機能しません。そして男性は、妻の自発的な従順とサポートがなければ本当の家長にはなれません。
もし、夫婦のどちらかが、神が定めた家庭内での役割の責任を務めることに失敗したら、何が起こるでしょうか。そのことは、もう一人を責任から解放することになるのでしょうか。いいえ。夫婦それぞれの究極の責任は、神に対してであって、配偶者に対してではありません。夫、妻はそれぞれ神の前に従順の立場をとるべきで、相手の行動がこれを変えることはありません。
私は以前、この原則が、ある交通裁判で鮮やかに例証されていることを聞きました。裁判官がスピード違反をした男性に質問していました。「あなたはスピード違反をしましたか。」
「私よりスピードを出していた車もありました。」というのがその男の答えでした。
「あなたは他の車に対して責任がありません!」と裁判官は言い返しました。「あなたは自分が運転している車だけに責任があるのです。あなたはスピード違反をしましたか。」男はしぶしぶスピード違反を認めました。
そう、それは夫と妻の関係においても同じです。やがて、「私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです」(IIコリント 5:10)。その日には、夫は妻の行為のために、また妻も夫の行為のために答えるようには求められません。それぞれが、自分の家庭での役割を直接主に答えるのです。
父の役割
別の学びの書簡で私は、父親は何よりも家をつくる者であることに注目しました。父親が自分の責任を受け入れ、神が意図された家族のかしら...として立つ、という立場をとらない限り、神の家庭に対する計画は機能できません。もし、父親が家庭でふさわしい家長の立場をとらないと、その家庭は無秩序に陥ります。
キリストと教会の関係において、キリストは父なる神にあって神の代理人であり、三つの偉大な任務がありました。キリストは祭司であり、預言者であり、王(統治者)です。すべての家庭において、父親は家族と並行の関係にあります。父親が神の視点を失うことがないための、神の権威による三つの主な父親の任務があります。あらゆる秩序において、すべての父親が家庭の祭司として、預言者として、王として召されています。
- 祭司として、父は神に対して家族の代表である
- 預言者として、逆に家族に対して神を表わすものである
- 王として、神のために家族を治める
祭司として、父親は家族のために神の前に家族の必要を祈り、また家族に神の守りと祝福を宣言するという、とりなしに召されています。これは、信仰なくしてはできないことです。父親として最小限の責任ではなく、家族のために信仰を働かせる必要があるのです。
旧約聖書に、これが過越しの儀式によって表わされています。家ごとにいけにえの子羊をほふり、その血をかもい...と門柱にふりかけることが父の義務でした(出エジプト 12:3-7)。この信仰と従順の行為によって、父親は家族全員のために神の守りを得るのです。
新約聖書、マルコ 9:20-27の悪霊につかれた息子をイエスの元へ連れてきた父親の箇所で、同じ原則が印象的に描かれています。子どものために助けを懇願してイエスに言いました。「ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」イエスはすぐに父親にある子どものための責任を返します。「信じる者には、どんなことでもできるのです。」子どもの解放は、父親の信仰次第でした。父親には、自分の子どものために信じる権利と責任の両方があります。
かなり頻繁に、人々が私のところに解放のために幼い子どもたちを連れてきますが、私はその人たちに「あなたはこの子どもの親ですか。」と尋ねることを学びました。時にそれは、叔母や親切な近所の人にすぎません。両親であることはほとんどなく、時に父親であることは、まずありません。私は、両親、あるいはどちらか一方の信仰に基づかない、子どものための働きの基礎を、聖句の中に見いだすことはできません。
子どものために助けを求めて私のところへ父親がやって来ることはめったにありません。私たちの働きのすべての計画は乱れ、なぜ神は計画を祝福してくださらないのかと、戸惑います。子どもへの働きにおいて、説教者は父に代わることはできないのです。
神からすべての父親に与えられた二つ目の任務は、預言者であることです。父親は家族に対して神を表わす者となります。それが良い表わし方であろうとなかろうと、父親がそのことを認識しているかどうかにかかわらず、父親は神を表わす者です。カウンセリングや子どもの働きに関わっているほとんどの人が、すべての子どもたちは、自分の一つの源である父親から神の基本的な印象が形成されている事実を証言しています。あまりにも多くの若者が、神に小さなことしか、あるいは何も望まないことは、不思議ではないのです。
家庭における父の三つ目の任務は、王であることです。王として、父は神のために家族を治めることを求められます。教会のリーダーの資質について、パウロは具体的に、「自分の家庭をよく治め」る人でなければいけないと言っています。(Iテモテ 3:4)。「治める」という言葉は、政治的権威の行使を指します。家庭のリーダーシップと教会のリーダーシップの間には、直接的な関連性があります。家庭はすべての男性にとって、生活とミニストリーの実践の場です。
一つのシンプルで客観的な事実を申し上げましょう。もし、私たちの宗教が家庭で機能しないなら、それはどこにおいても機能しないのです。それだけです。家庭で機能していないものを、神の名において、世に送り出さないようにしましょう。世はすでに争いと不一致であふれています。これ以上必要ありません!
アメリカの家庭の悲劇的な状況は、背教した男性たちです。背教という言葉は強烈過ぎる、侮辱的だと感じる男性もいるでしょう。しかし、私はそれを故意に用います。背教者とは、責任を放棄した人のことで、アメリカ人男性の実に多くが、夫、父、霊的指導者としての三つの重要な責任を放棄しているのです。それが、女性によって治められる女性優位社会にさせたのです。
質問です。寝る前にいつも子どもたちといっしょに祈る人はだれですか。日曜学校に行かせる準備をするのはだれですか。聖書の話を読んであげるのはだれですか。子どもが病気の時、祈ってあげるのはだれですか。大半の場合、それは母親です。確かに母親は子どもの霊的成長に関わるべきですが、家族の霊的成長の教師であり、リーダーであるべきなのは、神からゆだねられた父親なのです。
子どもが道を外れたとき、私たちは何よりも非難に値するはずの人物、つまり父親以外の、教会や社会、学校など、あらゆるもののせいにしたくなります。ほとんどの男の子は、教会と神に関することは、女っぽい、女々しいと思っています。母親たちだけしか関わっていないのを見ているからです。幼いジョニーは成長して自分自身にこう言います。「ぼくはお父さんみたいになりたい。」お父さんのようになって、神に関することを「弱い器」(Iペテロ 3:7)に任せるのだと決心します。
やがて、幼いジョニーは人生に失敗し、落ちこぼれか非行少年になるときが来ます。実際はジョニーが失敗したのでなく、父親が失敗したのです。非行少年は一人もいないのであって、大人の怠慢であることがわかってきました。本当の落ちこぼれは子どもではなく、親であって、何よりも父親です。
みなさん、質問をさせてください。あなたは夫や父親としての評価はどうでしょうか。ビジネスや社交界で有名になって成功を遂げているかもしれません。銀行の頭取になっているかもしれません。友人たちが驚くほどのゴルフのスコアを達成したかもしれません。しかし、もしあなたが夫として、父として失敗しているなら、あなたは神の目には失敗者なのです。
コード: TL-L057-100-JPN









