家庭における成功

Teaching Legacy Letter
*First Published: 2007
*Last Updated: 2025年12月
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成功は、西洋文明の代名詞です。環境や子ども時代の刷り込みにより、私たちは、職業、スポーツ、政治、個人生活など、行なうことすべてにおいて、絶えず成功が求められるチャレンジを受けています。それが最重要の動機となっています。しかし、神の目には、成功は私たちの基準とはかなり異なった基準で測られます。神は非常に個人的な方法でそれを私に理解させてくださいました。私の親しい牧師が、かつて専門家を「書類カバンを持って外出する男」と定義したことがあります。私はかなりの頻度で旅行し、常に書類カバンを持っていたので、その基準からすると、私は専門家でした。
しかし、ある日黙想しているとき、主が私の霊に、「あなたは書類カバンを持って世界中を旅して回り、多くの人に説教をし、応答した人々のために祈っているが、もし、あなたの家庭に秩序がないなら、私の目にはあなたは失敗者である」と語りました。神の目に成功者となりたいという大きな願いを持ち、私はそれを心に刻みました。その結果、私に家庭生活と親としての責任への新しい理解が開かれることになったのです。
「父たちよ、あなたがたに書き送ります」
Iヨハネ 2:13 で使徒はこう言っています。「父たちよ。私があなたがたに書き送るのは...。」 私にも同様のことをさせてください。父であるあなたがたひとり一人に、かなり直接的に語らせてください。あなたは、人生のあらゆる領域で成功を収めているかもしれませんが、もし父として失敗しているなら、神の目にはあなたは人生の失敗者なのです。
エペソ 6:4 でパウロは、父親の最も重要な責任を一節でこうまとめています。
「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」
コロサイ 3:21では、「父たちよ。子どもをお こらせてはいけません。」と最初の警告を繰り返し、「彼らを気落ちさせないためです」と付け加えています。もちろん 母親たちも、子どもの世話や教育に深く関わっています。しかし、最も重要な責任は父親にあります。
父親は子どもに対して 2つの義務があります。第一にコミュニケーション、第二に教育です。その順序は重要です。 父親と子どものコミュニケーション回路が開いていなければ、父親は教育するという責務にフラストレーションを覚える でしょう。それは、父親としての指導が十分でないからです。子どももまた、喜んで指導を受けなければなりません。
コミュニケーションを保つために、父親は反抗と人への失望という子どもたちの2つの正反対の態度に注意しなけれ ばなりません。ですから、父親は、それぞれの子どもとの時間を取ることに気をつけていなければなりません。ひとり一人の子どもを個々人の人格として育てなければなりません。家庭内に2人子どもがいても、彼らは同じではありません。 一人の子どもに益となるしつけが、別の子どもには益とならず、その子をだめにしてしまうこともあります。矯正される 方法を一人は受け止め、別の子には反抗を引き起こすだけになることがあります。
大人のカウンセリングで頻繁にあることですが、彼らの問題の多くが、子ども時代に父親との関係の中で引き起こされた怒り、不公平な扱い、無関心などにさかのぼることを私は発見しました。
家庭が中心
父親にこれらの責任を置いているのは、単に新約聖書だけではありません。同じ原則が聖書全体に見られます。同様にあらゆる体制において、神はご自身の民の霊的生活は、家庭が中心であると定めています。申命記 11:18-21は、このことについて、親としての私たちに非常に直接的に語っています。
「あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に 置きなさい。それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝る ときも、起きるときも、それを唱えるように。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。それは、主があなた がたの先祖たちに、与えると誓われた地で、あなたがたの日数と、あなたがたの子孫の日数が、天が地をおおう 日数のように長くなるためである。」
神は、私たちに親として、家庭で自分の子どもに神のことばと神の道を教える責任を置かれました。この責任は神 殿や教会、日曜学校のような何か特別な宗教施設に任せられるものではありません。また、祭司や説教者、日曜学 校の教師の特別な専門階級者に任せられるものでもありません。親として、私たちは子どもたちに家庭内で神のこと ばと道を指導しなければなりません。
これは、単に「家族の祭壇」を設定するとか、「家族でのデボーション」を持つという問題ではありません。霊的指導 としつけを効果的にするためには、連続性のあるものでなければなりません。神は、「寝るときも、起きるときも」と言っています。それは目が覚めている間ずっと、ということです。家庭生活の日々の活動のすべてにみことばの教えを織り 交ぜることが、私たちの仕事です。
かつてアメリカのホィートン大学の学長であったレイモンド・エドマン博士は晩年、こう書いています。「私が子どもの 育て方を振り返ってもしやり直せるなら、宗教的ではない活動でもっと子どもたちとの時間を持ちたい。」彼は、成長し た子どもたちが一番よく覚えていたことは、ただ一緒に過ごした、特に何でもない時のことであるとわかったのです。子どもとの本当のコミュニケーションは5分では達成できません。最も重要なことのほとんどが、さりげない、準備もされ ていない、最も期待していないときであったと子どもに言われるのです。もし、さりげない接触がなかったら、そのよう なことは決して言ってもらえません。
地上の天
申命記 11:18-21 を熟考していて、私は「天が地をおおう日数のように」と締めくくられている表現にとらえられました。私たちは「地上の天」について非現実的だという人のことをよく耳にしますが、私自身、その表現が聖書から来て いるものだと認識していなかったことを告白しなければなりません。さらに驚くべきことは、神の民の家庭生活に適用 されている箇所であるのを発見したことです。
しかし、これこそまさに神の目的なのです。神は、各家庭が、父、御子、聖霊という神の三位一体の人格の間に存在する永遠の愛の関係を再現する、この地上にある天の性質の生きた見本となることを願われています。
私たちは、しばしば家庭生活は人類から始まったと想定しますが、そうではありません。ヨハネ14:2でイエスは、「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。」と言われています。聖書で言われている家には、物質的、物理的建物以上の深い意味があります。それは、ひとりの父の指導的地位のもとの、全家族を描くものとして使われます。一つ屋根の下に数人が住むだけのものではありません。それ以上のさらに豊かな意味、神のまさに三位一体のご性質と深く関わっている意味を、神は常に持っておられるのです。
父性、指導的立場、交わり
天における三位一体の人格の関係は深く、3つの永遠の要素が含まれています。それらは、地上の私たちの家庭の中へ投影されるようにと神が願われる3つの要素です。
一つ目は、父性です。
父なる神は、主イエス・キリストの父、キリストは神の子です。エペソ3:14-15でパウロは、「こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。」と言っています。
ここで“家族”と訳されているギリシャ語の単語は、patriaで、「父」という意味のpaterから直接来ている語です。この“家族”という語は、ギリシャ語にさらに忠実な訳では、「父性」となっています。この箇所は、神が単にキリストの父であるだけでなく、全地において父性の立場であることが三位一体に由来し、その中にある父なる神の立場としての模範を確立しました。すべての父性は、父なる神のご性質の投影です。
三位一体の関係の二つ目の永遠の要素は、指導的立場です。
Ⅰコリント11:3でパウロは、「しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。」と言っています。宇宙規模で、キリストの父の指導的立場は今までも常にそうであったように、永遠であることがわかります。
三位一体の関係の三つ目の永遠の要素は、交わりです。
三位一体の関係の三つ目の永遠の要素は、交わりです。ヨハネ 1:1で、キリスト(ことば)が「神(父)とともに」と永遠の存在として描写されています。ギリシャ語では、「~に向かって」あるいは、「顔と顔を合わせて」という意味です。ヨハネ 1:18 は、キリストは「父のふところに」いたと教えています。これは、聖霊によって絶えず保たれている、父と御子の間にある互いの愛と喜びの美しい姿です。事実、ある人は父と御子の愛の関係が聖霊であると表現しました。
福音により、また聖霊により、神はこの聖なる交わりを地上の私たちの生活の中へ、特に私たちの家庭の中へ与えたいと願っておられます。Ⅰヨハネ1:3で、使徒は天の永遠の交わりを分かち合うための神の招きを紹介しています。
「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」
そして、私たちは天が提供している家庭の永遠の模範が与えられており、それには、父性、指導的立場、交わりという関係の3つの主要要素があります。もし、私たちの地上の家庭が神の目的を果たし、成功させるなら、これら3つの関係を再現しなければなりません。
私たちの社会において、妻は「家庭を切り盛りする者」と呼ばれることが多いです。しかし、これは二次的な意義のみにおける真理です。神の経済において、どんなことであれ決断を下すのは男性なので、何よりも家を切り盛りする者です。父親が家庭を建て上げるための鍵です。愛なる天の父のご計画が成就する家庭を建て上げる責任と権威の両方を、神は父親の肩に置かれました。男性が正当な立場をとる時、女性は「助け手」として男性のそばに寄り添います(創世記2:20)。
権威の連鎖
私たちは、夫と妻の関係が時を越えて重要であること、それは父とキリストの永遠の関係を描いていることを見るところから始めることができます。Ⅰコリント11:3に再び戻りますが、三位一体に始まる、とても明確な権威の連鎖があり、それは家庭の中へと伸ばされています。神は、キリストのかしらであり、キリストは男、あるいは夫のかしらで、夫は女、あるいは妻のかしらです。すべての権威は、最終的に父から来ており、父へと戻る連鎖で、正しい位置に戻ってきます。キリストが権威を持っているのは、父に従っているからで、夫が権威を持っているのは、キリストに従っているからで、妻が権威を持っているのは、夫に従っているからです。
非常に賢明なローマの百人隊長に病気の兵士がおり、その兵士をいやしてほしいと願ってイエスの元へやって来ました。百人隊長はイエスの生き方と奇跡を認めていたので、「私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして・・・」(ルカ7:8)と言って自己紹介しています。「私には権威があるのだ!」と威張って言う人がいますが、彼はそのようには言いませんでした。彼は、彼自身が権威の下にあるという事実によって、彼が持っている兵士たちに対する権威を認識していました。ローマの隊長として、彼は皇帝へとさかのぼる命令の連鎖の一部分でした。このように、百人隊長の命令に従うことを拒んだ者はだれでも、実際には皇帝の権威を拒絶していることになるのです。
イエスへの自己紹介で、百人隊長は、「私も権威の下にある者です」と言いました。なぜ、「私も」という言葉を使ったのでしょうか。それは、自分をイエスと比較したからです。彼は、彼自身の軍隊的命令に適用される同じ原則が、イエスの霊的ミニストリーにおいても適用されると認識していました。イエスも、「権威の下にある者」でした。ちょうど、百人隊長の権威が皇帝との関係にかかっているように、イエスの権威は父への彼の完全な従順にかかっていました。あらゆる領域において原則は同じです。権威を持つために、私たちは権威の下にいなければならないのです。
コード: TL-L056-100-JPN









