1950年代(私の働きの比較的初期)、私はロンドンで牧師をしていました。その時期は、人々が救われ、癒され、聖霊のバプテスマを受けるのをいつも目にしていました。そのような祝福のただ中にもかかわらず、私には暗く重い雲のように襲う、うつ症状が頻発するという問題がありました。この雲がのしかかり、私はその抑圧を私に近い人たち、特に自分の家族のせいにしていました。

私は、自分ができる限りのあらゆる手段でこれと闘いました。私は祈りました。断食もしました。朝早く起きて祈りました。夜遅くまで起きて祈りました。できる限りのことをすべてしましたが、一向に良くなりませんでした。実際、祈れば祈るほど、また断食すればするほど、ひどくなっていったのです。ある日ようやく、私の心をとらえたイザヤ61章3節のみことばに解決を見出しました。「憂いの心の代わりに賛美の外套を。」

その時突然、人格という霊、つまり私を知り尽くし、私の弱点を知り、どのように、そしていつ私を攻撃するべきかを知っている霊と戦っていたのだと気づきました。私は、ただ自分の中の精神的、心理的なものを取り扱っているのではなかったのです。そして、もっと主に仕えたいと願うほど、その抑圧感がひどくなる理由がわかりました。この霊の目的は、私の神への奉仕を妨害することでした。この人格はまさに、どのように、いつ圧力をかけるかを知っていたのです。

自分の敵が何であるかを認識したことは、大きな前進でした。私は聖書を調べ、自分の問題を解決すると確信する一節を見つけました。ヨエル書2:32は言っています。

「しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。」

私はイザヤ61:3とヨエル2:32を合わせた、特別な祈りをしました。「神よ。主イエス・キリストの御名によってあなたのみことばにより、この重い霊から私を解放してください。」と祈りました。その特別なみことばによる祈りをしたとき、私は解放されました。あの抑圧は取り除かれたのです。

後になって、一つは解放されなければならないこと、そして解放をとどめるもう一つのものがあることを知りました。神は、この悪魔の抑圧から私の思いを解放したことを示し始めてくださいました。そして今、私自身の思いを再教育(まったく異なる視点と考え方の育成)することは私にかかっていました。解放される前の私は、それをすることはできませんでした。

解放されたあと、再教育を行なうのは私の責任でした。

かぶとをかぶる

うつからの解放をとどめようとするものとの戦いにおいて、私の人生の問題は、他の人からの要因以上に自分の思いの領域にあるのだと気づくようになりました。悪魔は絶えず私の思いを通して入り込んで来ていました。私にとって、偶然にも非常に高度なものを学ぶことにつながりました。人の思いが洗練され、磨かれていけばいくほど、サタンに攻撃されやすくなるということを発見したのです。あなたが自分の思いに信頼すればするほど、サタンはそれを使ってあなたを攻撃してくるのです。

私の思いと考え方に、自分が主人ではなく、しもべであることを教え込むことは、私次第であるということを学びました。私は、自分の思いを守る必要があると悟り、エペソ6:14-18にある真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備えの靴、信仰の大盾、救いのかぶと、御霊の与える剣という6つの武具を思い起こしました。それはすべて祈りの武器を通して効果的にされるものです。

その武具のリストを学ぶ中で、その武具の一つは明らかに思いを守るために作られているものであることに気づきました。救いのかぶとです。かぶとは、概して思考生活と関わっている頭を保護するものです。神が、私の思いを守るために与えてくださっているとわかりました。

私は自分が救われていることは知っていました。しかし、それは、救いのかぶとが自動的に与えられていることを意味するのでしょうか。それとも、それ以上になすべきことがあるのでしょうか。私の聖書のエペソ6:17の脚注を見ると、Ⅰテサロニケ5:8を参照とあります。それは、こう言っています。

「しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。」

かぶとは救いの望みであると言っています。望みです。私は、今まで信者たちの人生における希望というものの位置づけについて、どれほどちっぽけな考え方を教えてきたかに気づきました。望みは私の思いを守るものである、という正しい理解がなければ、私が経験してきたすべての霊的体験はバランスを欠いた不完全なものです。そのことを、聖霊が新約聖書のさまざまな箇所を通して示してくださいました。

Ⅰコリント13:13でパウロは言っています。

「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」

その章の文脈で、クリスチャン生活における霊的経験で継続する(残る)本質は、それら三つであることは明らかです。パウロは他のものは一時的なものだと言っています。それらには目的があり、その目的が達成されたら、必要ではなくなります。しかし、このいつまでも残る霊的経験の3つの本質は、信仰と希望と愛だとパウロは言っているのです。

私はさらに学び、信仰と希望の聖書的な違いを知りました。それらは人間の人格の異なった領域に位置しています。聖書的な信仰は、心の領域から現在へとつながっており、希望は思いの領域から将来へとつながっているのです。

信者の思いの守りは、望みのかぶとです。ですから、すべてのクリスチャンは楽観主義者でなければならないと、私は思います。悲観的なクリスチャンは、自分の信仰を否定することにつながります。希望は良いものを待ち望む自信を生み出します。

かつて、重苦しい霊によってとらえられていた私の思いは、解放されました。そして神は、私の思いが解放されたので、その思いを再訓練することを示されました。神が私のために再教育してくださるのではありません。それは私の責務でした。まったく異なる視点、異なる心構え、異なる反応、異なる考え方を育成しなければなりませんでした。すべてのクリスチャンが楽観主義であるべきだと私は信じています。その私の考えを擁護する多くの聖句のひとつが、ローマ8:28です。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

もし、あなたが神を愛し、神の目的の中を歩むことを心から求めるなら、すべてのことは、あなたにとって良いもののために働きます。そして、もしすべてのことが良いもののために働くなら、悲観主義になることはあり得ません。すべての状況は、楽観主義のための好機です。その鍵は、私たちの思いを訓練し、この真理を抱いてそれに生きることです。

霊的あかし

希望は、聖書の中で最も美しいテーマの一つです。ローマ4:18は、アブラハムが自分も妻も身体的に不可能となってかなり経ってから、息子イサクを与えるという神からの約束を受け取った時のことを私たちに教えています。

「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。」

アブラハムは信じ、その結果、望みを抱きました。信じることが最初です。望みは次に来るもの、あるいは、信仰の産物です。またへブル11:1は、それをさらに明確に語っています。

「信仰は望んでいる事がらを保証し…」

信仰とは、望みを支えている確信の基盤として下にあるものです。信仰は希望を生み出します。どちらも正しいものですが、私たちはそれらを正しい位置に置かなければなりません。正しい関係にあるように造られているものです。

あなたは、希望なしに生きることは到底できません。ローマ15:13でパウロは言っています。

「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」

私たちの神は、ただ平和の神、喜びの神、義なる神、力ある神であるだけではありません。望みの神でもあるのです。ですから、あなたが信じること(信仰)によって喜びと平安に満ちているとき、その結果は、あなたに希望が満ちあふれるのです。

それとは対照的に、エペソ2:12でパウロは希望のない人をこう表現しています。

「そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。」

パウロは、失われた人々には、三つのものがない、つまりキリストもなく、神もなく、望みもないと言っています。あなたに希望がないとき、キリストもなく、神もないのです。希望は私たちの救いに不可欠なのです。

コロサイ1:27で、パウロはこの福音の計り知れない奥義について、信者のために書いています。

「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」

福音全体は、すべての預言者たちと知恵ある人々、多くの世代の偉大な人々に隠されてきた、この偉大で素晴らしい啓示を中心に置いています。そして驚くべきは、この奥義が、今やあなたや私のような信者を謙遜にするために明らかにされたということです。それは、キリストが実に私たちの内におられること、私たちの内におられるキリストこそが、私たちの栄光の望みであるということです。

栄光は将来のものです。キリストを内に持っている人は、その栄光ある、輝く、全能の神の永遠の栄光に、確信に満ちた期待という将来への希望を持っています。それこそ、あなたが内にキリストを持っているときに、あなたにあるものです。

へブル6:18-20で著者は、私たちがキリストに対する信仰を持つ素晴らしい土台を強調しています。

「それは、変えることのできない二つの事がらによって、神は、これらの事がらのゆえに、偽ることができません─前に置かれている望みを捕らえるためにのがれて来た私たちが、力強い励ましを受けるためです。この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側に入るのです。イエスは私たちの先駆けとしてそこに入り、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。」

私たちの望みは、たましいの安全で確かな錨いかりです。その錨とは、私たちの大祭司であり先駆者である偉大な永遠の岩、イエス・キリストという幕の内側にある、実に永遠への通り道であり、揺るがないものです。

船は、水というはかない物質に不安定に浮いているので、錨が必要です。錨は船からその不安定な水を通して安定した岩へと下ろされます。そして船は安定し安全にされます。あなたが水(時)を通して岩(永遠)の中へ錨を下ろすなら、あなたは安全になるでしょう。

あなたがイエスとの関係にあなた自身をささげるなら、あなたは永遠の岩へ錨を投げるのです。吹きつけるあらゆる嵐や台風は、その岩からあなたを引き離すことはできません。私たちが錨をその岩に投げる方法は、望みを通してです。

意図的訓練

私たちの思いを望みに置く訓練は、私たち次第です。私自身の人生において、その違いは夜と昼のようでした。それは5分で起こったのではなく、5年以上の年月がかかりました。しかし、それに注ぎ込んだ訓練のすべてが価値あるものでした。

解放は、あなたの重荷を取り除くでしょう。しかし、あなたの解放のために戦うことはあなたの責務です。そして、私を含め、ほとんどの人にとって、「思い」というのは、最も弱い部分です。

救いのかぶと、望みのかぶとを取って、それをかぶってください。思いを覆ってください。あなたの思いを守ってください。思いを制御し、みことばに一致させてください。そして、栄光という結果を経験してください。

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