前の学びで、自然な恐れ、悪霊的恐れ、宗教的恐れ、人への恐れという 4 つの恐れは、主への恐れではないことを見ました。この学びでは、主への恐れとはどのようなものであるかを考えていきます。様々な定義があると思いますが、聖書で与えられているいくつかの定義を見ていきましょう。しかし、簡潔に言えば、主への恐れは、神を主とすることです。それは、神への尊敬、まったき献身、そして従順の態度です。

詩篇と箴言で私たちは主への恐れの 2 つの要素を見つけることができます。

「来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう。」(詩篇 34:11)

気づきましたか。主への恐れは、教えられる必要があります。私は、この詩篇を通して聖霊が、「私が主への恐れを教えよう。」と語っておられると信じます。

「そのとき、彼らはわたしを呼ぶが、わたしは答えない。わたしを捜し求めるが、彼らはわたしを見つけることができない。なぜなら、彼らは知識を憎み、主を恐れることを選ばず...」(箴言 1:28-29)

あなたの人生で、主を恐れることを選ばなければならないことを、わかっていただきたいと思います。もし、あなたがそれを理解できないなら、あなたが祈っても神が答えてくださらず、あなたが神を求めても、見出すことができないときがやって来るでしょう。

では、主への恐れが成すことを教えている聖句をいくつか見ていきましょう。箴言 1:7、9:10、15:33、詩篇 111:10、ヨブ記 28:28、これらすべては、知恵、知識と主への恐れがつながっています。「見よ。主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである。」(箴言 28:28)。主への恐れは、私たちを知恵あるものとしてくださいます。

「主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。」(詩篇 19:9)。主への恐れは決して廃棄されません。それは永遠に続きます。それは明確なことで、あなたをきよく保ちます。

「主を恐れることは日をふやし、悪者の年は縮められる。」(箴言 10:27)。

それははっきりしています。もし、あなたが長く幸せな人生を望むなら、主を恐れてください。

「恵みとまことによって、咎は贖われる。主を恐れることによって、人は悪を離れる。」(箴言 16:6)。

もし、あなたが主を恐れるなら、あなたは悪から離れます。悪を遠ざけます。

「力強い信頼は主を恐れることにあり...」 前に言ったように、あなたが主を恐れるなら、人生で他のものを恐れる必要はありません。「...子たちの避け所となる....」避け所には条件があります。神はご自身を恐れる人を守るのです。「主を恐れることはいのちの泉、死のわなからのがれさせる。」(箴言 14:26-27)。

この聖句には 4つの祝福のリストが挙げられています。力強い信頼、避け所、いのちの泉、死のわなからののがれ、です。

「謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。」(箴言 22:4)。

ここに、あと3つの祝福があります。富と誉といのちです。

最後に、私がこれ以上に素晴らしい約束はないと思うのが、箴言 19:23で与えられています。

「主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいに会わない。」

これ以上にあなたが求めることのできるものを私は知りません。満ち足りて住み、わざわいに会わない。

主を恐れる生き方

聖書は、他の人に権威を行使する人には、主への恐れが必要であると言っています。「イスラエルの神は仰せられた。イスラエルの岩は私に語られた。『義をもって人を治める者、神を恐れて治める者...』」(IIサムエル22:3)

霊的指導者に求められることが 2 つあります。主への愛、そして神への恐れです。イエスは、ご自身の羊を飼うようにとペテロを召されたとき、「あなたは、わたしを愛しますか。」と尋ねました(ヨハネ 21:15-29)。イエスはそれを三度尋ねました。そして、言われました。「わたしを愛するなら、わたしの羊を飼いなさい。」 主と主の民への愛が不可欠です。しかし、もし、あなたがただ人々への愛だけによって奉仕しようとするなら、その愛は続かず、最終的にあなたは人を利用する者と呼ばれるでしょう。主への愛だけが、あなたを誠実に保ってくださるのです。

また、もし、あなたの奉仕の動機が人々への愛だけであるなら、結局あなたは、神があなたに望んでいることではなく、人々があなたに望んでいることを行なうという誘惑に陥ります。この点において、私たちは雇われ人と羊飼いとに分けられます。雇われ人は、人々が求めるものを与えますが、羊飼いは神が与えるように言われたものを人々に与えるのです。それをあなたに可能とさせるものは、主への恐れだけです。

イエスの生涯と奉仕における主への恐れを見てみましょう。イザヤ 11:1-2はイエスのことを言っています。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」 聖霊の最高潮の要素は、主を恐れる霊です。それが父のひとり子、イエスの上にとどまります。イエスについて明確なことが一つあるとしたら、それは、イエスが神を恐れて歩まれたということです。イエスは父についてこう言われました。「わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行うからです。」(ヨハネ 8:29)。「わたしは、自分からは何事も行うことができません。」(ヨハネ 5:30)。「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。」(ヨハネ 5:19)。

イザヤ 11:3 はこう続きます。「この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず。」聖霊がイエスの上にとどまり、神のみこころとその方法に対する特別な敏感さを与えています。もし、今日の教会で私たちに必要なものが一つあるとしたら、それは、この神のみこころと神の方法に対する敏感さです。

へブル 5:7 はイエスについて言っています。

「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」

神がイエスの願いを聞き入れられたのは、その祈りが神への恐れから生まれたものであったからです。イエスがこの父への恐れを持っていたということは、なんという偉大なあかしでしょうか。私はこの聖句が何よりもゲッセマネを表わしていると信じます。イエスがゲッセマネで言われたことで、主への恐れを啓示していることの一つは何でしょうか。「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ 22:42)。あなたがそのように祈る時、あなたの祈りは聞かれます。

私たちはまた、初代教会に主への恐れがあったことを見つけることができます。

「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。」(使徒 9:31)

彼らは詩篇 2:11で言われていることを経験していまた。「恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。」その組み合わせがわかりますか。喜べ、しかし神を恐れつつです。その2つは決して切り離されません。なぜなら、もしあなたがその2つを切り離すなら、あなたはバランスを失ってしまうからです。私たちが聖霊の慰めのある主への恐れにおののきつつ喜ぶバランスを保つとき、教会は建て上げられるのです。

Iペテロ 1:17-19は、なぜ主を恐れるべきかを教えています。

「また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」

これらの言葉は、未信者に宛ててではなく、キリストの血によって贖われた、クリスチャンに宛てて書かれました。なぜ、私たちクリスチャンは、恐れかしこんでこの地上にとどまっていなければならないのでしょうか。私たちの贖いの代価のゆえです。私たちをあがなうために、神は御子の血という代価を払いました。神は、私たちの愚かさ、無知、不従順、反抗と高慢から贖われようにと、ご自身の御子を与えてくださいました。

私は、神なる聖霊が、私たちの心に主への恐れを植えられたと信じます。聖霊が教えてくださるまでは、私たちは主への恐れを持つことはないと私は信じます。しかし、聖霊による主への恐れに応答するとき、私たちは主の愛を楽しみ始めるのです。以下は、主の愛についての3つの聖句です。

「主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。」(詩篇 5:12)

主の愛は盾のようにあなたを四方から囲み守ります。あなたには主の愛のもとで、絶対的な安全があります。

ある意味、主の愛は神の臨在の雲として表わされます。箴言にこうあります。

「王の顔の光にはいのちがある。彼のいつくしみは後の雨をもたらす雲のようだ。」(箴言 16:15)。

ですから、あなたの上に神の愛があるとき、あなたは後の雨の雲の下を歩んでいるのです。

さらに、箴言はこう教えています。

「王の激しい怒りは若い獅子がうなるよう。しかし、その恵みは草の上に置く露のよう。」(箴言 19:12)。

つまり、神の恵みは、後の雨のようであり、また、草の上の露のようでもあります。あなたは神の愛、恵みの下を歩んでいるとき、決して霊的に渇くことはありません。

また、もし、あなたが主の愛の中を歩んでいるなら、行くところどこにおいても、あなたは雲と露を従えています。あなたは、神の民の上に祝福を降らせます。それ以上の特権があるでしょうか。

神の愛の雲の下で主を恐れて歩む神の謙遜な子どもとしもべは、「雨をもたらす者」です。その人は、関わる全ての人を自然と祝福します。その人が行く所どこにおいても、その人を映し出す、その人の内にある香りがあるのです。

神は今も、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている、主を恐れることを学んだ、神を主とする人々を探しておられます。神はそのような人を見つけられると、ご自身を力強く表わし、その人の人生の内に、またその人の人生を通して神の愛を表わします。私たちも、そのような人となることを選び取りましょう。

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