真理の御霊

デレク・プリンス
*First Published: 2019
*Last Updated: 2026年6月
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「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。
世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」(ヨハネ14:16-17)
イエスが父に、神性なる助け主を弟子たちに与えてくださるように願うことを弟子たちに約束したとき、イエスはその助け主を「真理の御霊」という特別な名で呼びました。しかし、同時に、世はその助け主を受け入れることができないと弟子たちに警告を与えました。
これについて、聖書は2つの理由を挙げています。
第一に、人が反抗により神に背を向けるとき、自分の不義の行ないがあらわになるので、真理を受け入れたくなかったからです。ですから、彼らは、「不義をもって真理をはばんでいる」(ローマ1:18)のです。
第二に、神への反抗は、人間を、全世界を惑わすこの時代の神「サタン」の支配にさらしました。惑わしは、自分のコントロールのもとに人間をとどめておくことができると信じているサタンの主な武器です(黙示録12:9)。その惑わしの能力が奪われたら、サタンには永遠の火の海以外に場所は残されていません。
何世紀もの間、人間哲学は、『真理』の満足のいく定義を生み出すことはできませんでした。一方、聖書は三要素の答えを与えています。第一に、イエスは「わたしが真理」であると言いました(ヨハネ14:6)。
第二に、父なる神への祈りでイエスは、「あなたのみことばは真理です」と言いました(ヨハネ17:17)。第三に、ヨハネは「御霊は真理」であると言いました(Ⅰヨハネ5:6)。
ですから、霊的領域での真理には、イエス、聖書、聖霊という3つの同格のものがあります。この3つが一致するとき、私たちは絶対的真理にたどり着いたことがわかるのです。しかし、結論に達する前にその3つの同格すべてを吟味することが重要です。あらゆる霊的問題についてなされなければならない3つの質問があります。
- それは、イエスを偽りなく表わしているか?
- それは聖書と一致しているか?
- 聖霊がイエスのあかしを運んでいるか?
歴史的に、もし教会が常にそれら3つの同格の真理を吟味していたなら、教会は多くの誤りと偽りをまぬかれたでしょう。教師が完全な道徳の模範としての魅力的なイエスを描くだけでは十分ではありません。あるいは、牧師が多くの聖書箇所をもって会衆に語ったり、伝道師が興奮したりするような超自然的な奇跡で聴衆に印象を与えることでも十分ではないのです。私たちが真理として示されていることを受け取ることができる前に、イエス、聖書、聖霊という3つの同格真理が正しくとらえられていなければなりません。
真理の3つの表現において、聖霊の特徴的機能は、あかしを運ぶことです。「あかしをする方は御霊です。」(Ⅰヨハネ5:6)
聖霊は、私たちの罪のための完全ないけにえとして十字架で血を流した、永遠の神の御子イエスをあかしします。チャールズ・ウエスレーのことばです。「御霊は血に答えます。そして、私が神の子であると告げます。」
聖霊はまた、パウロがテサロニケ人への手紙で書いているように、みことばの真理と権威をあかしします。
「なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。」(Ⅰテサロニケ1:5)
アナニヤとサッピラ
真理の御霊である聖霊と、「偽り者であり、また偽りの父」の間には妥協はあり得ません。このことは、初代教会において、アナニヤとサッピラが教会に捧げたお金について嘘をついたとき、劇的に起こりました。彼らは自分たちが売って得た土地代の一部を残しておきながら、全額を持ってきたと言いました。
しかし、ペテロの中の真理の御霊はだまされませんでした。ペテロは、あなたは人を欺いただけではなく、まさに、真理の御霊である聖霊をも欺いたとアナニヤを非難しました。
「そこで、ペテロがこう言った。『アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。』アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。」(使徒5:3-5)
3時間後、サッピラが来て同じ嘘を繰り返しました。夫と同様、彼女も嘘のゆえにいのちを失いました。
正しく定義すると、アナニヤとサッピラの罪は偽善、宗教的な見せかけでした。彼らは主に対して実際よりも進んで捧げ、仕えている振りをしました。
イエスは宗教の指導者たちにこの罪を最も強い言葉で非難しました。マタイ23章で7度言っています。「わざわいだ・・・偽善の律法学者。」
偽善者とは何ですか?
英語の単語「偽善者」、「偽善的」はギリシャ語で俳優を意味するhupokritesから直接来ています。これが偽善の本質で、宗教的行動を装うことです。おそらく、宗教的な人々の間では、偽善以上に蔓延している罪はないでしょう。事実、いくつかの宗教の形はほとんどそのことを求めているのです。
人々が宗教的な建物に入る時、全体的な振る舞いが変わります。彼らはもはや不自然で、不自由で、心を開きません。目に見えないある種の「束縛」にとらえられているようです。宗教的な仮面を付けるように求められていると感じます。異なる宗派では、別の種類の仮面を求められるかもしれず、本来の自分でいるのはごく少数の人々だけです。
説教者が特定の罪を非難するとき、そのような人々は義務的に「アーメン!」と応答します。しかし、彼らは教会の外では、その指摘された罪を良心のとがめさえなく行なっているのです。また、声を上げて祈る時、特別な口調や言葉を使います。もし、自分の子どもが、そのような作りものの言語や不自然なふるまいで話しかけてきたなら、人間の父親だったらどう感じるかと立ち止まって考えてみることがないのです。聖書の神は、偽善者にかまっている暇はありません。これは、ヨブの物語に非常にはっきりと表われています。ヨブの3人の友人たちは宗教的な決まり文句を連発して浴びせました。基本的に彼らが言っていたのは、「神は常に義人を祝福し、義人は決して不当に苦しむことがない。」と言いながら、「神は常に不法者をさばき、不法者は決して成功しない。」とも言っていました。しかし、歴史の事実はこれが真実でないことを証明しています。
一方、ヨブはまったく率直でした。彼が言っていたことは、「神は私を公平に扱っていない。私はこのような目に会うことは何もしていない。しかし、たとえ神が私を殺されたとしても、私はなおも神を信頼する。」でした。
ヨブ記42:7で、主はヨブとその友人たちの行ないの評価をしています。
「主はテマン人エリファズに仰せられた。『わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。それは、あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ。』」(ヨブ42:7)
私たちは、自分自身に尋ねてみる必要があります。このような宗教的振る舞いは、自分たちのいのちを失ったアナニヤとサッピラの罪と異なるものだろうかと。
真理の瞬間
ダビデ王は、王であったときに2つの恐ろしい罪を犯しました。一つは、自分の隣人であるウリヤの妻バテシェバとの姦淫です。そして、その罪を隠すために、ダビデはウリヤへの殺人を引き起こしたのです。
明らかに、ダビデは自分の罪をうまくごまかしたように見えました。彼は、続けていつものように礼拝をしていました。王としての仕事を果たしていました。なおも王宮に住んでいました。表面上は何も変わっていませんでした。神の使いである預言者ナタンがダビデの罪を指摘するまでは…。その瞬間、ダビデの永遠の運命が危うくなりました。神の恵みにより、ダビデは正しい応答をしました。彼は弁解をせず、隠そうともしませんでした。ダビデは、「私は罪を犯した。」と認めたのです。(Ⅱサムエル12:1-15)
のちに、詩篇51篇でダビデは告白の祈りを捧げ、あわれみを請いました。5、6節はともに、いのちの真理の瞬間的啓示を表わす、「ああ、」という言葉で始まっています。
5節で、「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」と言っています。ダビデは、真理の御霊だけが示すことのできる何かに直面しました。それは、彼が犯した罪深い行為だけでなく、アダムの子孫すべての内にある、罪深さの性質という恐ろしい悪の力です。
6節は、神が与えてくださる、内に住む罪の力からの解放の唯一の基礎を明らかにしています。「ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。」罪を犯した後でさえ、ダビデは表面上は王としてふさわしいふるまいを続けてきました。しかし今、彼の表面上の行ないと心の中の状態には大きな隔たりがあります。彼は偽善者になっていました。もはや心の中にあるものと一致しない役割を演じていました。解決策はただ一つでした。偽りのない告白と心からの悔い改めです。聖書全体で一貫している一つの真理があります。神は決して罪に妥協しないと言うことです。これは、イエスの生涯の2日間に鮮明に描かれています。しゅろの日曜日と受難日です。しゅろの日曜日にイエスは、ガリラヤのナザレの預言者、民衆の英雄としてエルサレムに入られました(マタイ21:11)。町中がイエスを歓迎しました。宗教の指導者たちである苦々しい敵を無視して、ご自身を王として確立することは容易にできました。それこそが、人々が望んでいたことでした。聖書全体で一貫している一つの真理があります。神は決して罪に妥協しないと言うことです。これは、イエスの生涯の2日間に鮮明に描かれています。しゅろの日曜日と受難日です。しゅろの日曜日にイエスは、ガリラヤのナザレの預言者、民衆の英雄としてエルサレムに入られました(マタイ21:11)。町中がイエスを歓迎しました。宗教の指導者たちである苦々しい敵を無視して、ご自身を王として確立することは容易にできました。それこそが、人々が望んでいたことでした。しかし、イエスは別の道を選びました。5日後、イエスは拒絶され裸にされ、残酷な十字架にかけられました。なぜでしょうか。なぜなら、神は決して罪に妥協せず、罪を取り扱う唯一の方法は、十字架でのイエスの犠牲だけだったからです。
今日多くのクリスチャンがリバイバルについて話し、祈っています。彼らは決して避けることのできないリバイバルのひとつの障壁があるという事実を見落としています。それは、罪です。罪が取り扱われない限り、本当のリバイバルは決して訪れません。そして、罪を取り扱う方法もたった一つです。「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」(箴言28:13)
率直に言うと、現代の教会の多くが、「隠れた罪」で満ちています。以下は、クリスチャンが隠そうとする罪の数例です。
- 子どもの虐待-身体的、感情的、性的、あるいは、2つ以上混ざり合ったもの
- 壊れた結婚の誓い
- 道徳的でないお金の取り扱い
- ポルノ依存(教会のリーダーたちの間にこれが蔓延していることに私はショックを
- 貪欲-過度な物質的、物理的欲求
神の解決法には2つが伴います。まず告白、その後、放棄です。自分の罪を告白することは簡単ではありません。しかし、他に方法はありません。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)。神は私たちが告白しようとしない罪を決して許すことはありません。
しかし、告白するだけでは十分ではありません。私たちは「放棄」もしなければなりません。告白した罪を犯し続けないと固く決意をしなければならないのです。ダニエルがネブカデネザル王に言ったその助言に、私たちも従わなければなりません。「正しい行いによってあなたの罪を除き…」(ダニエル4:27)。義と罪の中間はありません。「不正はみな罪です…」(Ⅰヨハネ5:17)。正しい行ないでないものはすべて、罪深いのです。
あなたは、難しい決断に直面していますか。
この手紙によって、あなたが自分の人生で受け入れてきたものに、疑問を投げかけた、あるいは何らかのあなたの不従順の領域に直面させられているなら、真理の御霊に心を開いてください。真理の御霊はあなたを助けたいと願って待っておられます。
*Prayer Response
親愛なる天の父よ、私は今、心を開いて真理の御霊である聖霊を迎え入れます。私の中には罪と不従順の領域があることをすでに知っています。それらをあなたに告白し、あなたの恵みの中で前進するにつれてそれらを捨てることを誓います。あなたの御霊の力を私たちに与えてくださることに感謝します。今日から私の人生とミニストリーのあらゆる面で、真理の御霊が働いてくださいますように。アーメン。
コード: TL-L128-100-JPN