罪に定められることはない

- 私は赦され、罪から解放されました - 

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。・・・肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。(ローマ8:1、3)  

コーヒーには、豆を挽いて漉すタイプとインスタントの二種類あります。前者は、漉す過程があるため、出来るまでに時間がかかります。ローマ人への手紙は漉すタ イプのコーヒーのようなものです。インスタントコーヒーのように8章だけを読むことはできません。その前の7つの章を漉さなければならないのです。前の7つの章はドリッパーと言えます。それらを読むことによって、はるかに味わい豊かなも のとなります。それまでの7章を経て初めて、「そういうわけで」にたどり着けるのです。8章以前は、全人類の罪深さ、そして宗教が人の罪の性質を変えることはできないことを扱っています。アブラハムとダビデの例(4章)と、アダムとキリ ストの比較(5章)を用いて、また6章では、パウロは古い人に対する神の解決策、 つまり古い人を死につけることをはっきり語っています。神は古い人にあて布をするのでも、矯正するのでもありません。死につけるのです。喜ばしい知らせは、イ エスが十字架で死なれたときにその処刑がなされたことです。 

ローマ人への手紙7章は、私たちと律法との関係を扱っています。以前、私は「なぜ、結局律法に戻るのだろう」と考えていました。しかし、私たちが乗り越えなければならない最後のハードル、通らなければならない最終段階は、私たちが律 法とどのように関わるかであるとわかりました。それを通らなければ、ローマ人への手紙8章に生きることはできません。なぜなら、その生き方の本質的な条件は 「罪に定められることはない」だからです。私たちが罪責感を抱く時というのは、ローマ8章にある御霊に満たされた生き方から外れてしまう時です。悪魔のおもな目的は、私たちを罪責感のもとに置くことです。神のみことばの目的、特にローマ人への手紙の目的は、私たちを罪悪感から解放することです。

【祈り】

主よ、あなたの赦しを感謝します。私は、悪魔が私を罪悪感のもとに来させようとすることか解かれています。私はキリスト・イエスにある者なので罪に定められません。私は赦され、罪から解放されました。アーメン。

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