恵みの御座に近づこうではありませんか
神の御座に近づくときに、私たちの確信の土台を形成するのは、自分の義でも自分の忠実さでもないことを忘れてはいけません。そうではなく、神の義と神の忠実さです。ヨハネの手紙第一はこの考えを表現しています。
「愛する者たち。自分の心が責めないなら、私たちは神の御前に確信を持つことができます。そして、求めるものを何でも神からいただくことができます」(Ⅰヨハネ3:21-22)。
自分自身の義や自分には主張する権利があるという考え方で神に近づくことは、結果的に、十分な確信がないままで神に近づくことになります。私たち自身には何もないからです。自分の義など持ち合わせていません。私たちの確信は、自分自身に基づくことはできないのです。
また、自分の心に責められることがない状態、つまり、自分の義や自分の知恵にではなく、神の忠実さに信頼する地点まで来なければなりません。それは確信を生み出します。パウロは言いました。「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ8:1)。このあとの部分で、パウロは聖霊に満たされ、聖霊に導かれる最も輝かしい人生の姿を描き、すべての祝福と特権と益を列挙しています。しかし、その章の導入、つまりそのような人生への入り口は、上記の1節に示されています。私たちはすべての罪責感を捨てなければなりません。
神への正しい近づき方の一つは、イエスの名によって行くことです。イエスの名によって行くとき、私たちの祈りは、イエスのゆえに聞かれると確信できます。自分の生き方や行いに注目しないようになります。イエスの名によって行くとき、私たちは自分の罪が赦され、神の子どもとして受け入れられていることを信じます。これは神を喜ばせることです。神は、私たちがそのようして来ることを願っておられます。
【祈り】
主よ、私は大胆にあなたのもとに行くことができることを感謝します。私はイエスさまの御名によって神の御座に行きます。私の罪は赦され、神さまの子どもとして受け入れられていることを信じます。私は恵みの御座に近づきます。アーメン。