自分の思いを捨てる

成熟を目指して進もうではありませんか

旧約聖書の祭司の特徴的な役割は、いけにえを捧げることでした。ですから、イエスも祭司としていけにえを捧げなければなりませんでした。イエスはレビ族ではなかったため、律法で決められたいけにえを捧げることはできませんでした。ですから、イエスはご自身の祭司としての特別ないけにえ、すなわち、祈りを捧げられたのです。

キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び(へブル5:7-8)

敬虔な従順のゆえに、イエスの祈りは父に聞き入れられました。イエスは従順を学ばなければなりませんでした。ですから、私たちも同じようにして従順を学ぶ必要があります。従うことによって、従順とは何かが分かるようになるのです。従順についてのメッセージを聞いて分かるのではありません。それは助けにはなりますが、従うことによって少しずつ分かるようになるのです。従順は、自分の思いを否定することが求められるので苦痛を伴います。イエスの従順の鍵は、

「わたしの願いではなく、みこころがなりますように」(ルカ22:42)

です。信仰生活における従順の一歩一歩は、自己否定の歩みです。イエスは言われました。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(マタイ16:24)

それは痛みを伴います。古い自我は否定されることを嫌うため、苦痛なのです。自我は、「私は欲しい」、「私は重要な人間だ」、「これが気に入った」、「私は気分がいい」、「私は欲しくない」など言います。主に従うことは、その自我を否定し続けることが求められます。

上記のへブル人への手紙の聖句で、神は、従順によって子として成熟することについて語っておられます。イエスがその模範です。神は従順によってイエスを成熟へと導きました。これは、私たちにとっても通るべき道です。これこそが、新しい生ける道なのです。

【祈り】 

主よ、あなたが私を前進させてくださることを感謝します。主に従うことは、自我を否定し続けることが求められます。私もそうなれるようにイエスさまの模範に従うことを選び取ることを宣言します。私は成熟を目指して進みます。アーメン。

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