死者の復活

デレク・プリンス
*Last Updated: 2026年3月
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Iテサロニケ 5;23—24 を宣言しましょう。自分のものとして宣言するために、「あなたがた」という部分を「私たち」に言い換えましょう。今日の学びは主の再臨についてなので、それに備えるための特別なみことばです。
「平和の神ご自身が、私たちを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、私たちの霊、たましい、からだが完全に守られますように。 私たちを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」
土台の教えも残り2つとなりました。この学びでは、死者の復活について、最後の学びでは、永遠の裁きについて話します。
「今、平和の神ご自身が私たちを完全に聖別し、私たちの全ての霊、魂、体が、私たちの主イエス・キリストの来臨の際に非の打ち所なく保たれますように。私たちを招いてくださる方は忠実であり、必ずそれを成し遂げてくださいます。」
アーメン。
さて、私たちは偉大な基礎教義の最後の2つ、死者の復活と永遠の裁きに来ました。このセッションでは死者の復活について扱い、次のセッションでは永遠の裁きについて扱います。
復活という言葉の意味を理解する必要があります。ギリシャ語では、「〜から立ち上がる」です。つまり、復活とは死からの立ち上がり、墓からの立ち上がりです。今日宣言したみことばで、人は、霊とたましいとからだの三つから成っていることがわかります。からだは死に、そのからだが、よみがえらされるということを理解することは重要です。霊とたましいは死ぬことがないので、復活する必要はありません。ですから、からだの復活について語っているのです。これは非常に重要なことです。
では、人が死んだあとに何が起こるのかを聖書の中から少し見ていきましょう。国籍や文化に関係なく、誰もが死後に何が起こるのかを知りたいと思っています。
それは聖書にかなり明確に書かれているので、その概要と復活への影響を見ていきたいと思います。 ルカ16:22—31で、イエスは死後に何が起こるのかを示しています。これは決して「たとえ話」とは呼ばれていないことを言っておきます。これに関して「たとえ」という言葉が用いられていないからです。 ルカ16:19からです。
「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は 慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。
それは、経験によって真実であると証明されました。イエスが死からよみがえられた時でさえも、モーセと預言者たちを信じなかった人たちには、何が起こったのかを認識していませんでした。これは非常に厳粛な考え方です。私たちは時にすばらしい超自然的な現れを期待し、それが起こったら納得できると言うのです。しかし神は、「あなたが私のことばを持っているなら、それで十分だ。それを信じて従うなら、みことばがあなたを導く」と言われます。
さて、この金持ちとラザロの話で示されている5つの特徴を見ていきましょう。
第一に、死んだ後も人格は継続します。金持ちの男はその男のままで、ラザロもラザロのままでした。 二人とも自分の人格を失ってはいません。死後は全てが消え去り、何も残らないと教える人もいますが、 それは聖書的ではありません。私たちは死後も、生きていた時と同じ人格が続くのです。
第二に、人としての認識があることです。金持ちはラザロのことも、アブラハムのことも認識できました。そしてラザロは金持ちの男を認識できました。
第三に、地上での生活の記憶があることです。金持ちとラザロは、死ぬ前のそれぞれの生活の状況を思い起こすことができました。
第四に、現在の状態の自覚があるということです。金持ちは苦しんでおり、その舌は炎で焼かれていましたが、ラザロはアブラハムのふところで慰められ、平安を得ていました。
第五に、義と不義の間に完全な隔たりがあったということです。それぞれに決められた場所があり、 互いに行き来することはできませんでした。
その5つを復習しましょう。非常に重要なことであり、今日流布している多くの理論に反するものなのだからです。
一つ目、アイデンティティーは失われず、人格は継続する。
二つ目、人を見てその人が誰であるかを認識できる。
三つ目、地上での人生の記憶がある。
四つ目、死後の現状の自覚がある。
五つ目、義と不義の間に完全な隔たりがある。
さて、イエスが死んで復活する前に死んでしまった人には、何が起こりましたか。その出来事が人類の歴史を二分したので、イエスの死と復活の前と後では、たましいの行き先は同じではありません。イエスの死と復活は、実に全宇宙に変化をもたらしたのです。それは宇宙の歴史で最も決定的な出来事であり、死んだ人に起こることに影響を与えました。
では、イエスの死の前に起こったことを見ていきましょう。すでに金持ちとラザロの話で見ましたが、すべてのたましいは、ヘブル語でシェオル、ギリシャ語でハデスと呼ばれる場所に行きます。ハデスとは、見えない世界という意味です。ですから、義人も義人でない人も等しく、このハデス、あるいはシェオルと呼ばれる見えない領域に入ります。そこは死んだ人のたましいの場所ですが、義人とそうでない人のための二つの完全に分かれた領域があります。そして、前の学びでも言ったように、すべての人は義であるか、そうでないかのどちらかで、その中間というのはありません。あなたは、少しだけ義で、少しだけ不義であるということはありえません。必ず、そのどちらか一方なのです。
義人のための場所は、「アブラハムのふところ」と呼ばれています。義人たちは、信じるすべての人の父アブラハムのふところに迎え入れられ、慰められるというのが私の理解です。
イエスが死んだ時に何が起こったでしょうか。イエスは完全なお方でした。私たちと同じように、霊、たましい、からだを持っていました。イエスのご性質においては、その3つの要素はそれぞれ違った意味がありました。ルカ23:46に、イエスが死んだ時にその霊に何が起こったかが書かれています。
「イエスは大声で叫んで、言われた。」
私は、その叫びは、「完了した」であったと信じます。
「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
このように、イエスの霊は父に委ねられました。
イエスのたましいはどうなったでしょうか。使徒2章で、ペテロはペンテコステの日に、詩篇の作者ダビデは自分の体験としてではなく、イエスの体験として詩篇16篇を引用して語っています。ペテロは、ダビデはイエスについてこう書いていると言いました。
「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず...」
このように、イエスのたましいは、霊とは離れた領域に下って行きました。また、Iペテロ3:18、19 にこう書かれています。
「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。 その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。」
イエスはハデスに下られました。それについて、私が詳しく説明できないことがありますが、聖書が言っていることをお伝えします。イエスは宣言されました。この翻訳では、みことばを「語られた」となっていますが、それは「宣言する」という語です。それはイエスが福音を語ったという意味ではなく、宣言をされたということです。私の推測では、イエスはこう言ったのではないかと思います。「今からは私がこの場所の支配者である。私は死とハデスの鍵を持っている。そして今から続くすべてのことにおいて、あなたは私に対して釈明義務がある。」これは私の推測であり、間違っているかもしれません。
一方、イエスのからだは墓に納められました。ヨハネ19:40以降で、イエスが十字架で死なれた後のことが書かれています。ヨハネ19:40、42です。
「そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。」
彼らは細長い亜麻布でイエスのからだを包みましたが、遺体が腐敗して悪臭を放つだろうと思い、大量の香料を染み込ませました。
「イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。その日がユダヤ人の備え日であったため、墓が近かったので、彼らはイエスをそこに納めた。」
それ以上は進む必要はありません。
また、イエスがよみがえられた後、使徒たちや女性たちが墓に行って、納めたはずのイエスのからだが見当たらなかったことを、その後の節から知ることができます。ハレルヤ!
では、イエスの全人格はどうなったのでしょう。イエスはご自身の霊を父にゆだね、たましいはハデスに下り、そこで宣言をしました。他にも多くのことをなされましたが、イエスのからだは墓の中にありました。しかし、よみがえられた時、イエスの全人格は再び一つになり、霊、たましい、からだから成る完全な人となりました。
イエスの死と復活を通して起こったことは、全宇宙に影響を与えました。それはまた、死によるたましいの行き先を決定付けました。イエスの復活以降、義人の行き着く先はハデスではなく、とても輝かしい場所です。2つの例を挙げましょう。使徒7:57以降で、ステパノは人々から石打ちにされ、彼には死が迫っていました。
「人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。『主イエスよ。私の霊をお受けください。』」
ステパノは自分の霊が直接イエスのもとに行くことを知っていました。これこそが、イエスの死と復活によって起こった変化なのです。
「そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。『主よ。この罪を彼らに負わせないでください。』こう言って、眠りについた。」
ステパノがそのように祈ったので、タルソのサウロは救われることができたのです。もし、ステパノがサウロを罪責感から解放しなかったら、サウロは救われることがなかったでしょう。それは素晴らしい希望です。
しかし、私が強調したいことは、イエスの血によってきよめられ、神のために忠実に生きる真の信者が死ぬとき、霊はイエスの元へ直接引き上げられるということです。パウロも、このことをピリピ1章で言及しています。彼はどちらを選べばよいのかわからないと言っています。地上で生き続けることか、 それとも死んでイエスの元へ行くことか。ピリピ1:23です。
「私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。」
このように、パウロは今自分が死んだら、キリストと共にいるという完全な確信を持っていました。 これは、イエスの死と復活によってもたらされた一つの大きな変化です。
もう一つ起こったことがあり、私がお伝えできることもいくつかありますが、すべてについて詳しく語ることはできません。それは、アブラハムのふところにいた義人のたましいが解き放たれたことです。 エペソ4:8を見てみましょう。ここでは詩篇68章が引用されており、イエスの復活について書かれています。
「そこで、こう言われています。『高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。』」
私の理解、また多くの聖書注解者たちによる理解は、「彼は多くの捕虜を引き連れ」というのは、イエスが義人のたましいを解き放ち、ご自身と一緒に天に連れて行ったのだという解釈です。このように、それらのたましいは、実際に罪の報酬が支払われるまで、解放されません。神が彼らを義人として受け入れたのは、彼らはまだ捧げられていなかったいけにえ(イエス)に自分たちの信仰を置いたからです。彼らは約束されたいけにえ(イエス)を待ち望んでいました。しかし、そのいけにえが実際に捧げられるまで、つまりイエスの十字架での犠牲まで、彼ら(たましい)は解放されませんでした。しかし、イエスがご自身を捧げ、ハデスに下り、ある時点で何らかの方法でイエスはそのたましいたちを連れて行きました。私はそう信じます。彼らは死の捕虜となっていましたが、イエスはその捕虜たちを引き連れて行ったのです。そして彼らはイエスと義の捕虜となったのです。それは私にとって興奮すべきことです。
次に非常に重要なことは、イエスの復活は私たちの復活を保証するものであることです。そのことは私たちが完全に主に献身しているかどうかにかかっています。コロサイ1:18で、パウロは再度イエスの復活について語っています。
「また、御子はそのからだである教会のかしらです。」
イエスはかしらであり、私たち信者はからだです。イエスはまた、初めです。
「御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。」
つまり、イエスは死者の中から最初に生まれた長子であり、まったく新しい創造のかしらです。新しい人種のかしら、神であり、人で、一人の人格の中に神と人の性質を兼ね備えています。
イエスはからだのかしらで、死者の中から最初に生まれました。そして復活は、死からの誕生にたとえられています。これは非常に美しい描写です。自然分娩では通常、からだのどの部分が最初に出てきますか。頭です。そして頭に続いて、からだの残りの部分が出てきます。ですから、イエスの復活は、イエスのからだが復活に続いて起こることの保証なのです。
また、イエスのからだの復活は私たちの模範です。そのことにみなさんが興奮してくださることを願います。そうでなければ、私の話が伝わっていないことになります。パウロはピリピ3:20-21でこう言っています。
「私たちの国籍は天にあり...」
新しく生まれ変わってイエスのために生きるという決心した私たちは、この地上で生き、地上の国民ですが、本当の国籍は天にあるのです。ある国の国民であるなら、通常はその国のパスポートを持つことができます。ですから、私たちはイエス・キリストの血潮というパスポートを持っているのです。
「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」
真のクリスチャンであるというしるしは、救い主を熱心に待ち望んでいることです。続いてこう書いています。
「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」
これは文字通りの翻訳ではありません、文字通りに訳すと、とても鮮明になります。
「キリストは...私たちの恥なるからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」
気づいていないかもしれませんが、私たちは恥のからだで生きています。罪のゆえに恥とされています。どれほど裕福であっても、どれほど健康であっても、自分が罪人であることを絶えず思い起こさせる事実があると言いたいのです。ごちそうを食べ、好きなだけお酒を飲んでも、あとでトイレに行って、腸と膀胱を空にしなければなりません。どれほど裕福でも、名誉や地位があっても、それは恥のからだです。また、最高級の服を着ていても、少し運動すると、汗をかきます。これは恥のからだです。神はそのように、私たちひとり一人が自分の罪のゆえに、恥の状態であることを絶えず思い起こさせるように定めておられるのです。しかし、イエスはこの恥のからだをご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださいます。ワクワクしませんか。このからだが変えられるのです。その変化の詳細はあとで見ていきます
しかし、密接に関連している事実を一つだけ言っておきましょう。Iヨハネ3:2-3で、ヨハネはこう言っています。
「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。」
つまり、私たちがどのようなからだを持つようになるか、まだ見たことがないということです。
「しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」
イエスが現れ、私たちがイエスを見るとき、私たちのからだはイエスに似た者へと変えられます。
しかし、次の3節がとても重要です。
「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」
あなたは復活の望みを抱いているでしょうか。あなたが復活を心から望んでいるなら、あなたは自分自身をきよくしています。きよさの基準は何でしょうか。イエスです。イエスが清くあるように、です。あなたが復活を望んでいると言っても、自分自身をきよくしているという証拠がない、さらにきよくあるようにとしている証拠が見られないなら、あなたは自分を欺いているかもしれません。あなたは心から願っているのではなく、単に宗教的なことばを使っているだけです。なぜなら、それは恥のからだから栄光のからだへと変えられていくことを心から願っている人すべてに見られるしるしだからです。もう一度、その箇所を読みましょう
「彼に対してこの希望を持つ者は、彼が清いように自分自身を清めます。」
あなたにはそのしるしがありますか。あなたがイエスの再臨を切に望んでいることが、あなたの人生における証拠でしょうか。
私たちのからだはイエスのように変えられます。福音書の記録によると、イエスは時間や場所に制限されていないことがわかります。イエスは天に上り、再び下り、すべての扉が閉められていた部屋に入ることができ、ある人にはある姿で、別の人には別の姿で現れました。イエスは順応自在なからだを持っておられたと言うことができるでしょう。私たちも同じようなからだに変えられると、私は信じています。
人々は、「それはどのようなからだだろうか」と疑問を抱きます。パウロは、Iコリント15:35-38で、 その疑問を取り扱っています。
「ところが、ある人はこう言うでしょう。『死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。』」
ほとんどの人がそう思ったことがあるでしょう。
「愚かな人だ。あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。」
そして、続けてその種のたとえを語っています。
「あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です。しかし神は、 みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。」
さて、そこには継続と変化という2つの要素が組み合わさっています。リンゴの種を植えて、みかんを収穫することはできません。種の性質は、その種から生まれる命の性質を決定づけます。つまり、継続性がありますが、変化もあります。りんごの木は、土に植えた種とは全く違った形をしています。継続されるものがあり、あなたはあなたのままですが、劇的で超自然的な変化が起こります。あなたが蒔いたものが、生まれてくるものを決定づけますが、生まれてくるものは、蒔いたものとは全く違う姿です。 ですから、私たちのからだは種として地中に埋葬され、同じからだで出てくるにもかかわらず、まったく違った姿です。それは非常に輝かしい姿であると私は思います。
種について考えるとき、私はいつも驚嘆します。その小さなものについて考えるとき、いつもスイカの種を思い浮かべます。その小さな黒い種を土に蒔くと、大きな丸いスイカが出てくることは、奇跡の連続です。種を蒔くたびに、私たちは奇跡を植えているのです。そしてその奇跡は、私たちの復活を思い起こさせるためのものです。
イエスはよみがえられた時、それが十字架につけられたその同じからだであることを強調することに注意を払いました。ルカ24章を見ましょう。イエスが最初に現れたとき、弟子たちはみな、ひどく恐れました。何が起こったのか全くわかりませんでした。しかし、ルカ24:38-39で、イエスはよみがって現れた後に、弟子たちにこのように言っています。
「すると、イエスは言われた。『なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。』」
彼らに見せたイエスの手とわき腹には、十字架につけられた証拠がありました。同じからだでありながら、変えられたことを明らかにしたかったのです。
そして、ヨハネ20章には、イエスの復活についてのさらなる記録があります。19節です。
「イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。『平安があなたがたにあるように。』」
「平安があなたがたにあるように」というのは、中東の伝統的なあいさつです。
「こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。」
イエスは何故そのようにしたのでしょうか。それが十字架につけられた同じからだであることを示すためです。トマスはその場にいなかったので、「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言いました。そして、一週間後にイエスが再び現れ、トマスにこう言いました。27節です。
「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。」
つまり、トマスが手を差し入れることができるほどの傷が残っていたのです。これは非常に重要なことです。なぜなら、あなたが復活する時、あなたは新しいからだを持つのではなく、違った姿に見える、変えられた同じからだだからです。
パウロは、私たちの復活するからだの5つの具体的な変化について述べています。Iコリント15:42-44、 そして52、53節です。
「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ...」
朽ちるものとは何のことでしょう。腐敗です。腐敗するものはみな、朽ちるのです。
「卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。」
血肉のからだがあり、御霊のからだがあります。それは理解しにくいものです。残念なことに、その翻訳は分かりにくいです。これは英語翻訳の問題点の一つで、どの翻訳も同じ問題が生じています。ギリシャ語の単語は、psuchekos で、ギリシャ語でたましいという単語の psucheから直接派生しています。唯一、妥当な翻訳は「肉的」(人間的思考)です。肉的なからだが蒔かれ、御霊のからだでよみがえらされます。そのように、霊とたましいの区別があります。いくつかの言語、たとえばスウェーデン語やデンマーク語には、「肉的」を表す単語があります。他の言語にも、聖書が教えているものを正しく表現するための単語があればよいのですが。
たとえば、Iコリント2:14でパウロはこう言っています。
「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。」
その翻訳はすべて、「生まれながらの人間」、「肉のままの人」などとなっています。それは、肉的な人と御霊の人の非常に重要な違いが曖昧になってしまっています。正確には、肉的なからだが蒔かれ、つまり葬られ、御霊のからだがよみがえるということです。
それをうまく説明することは、私にはできません。しかし、私は何について言っているのかは知っています。私たちの現在のからだでは、たましいが決断を下すということです。私がドアを通って行きたかったら、私のたましいはドアを通るように言い、私の足はそれに従います。ある意味、私たちの霊は私たちのたましいに依存しているのです。ダビデが自分のたましいに言ったことを思い出してください。「わがたましいよ、主をほめたたえよ。」ほら、そうするんだと。霊は主をほめたたえたいのですが、たましいは反応が鈍かったのです。どうやらそうだったようです。正しいことを行うためには、自分の霊が自分のたましいをかき立てるようにしなければなりません。私たちは主をほめたたえるべきだとわかっていても、たましいは鈍いので、かき立てなければならないのです。このことに納得できないかもしれませんが、これが私にできる最善の説明です。
からだがよみがえる時、それは御霊のからだとなります。つまり、霊が直接からだを統制します。どのようにでしょうか。私にはわかりません。何年も前、デンマークで一人の床屋の男性に出会いました。彼はどちらかというと単純な人でしたが、ある日こう言いました。「夢を見たんだ。私はからだのようなもの中いて、行きたいところをただ指し示すと、そこへ行けた。右へ行きたかったら右を指し、左へ行きたかったら左を指す。私が指し示すどこへでも、私のからだは行ったんだ。」それは御霊のからだであると、私は思います。からだがどのようなものになるかという小さな予見です。あなたがからだを動かすために、たましいを通して命令する必要はなく、あなたの霊が決断をします
このことを受け入れるかどうかはあなた次第ですが、これが、私が提供できる最善のものです。
では、Iコリント15:52-53を読みましょう。こう書いてあります。
「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、 死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。」
朽ちるものは腐敗の支配下にあり、死ぬべきものは死の支配下にあります。この聖句の2つの文には、私たちのからだに起こる5つの具体的な変化があります。
朽ちるものは朽ちないものへとなり、腐敗の支配下にあるものは、もはや腐敗の支配下にありません。死から不死へとなり、死はもはや死の支配下にありません。葬られた者は恥から栄光へとなる。それはある意味、みじめというよりは、私たちが下る方法と言えます。私たちがよみがえる時、栄光のうちによみがえります。弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされます。そして、すでにお話ししたように、肉的なからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされます。それら5つの変化を復習しましょう。
朽ちるものから朽ちないものへ。
死から不死へ。
恥(卑しいもの)から栄光へ。
弱いものから強いものへ。
肉的なものから霊に属するものへ。
さて、イエスの復活は、キリスト教の教えの最重要の要素です。それを脇に置いて、自分をクリスチャンと呼ぶことはできません。Iコリント15:14でパウロは言っています。
「そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」
また、17節ではこう言っています。
「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」
つまり、私たちの罪の赦しは、イエスの復活と絶対的な結びつきがあるということです。イエスが復活しなかったら、福音は偽りであり、私たちの信仰はむなしく、私たちはなおも自分の罪の中にとどまっていることになります。イエスのからだの復活の事実を否定する著名な神学者や学者たちがいますが、その人々は今も自分の罪の中におり、救われていません。イエスの肉体の復活を信じない限り、救われないのです。
では、イエスの復活の証拠に進みましょう。イエスの復活について、聖書ではどのような証拠が挙げられているでしょうか。興味深いことに、第一の証拠は、目撃者の証言ではありません。第一の証拠は、人間の証言よりも優先される、「みことば」の証拠です。
イエスの復活を預言している旧約聖書の箇所をいくつか見てみましょう。これは非常に興味深い話題です。Iペテロ1:10-12を見てみましょう。
「この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。」
つまり、旧約聖書の預言者たちは実に難問を抱えていたのです。それはかなりの難問であったのでみなさんに理解してもらえるかどうかわかりません。ペテロは、メシアの御霊、つまりキリストの御霊が預言者たちのうちにおられたと言っています。ですから、その霊感のもとで、預言者たちは自分たちには決して起こらないことを一人称(私)で語ったのです。それは困難であったに違いありません。あなたが旧約聖書の預言者たちの立場だったらと考えたことはありますか。彼らは自分たちには決して起こらないことについて非常に奇妙なことを言いました。2つの例を挙げましょう。詩篇22:16は、メシアの詩篇と呼ばれています。言い換えれば、メシアの啓示の解き明かしです。ダビデは一人称でこのように言っています。
「犬どもが私を取り囲み、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。」
それはダビデには決して起こりませんでした。この言葉を言ったとき、ダビデはどのように感じていたと思いますか。私には見当もつきませんが、彼は自分のうちにあったキリストの霊に導かれたのです。 ですから、自分には決して起こらない、メシアに起こることを一人称で語ったのです。
次に、イザヤ50章を見てみましょう。他にも数えきれないほどの例がありますが、2つの非常に明確な例だけを挙げます。イザヤ50:6です。
「打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。」
それは、イザヤの人生に起こったことではなく、イエスの公生涯において起こったことです。しかし、それは一人称で書かれています。私が何を言っているかわかりますか。聖霊を通して、預言者たちのうちにあるメシアの霊がメシアなるイエスに何が起こるかを預言しているのです。それは彼らには決して起こりませんでした。ですから、当然彼らは語っていることが起こる時を探りました。その言葉を受け取る信仰を持っていた彼らの信仰に圧倒されます。これは聖書で預言されているキリストの復活の最初の確証ですから、彼らのことを神に感謝します。
ペンテコステの日に使徒ペテロが引用した詩篇16篇には、イエスの死と復活の驚くべき概要が記されています。詩篇16:8以降です。
「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」
それはダビデにも当てはまりますが、またメシアにも当てはまります。自分が経験した特定のことを語り、その経験を超えて、自分たちには実際には起こらないことへと話を移しています。ダビデは続けて言っています。
「それゆえ、私の心は喜び、私のたましい(英語NKJVでは栄光)は楽しんでいる。」
使徒2:26を開くと、あなたのたましい(栄光)が何であるかがわかるでしょう。ペテロは「私の舌は大いに喜んだ。」と言っています。お分かりですか。前にも言ったように、あなたの舌はあなたのたましい(栄光)です。なぜなら、あなたの口の中にある舌は、神に栄光を帰するために、あなたに与えられた一つの器官だからです。ダビデはこう言っています。
「それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。」
言い換えれば、私は葬られても、復活の希望がある、ということです。
「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず...」
イエスのたましいは、よみに下られたことを示しています。
「あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」
イエスのからだは、墓の中にかなりの時間置かれていましたが、腐敗することはありませんでした。 なぜなら、イエスは一度も罪を犯したことがなかったからです。罪はからだを腐敗させる傷だからです。 そして、最後の節にこう書かれています。
「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」
それはイエスがよみがえられた時に成就されました。イエスは父の臨在へと戻り、そこには喜びが満ちていました。それが一つの例です。
もう一つの例は、詩篇71:20-21です。これは驚くべき詩篇です。作者は不明です。背景を調べてみてください。とにかく作者は神についてこう言っています。
「あなたは私を多くの苦しみと悩みとに、会わせなさいましたが、私を再び生き返らせ、地の深みから、再び私を引き上げてくださいます。」
そのことは、詩篇の作者たちの誰にも起こらなかったことです。
「あなたが私の偉大さを増し、ふり向いて私を慰めてくださいますように。」
これはイエスにだけ当てはまります。イエスは葬られ、よみがえり、その偉大さが増しました。イエスはすべての名に勝る御名の持ち主となりました。それは詩篇の作者に起こったのではなく、イエスに起こったことです。彼らのうちにあったメシアの霊が、後に起こることを前もって証ししたのです。あなたがこの真理を受け入れ始めるとき、それはイエスの復活の現実の最も力強い確証となります。
そして、もう一つ興味深い聖句があります。パウロはIコリントで、福音は3つの事実から成っていると言っています。それは前にも見たところです。イエスは聖書に従って死に、葬られ、聖書に従って三日目によみがえりました。三日目にイエスがよみがえると言っているみことばを調べたことがありますか。それは一箇所だけにしか見られません。文脈をはるかに超える興味深い箇所です。ホセア6:1-2です。
「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、 包んでくださるからだ。主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。 私たちは、御前に生きるのだ。」
これは、三日目の復活の非常に明確な預言です。興味深いのは、単数形でイエスについて言っているのではなく、複数形で私たちについて語られていることです。
これは啓示です。エペソ2章を見てみると、パウロがこの啓示をどのように適用しているかがわかります。このように、預言とは、単に未来に起こる出来事を予告するだけではなく、それらの出来事の真の意味を示す方法で預言します。預言するだけでなく、解釈もします。エペソ2章4節はその完璧な例で、すべての真の信者について書かれています。
「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちを...」
これは素晴らしいことです。神は死んでいた私たちを愛してくださいました。いったい何人の人が死体を愛することができるでしょうか。ところで、神は何をしてくださいましたか。3つのことです。
「キリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです── キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」
それらはすべて過去形です。ですから、私たちはイエスと一つになることにより、生かされ、よみがえらされただけではなく、御座に着きました。それが私たちの行く場所です。そして、パウロはそれを未来に置いていません。要するに、もしそれを受け入れることができるなら、あなたは今イエスとともに御座にいると言っているのです。しかし、これはホセア6:1-2の成就です。みことばがどれほど素晴らしい解説をしているかを知ってください。
そして、パウロは人間の証言のリストも与えています。無関係ではありませんが、二次的なものです。 簡単に見てみましょう。Iコリント15:5-8です。まず、4節にこうあります。
「また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと」
5-6節。
「また、ケパ(ペテロ)に現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。」
彼らの大多数は今なお生きており、当時彼らはおそらくかなり若かったでしょう。
「その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。」
これは、イエスの復活を目撃した人々のリストです。ユダヤの律法では、法律で立証するためには、 信頼できる2人の人の証言で十分でした。しかし、神はイエスの復活のために2人以上の証言を提示しておられます。
ちなみに、私にとって興味深いことをお話しします。パウロは予定日より早く生まれた者としてイエスを見たと言っています。早産の者として。私はそのことについて長い間思い巡らしてきましたが、パウロはイスラエルがメシアを見る時の最終的な救いについて予示しているのだと信じます。しかし、パウロは2000年前にその成就を見る前に月足らずで生まれたのだと。あなたはそれについて私と議論しても構いません。あなたが救われていることに変わりはありません。
さて、復活の重要性についてお話ししましょう。イエスの復活以上に重要なものはありません。それは宇宙の歴史の決定的事実です。人類だけではなく、宇宙の歴史全体がイエスの復活の事実を中心に回っています。第一に、それはイエスについての神の証明です。ローマの世俗的な法廷とユダヤの宗教的な法廷という2つの法廷がイエスに死刑を言い渡したことを思い出してください。イエスは葬られた時、その罪状のもとにありましたが、よみがえられた時、神はご自分の御子であることを立証したのです。これは、ローマ1:3-4で表現されています。
「御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。」
これは聖霊についてのユダヤ的な言い方で、実際、聖霊はへブル語では、「聖い御霊」という表現です。 翻訳者の中には、パウロがヘブル語で考え、ギリシャ語で書いていることに気づいていない人もいます。
「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方...」
ですから、イエスが墓から出てきた時、神はこう言われました。「私は、それらの不当な決定を覆した。 私の息子の潔白を証明した。彼は決して罪を犯しておらず、死刑になる理由もなく、私の聖霊によって、 彼をよみがえらせた。」
これは興味深いことです。詳しくは触れませんが、贖いのあらゆる重大局面には、三つの神格すべてが関係しています。イエスの受胎は、御子を生み出すために御霊を通して御父によってなされたことです。ペテロはイエスの奉仕について、「父なる神が聖霊と力でイエスに油注いだ」と言っています。御父は御子に御霊の油を注ぎました。イエスの死については、「永遠の御霊を通してご自身を神にささげた」と言っています。御子は御霊を通して御父のもとへ行ったのです。イエスの復活については、「御霊により父は御子をよみがえらせ」ました。そしてペンテコステでの最後の宣言は、「イエスは御霊の賜物を父から受け、弟子たちに注がれた」です。このように、贖いのすべての主要な段階に、神格の三位一体が完全に関連していることが分かります。敬意をもって言いますが、神格のうち一人として、この栄光ある人類への訪問のために省かれることを望んでおられなかったようです。神は私たちが思っている以上に私たちに関心を持っておられます。それは私にとって大きな意味を持っています。神格全体が贖いのプロセスのすべての主要な段階に完全に関与していたのです。
さて、イエスの復活は私たちの義のための基礎です。イエスが復活されなかったら、私たちは今も罪の中にいることになります。パウロはローマ4:25で言っています。
「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」
もしイエスがよみがえらなかったなら、私たちは義とされることはなく、私たちはなおも罪の中にいるのです。
そして、パウロはローマ10:9-10で、救いについて言っています。
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」
そうです。神がイエスを死者の中からよみがえらせたことを信じなければ、あなたは救われません。 それが救いには不可欠なのです。残念ながら、肉体の復活を信じていない多くのクリスチャンがいます。 そのような人は、教会でどのような立場であったとしても、罪の赦しの平安と喜びを知ることはできません。
そして、復活は私たちを救うキリストの力の保証です。へブル7:25はこのように言っています。
「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」
もしイエスがまだ墓にいるとしたら、どうやって私たちを救うことができるでしょうか。しかし、イエスは神の右におられ、また私たちの罪を贖い、そして天と地におけるすべての権威がイエスに与えられているので、私たちを完全に救うことができるのです。イエスの救いの力に限界はありません。イエスはすべての力を持っておられます。
そして、これも非常に重要なことですが、復活は私たちの贖いの完成です。いいですか、私たちの最終目的地は天国ではありません。私たちが天国に行くことができるのは素晴らしいことですが、それは単なる通過点に過ぎません。私たちの霊が天にある間は、私たちのからだはなおも墓で腐敗しつつあるのです。それは完全な救いではありません。イエスは人格全体のために死なれました。イエスの救いは霊、たましい、からだを含んでいます。そして、その救いは復活までは完全ではありません。パウロはこのことを非常に明確にしています。彼はピリピ3:10以降で、自分の人生の目標と目的を語っています。
「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」
パウロの関心は天に行くことではなく、彼の願いは死者の中からの復活に達することでした。私たちは死んだら、私たちの霊は天に行きますが、それは贖いの完成ではありません。からだはまだ贖われていなからです。パウロは復活に照準を定め、とても力強いことを言っています。「どうにかして復活に達したい」と言ったのです。パウロは復活に達することを当然のことだと考えていませんでした。あなたは知らない間に復活するのではありません。流れに任せているなら、どこか別の所にたどり着くでしょう。復活には、真剣な献身と決意が求められます。
残念ながら、このことをあまり真剣にとらえていない数多くのクリスチャンがいます。パウロが「どうにかして復活に達したい」と言わなければならなかったとしたら、私たちは、最終的にはそこに到達するだろうと言うことができるでしょうか。私たちはパウロと同じ霊的レベルにいるでしょうか。そうではないでしょう。しかし、パウロでさえ、復活を当然とは思っていなかったのです。
パウロは次の節でまたこのように言っています。
「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」
パウロはひたむき....でした。彼は言いました。「私はまだ着いていない、まだ到達していない。」しかし、このようにも言っています。「この一事に励んでいます。目標を目指して一心に走っている。私は、死者がキリストにあって復活する時、そこにいるという一つの究極的な願いと決意を持っている。」
それがどのようになるかを考えることを逃すことは、残念なことです。弱く腐敗しやすいからだが、 突然、光輝くイエスのようからだに変えられるときに解放される栄光と力は、私たちの限られた知性では想像もできません。本当に素晴らしいことです。今、少しそのことについて思い巡らしてみましょう。
ローマ8:23にも、こう書かれています。つまり、復活までは、救いは完成ではありません。22節を読みましょう。
「すべての創造物は、今に至るまで共にうめき、出産の苦しみを抱いています…」
そして、
「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」
これは、あなたにも当てはまりますか。あなたは御霊の初穂をいただいています。あなたは心の中でうめいていますか。待ち望んでいますか。神が言っている以下のレベルで私たちを取り扱うだろうと仮定する権利は私たちにはありません。聖霊のバプテスマは、単に素晴らしい時を持つためだけではなく、この先にあるものに整えるために、私たちに与えられているのです。私はそのような厳粛さを感じています。
次に復活についてお話ししたいことは、イエスと私たちが一つになることの完成です。Iテサロニケ 4:17でこう言っています。
「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです...」
興味深いことに、「空中」を表す2つのギリシャ語の単語があります。一つは非常に高い所を表現する単語で、もう一つは地球の表面に近い空中です。ここで使われている単語は低い空中です。ですから、私たちは地上からあまり高くない空中で主に会います。
「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」
そのあとは、もう離れることはありません。私たちは常に主とともにいて、互いにいつも一緒にいるのです。
私の先妻はすでに先立ちました。しかし、いつの日か私たちは永遠に一緒にいるでしょう。ですから、 このことをどうか見逃さないでください。これを見逃すことは、あなたの人生の最大の悲劇です。これは重大で真剣なものです。
最後に、このことを言わなければなりません。復活には3つの段階があります。Iコリント15:22です。
「すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。」
ここに3つの異なる段階があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者、そして最後に、残ったすべての死んだ者たちの最終的な復活です。イエスは誰のために戻って来られるのですか。キリストにある者たちにです。イエスは盗人ではないので、ご自分に属さない物や人を連れて行くことはありません。あなたは本当にキリストのものですか。それは重要な質問です。キリストが戻って来られるのは、その人たちのためです。
キリストは初穂と呼ばれています。興奮すべき聖書の節があります。レビ記23章です。一度きりの短く簡単な儀式です。これはモーセの律法のもとにある儀式です。10-11節。
「イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたに与えようとしている地に、あなたがたが入り、 収穫を刈り入れるときは、収穫の初穂の束を祭司のところに持って来る。祭司は、あなたがたが受け入れられるために、その束を主に向かって揺り動かす。祭司は安息日の翌日、それを揺り動かさなければならない。」
安息日は何曜日ですか。土曜日です。安息日の翌日は何曜日ですか。日曜日です。イエスは何曜日によみがえりましたか。日曜日です。イエスは「束」であり、私たちがイエスのゆえに受け入れられるために揺り動かされたのです。
イエスはたった一本の穂ではなく、束でした。マタイ27章を読むと、イエスが死んだとき、地震が起こり、墓が開いて眠っていた聖徒たちの多くが都の中へ入ってきました。私は、彼らは墓の中へ戻って行ったのではなく、イエスとともに上って行ったと信じます。彼らは後に続く多くの群衆がいると言って、主の前に揺り動かされる束となりました。私たちは束であり、初穂です。
あなたが本当にしるしに向かって進んでいるか、人生で正しい優先順位を持っているかどうか、チャンレンジしたいと私の霊が促しています。1977年、私はニュージーランドの北島で持たれたとりなしの集会で、どの国にも一人の強い存在がある事実について教えていました。人々は私に聞きました。「ニュージーランドに働く強い存在とは何ですか。」私は、「それは私が教えるべきことではなく、ニュージーランドのクリスチャンが見出すべきものです」と答えました。しかしその時、私は主が、「その強い男を教えよう」と言っていると感じました。ですから、私は人々にそれを伝えたのですが、その集会の後ろの方の席に私の親しい友人が座っていました。彼はあとで、私がその強い人のことを言っていたとき、神は同じことを彼にも語ったと言いました。私が言ったその「強い人」に期待外れと思うかもしれませんが、ニュージーランドの強い存在は「無関心」です。ニュージーランド人の典型的な表現は、「何とかなるさ」であるとニュージーランド人から聞きました。言い換えれば、放っておいても大丈夫だということです。それはニュージーランドでの最大の問題であり、あなたがたもその問題を持っているかもしれません。なぜなら、イエスは無関心の人のために戻って来られるのではなく、イエスを熱心に待ち望む人々のために戻って来るのです
今、あなたに機会を与えたいと思います。もしあなたが、イエスを待ち望む生き方をしていないと気づいたなら、今こそ変わるべき時です。悔い改めについて私が言ったことを覚えていますか。決断に続いてなされる行動です。もし自分には悔い改めが必要だと感じていたら、今がその時です。私が言ったことを思い出してください。悔い改めたいときに悔い改めることができるのではなく、聖霊があなたを促すときにのみ、悔い改めることができるのです。
自分は正しい生き方をしていないと聖霊が語っていると感じていて、イエスの再臨を待ち望む態度を持っていないとわかって、そのような生き方を変えられたいと願うなら、私はあなたに機会を与えたいのです。私と一緒に祈ってください。そのためには謙遜になる必要があります。謙遜にならせることは私の責任ではありません。主にお会いする準備ができていないとわかって、主の再臨を熱心に待ち望み、神との正しい生き方を願うなら、今がそのために最善の時です。この招きに応答してください。
可能であれば、その場でひざまずいてください。そうすることが正しい態度ということではなく、ひざまずくことは、へりくだることです。主の前にへりくだるのです。それが私たちに必要なことです。
今からあなたのためにお祈りします。私がこの祈りをしてアーメンと言ったら、あなたは神に向かって心から声を上げて叫んでください。私があなたに言葉を与えるのではなく、ただ心から神に語ってください。主の油注ぎを感じています。では祈ります。
私は皆さんのために祈りますし、ニュージーランドのためにも祈ります。私がこの祈りを捧げて「アーメン」と言ったら、皆さん一人一人は自分の心から神に叫ぶ必要があります。言葉をお教えするつもりはありません、ただ心から神に話しかけてください。今、謙虚に主の前にひざまずいている方々と、私が愛するこのニュージーランドのために祈る特別な恵みを感じています。この国は現在、とても無頓着で自己中心的な生活を送っています。それは正しいでしょうか?確かにそうです。ひざまずいているあなたのために祈ります。私は特別な恵みを感じており、私が祈ると何かが始まると思います。そして、その後にニュージーランドのために祈ります。
主イエス・キリストさま、あなたは私たちの救いの源です。あなたは死からよみがえった初穂なるお方です。あなたは私たちのとりなし手として天におられ、父の右に座し、今、私たちのためにとりなしをしてくださっています。あなたが生きておられるので、私たちも生きることができます。主よ、あなたが間もなく戻って来られるという光の中を歩んでいないと気づいて、御前に来ているこの愛する人々をご覧になってください。神さま、イエスの御名によって今あなたの聖霊を彼らに注いでください。恵みの霊を注ぎ、心からあなたに叫ぶことができるようにしてください。主よ、まごころと謙遜、神を畏れる祈りを彼らが捧げることができますように。イエス・キリストの御名によって今、その霊を彼らの上に解き放ってください。とりなしの霊を解き放ってください。主よ、彼らは祈り始めます、神よ、憐み深い主よ。
そして主よ、私たちは愛するニュージーランドのためにも祈ります。この国に憐れみを与えてくださいますように、主よ。人々の心をあなたのもとに戻すために、何かをしてくださいますように、神のない、無関心で、罪深い道から、彼らを生きている神のもとに戻してください。彼らを愛し、この国を他の多くの国々の上に祝福してくださった神のもとに。主よ、ニュージーランドに憐れみを与えてくださいますように、私たちはイエスの名によって祈ります。
アーメン、アーメン。どうぞ、神に叫んでください。
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