自分の思いを捨てる

デレク・プリンス
*First Published: 2008
*Last Updated: 2026年3月
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旧約聖書の祭司の特徴的な役割は、いけにえを捧げることでした。ですから、イエスも祭司としていけにえを捧げなければなりませんでした。イエスはレビ族ではなかったため、律法で決められたいけにえを捧げることはできませんでした。ですから、イエスはご自身の祭司としての特別ないけにえ、すなわち、祈りを捧げられたのです。
キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び(へブル5:7-8)
敬虔な従順のゆえに、イエスの祈りは父に聞き入れられました。イエスは従順を学ばなければなりませんでした。ですから、私たちも同じようにして従順を学ぶ必要があります。従うことによって、従順とは何かが分かるようになるのです。従順についてのメッセージを聞いて分かるのではありません。それは助けにはなりますが、従うことによって少しずつ分かるようになるのです。従順は、自分の思いを否定することが求められるので苦痛を伴います。イエスの従順の鍵は、
「わたしの願いではなく、みこころがなりますように」(ルカ22:42)
です。信仰生活における従順の一歩一歩は、自己否定の歩みです。イエスは言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(マタイ16:24)それは痛みを伴います。古い自我は否定されることを嫌うため、苦痛なのです。自我は、「私は欲しい」、「私は重要な人間だ」、「これが気に入った」、「私は気分がいい」、「私は欲しくない」など言います。主に従うことは、その自我を否定し続けることが求められます。それは痛みを伴います。古い自我は否定されることを嫌うため、苦痛なのです。自我は、「私は欲しい」、「私は重要な人間だ」、「これが気に入った」、「私は気分がいい」、「私は欲しくない」など言います。主に従うことは、その自我を否定し続けることが求められます。上記のへブル人への手紙の聖句で、神は、従順によって子として成熟することについて語っておられます。イエスがその模範です。神は従順によってイエスを成熟へと導きました。これは、私たちにとっても通るべき道です。これこそが、新しい生ける道なのです。
*Prayer Response
主よ、あなたが私を前に導いてくださることに感謝します。主に従うことは、私のエゴを常に否定することを必要とすることを宣言します。そして、私はこの要求に応えるためにイエスの模範に従うことを選びます。私は成熟に向かって前進します。アーメン。
コード: WD-B097-314-JPN