英語のウェブスター辞典は、endurance(忍耐)を「不屈の精神」「持ちこたえる、継続する、とどまるための力量」と定義しています。

別の学びの書簡で、私は忍耐を養うために2つの提案をしました。一つ目は、真心からイエスに献身することです。使徒の働きで、バルナバは「心を堅く保って」いるようにと語りました。他の人がそうしようがしまいが、主に忠実であり続けることを決心します。たとえ、あなたの友人がそうしなくても、あなたはそう決心するのです。もし、あなたの家族がそうしなくても、あなたはそう決心します、患難が来ても、あきらめません。それが、心を堅く保つということです。

忍耐の2つ目の原則は、へブル11:27から来ており、モーセが、「信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。」という部分です。モーセの信仰は見えない方にありました。もし、私たちが耐えるなら、目に見えない世界は、目に見える世界以上に現実的なものになるはずです。

何年も前、スウェーデンの牧師の娘が英語を学ぶためにロンドンに3か月滞在しました。私が英語を教えたのですが、彼女はとても美しく才能があり、歌声の素晴らしい少女でした。彼女の父親はスウェーデンで最大のペンテコステ教会の牧師で、その娘は、非常に厳しいペンテコステの環境で育ちました。

その少女は14歳の時、学校で友人たち全員が映画やダンスなどの娯楽について話しているのを耳にしました。そして、彼女はとても興味を抱くようになり、ある日父親にこう言いました。「お父さん、お父さんが私を大切にし、しつけ、育ててくれたことを感謝しているわ。でも、私はこれから別の道を歩みたいと思うの。この世が提供するものを見てみたいの。私の友だちがみんなそれについて話しているのを聞いて、自分でも確かめてみたいの。」すると、知恵のある父親は、こう言いました。「バーバラ、お母さんと私はお前のために祈っているよ。」父は反対しなかったのです。それが間違っていることだとは言わず、「私たちは祈っているよ。」とだけ言いました。

ある夜、その娘はこれまでで最も鮮明な夢を見ました。その夢には2つの都市が出てきました。一つは大きく近代的な美しい都市で、いたるところで光がきらめき、輝いていました。谷の向こう側にもう一つの都市があり、そこには別の種類の光がありました。それはきらめきや輝きこそありませんでしたが、安定し、静かな光がありました。彼女がネオンの光輝く街を見ていると、ひとりの男性が彼女に自己紹介をしました。彼は非常に洗練され、教養があり、身なりも立派でした。その人は言いました。「この街をご案内しましょう。」そして、彼女は彼と一緒に歩き出しました。

その人とさらに遠くに行くと、その男性は醜く変わりました。彼女はすぐに、それが悪魔自身であるとわかりました。彼女が恐ろしさのあまり立ち止まると、そのネオンの街のすべての光が真っ暗闇になるまで一つずつ消え始めました。彼女がもう一つの街を見ようと振り返ると、それは変わることなく、明るく鮮やかでした。翌日、彼女は父親の所へ行き、言いました。「お父さん、一緒に教会に行きます。」彼女は賢明な少女でした。主が語られたときに耳を傾けたのです。

大きな近代都市に着き、そのネオンや交通、刺激、活気、快楽を見るとき、妻と私は、「バーバラの夢を覚えている?」と語り合うことがよくあります。ある夜、それらのすべての光は消えます。その日は間もなくやって来ます。それらのすべての光が消え去る時が。

Ⅱコリント4章でパウロは書いています。

「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。」(17-18節)。

それらは永遠のものです。変わることがありません。それは、みことばの中にあります。

みことばにとどまってください。一日に5分だけを聖書に費やすのではなく、それを読み、黙想してください。みことばを信じ、それに生きてください。みことばがあなたに現実となるように聖霊に祈り求めてください。そうすれば、この世には、イエス・キリストへの不誠実へとあなたを誘惑できるものは一つもないというみことばが、あなたにとって非常に現実的になるでしょう。私は、人生を楽しんでいると思います。からだを動かすことや楽しむことにおいても。私は長年自分が送ってきた律法主義から解放されました。しかし、私は世を愛したくもないし、世にある物も愛したくありません。なぜなら、「もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。」(Ⅰヨハネ2:15)からです。そして、私はすべてのものを父からいただいています。私は父に不誠実でありたくありません。私の感謝を主に表わしたいです。父は私を子としてくださり、キリストの相続人としてくださいました。ですから、私は父の素晴らしさに感謝の気持ちを表わしたいのです。見えないものに私の目を留め続けたいのです。

私は現実主義者で、非常に現実的な生活を送っています。物事には秩序があると信じています。手紙には返事を書き、請求書が来たら支払います。私の両足は地についていますが、私の目は見えないものに注がれています。私たちと永遠の間にはとても薄い覆いがあります。英語の古い歌に、非常にシンプルな歌詞があります。「私は時に天を恋しく思う」。本当に私は天が恋しいのです。しかし、地上について不満だと言っているのではありません。神は思ってもみなかった、また受けるに値する以上に、私を取り扱ってくださっています。しかし、時間を超えたものがあることを、決して忘れてはなりません。

別の古い歌の歌詞に、「十字架は私の前に、この世は私のうしろに。たとえ私だけだとしても、なお私は従う。振り向かず、私はイエスに従うと決めたのだから」という意味の歌があります。初めてその歌を聞いたのは、エルサレムで1947年11月の夜のことでした。妻と私、そして8人の子どもたちは、夜の闇の中を自宅から逃れ、エルサレム中心のアメリカの宣教会の難民キャンプに逃げ込んだところでした。食べる物、家も何もありませんでした。私たちは真夜中にすべてを置いて歩いて行かなければなりませんでした。私たちがその場所に着いたとき、人々がその歌を歌っていたのです。それが、その歌を初めて聞いたときです。「たとえ私だけだとしても、なお私は従う。」

やめてはならない

あと二つ、みなさんに分かち合いたい忍耐の建て上げ方があります。一つは、シンプルですが重要です。失敗しても、あきらめないことです。他の人もあなたが失敗する前に失敗しています。私もそのうちの一人です。悪魔の最もずるがしこい罠は、あなたを失敗者と思いこませ、あきらめさせようとすることです。悪魔は、神があなたを見捨てたとあなたに思いこませようとするでしょう。悪魔を信じないでください。悪魔は偽り者です。

「人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。」(詩篇37:23-24)

あなたは失敗したことがありますか。主があなたの手を支えてくださるので、あなたはまっさかさまに倒されることはないことを忘れないでください。ダビデはどのようにしてそれを知ったのでしょう。それは、ダビデが失敗したからです。ひどく、悲劇的なほどに。ダビデは姦淫し、自分が寝とった女性の夫を死に至らしめました。それでも、神は彼を赦し、回復させました。ダビデはこのように言うことができたのです。「たといあなたが倒れても、あきらめるな。神はあなたを立たせてくださる。」

また、新約聖書の中にも失敗した人がいます。ペテロです。イエスはペテロが自分を3度否定することを知りつつ、

次のように言っています。

「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました・・・」(ルカ22:31-32)

何という深いことばでしょう。イエスは、ペテロが自分を否定しないように祈ったのではなく、ペテロの信仰がなくならないように祈ったのです。もし、ペテロの信仰がなくなってしまったら、元に戻る方法はありません。ですから、あなたは失敗したとき、あなたの手を伸ばし、主にその手を取ってもらってください。そして、あきらめないでください。なぜなら、主はあなたをあきらめないからです。

最後に、表彰式があることを忘れないでください。人生のすべてのことが今ここにあるのではありません。将来のために残されているものがあります。パウロが牢の中からテモテに書いたことばを見てみましょう。

「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」(Ⅱテモテ4:7)

これらの3つの達成が同時に起こります。あなたが信仰を守り通そうとするなら、戦わなければなりません。信仰は戦いです。あなたは戦いを避けて信仰を守ることはできません。あなたが走るべき道のりを走り終えようとするなら、戦わなければなりません。パウロは言いました。私は3つすべてをやり遂げた。走り終えた、戦った、信仰を守り通した、と。そして、こう言いました。

「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです・・・」(8節)

パウロは非常に不当でよこしまな支配者であるネロ皇帝によって刑が執行されました。その裁判は公平ではありませんでしたが、パウロは、それは最後のことばではなく、別のさばきの日があると言いました。栄光の冠を受ける日があると。そして、そのさばきは完全に公平であると。それは、主ご自身で、主は私に勝利の冠を与えてくださると。

長年にわたる私の人生の中で、表彰式は学生時代の重要な部分でした。そして、私は多くの賞をもらいました。しかし、私が勝ち取らなければならないもう一つの賞があり、それは、信仰を守り通し、戦い、走り終えた人だけのものです。パウロは時間を超えたものを見ていたので、最後まで忠実であったと私は思います。彼は永遠を追求し、金、銀、銅のメダルが授与される偉大な表彰式を見ていました。私たちの内にも金メダルをもらって、むしろ驚く人もいるでしょう。それは早く走れたからではありません。私たちが仕えたものに忠実であったかどうかなのです。主が強調しておられることは、忠実であることです。イエスのことばを思い出してください。「よくやった。忠実なしもべだ。」(マタイ25:23)

私たちの多くにとって、忍耐がためされる日々が私たちの前に置かれています。その日々は易しいものではありません。私たちが耐える迫害は、他のすべてのもの以上の試練でしょう。主と、キリストのからだ両方に対する私たちの忠実さがためされます。みなさんが、「私は信仰を守り通しました。不忠実ではありませんでした。あなたを裏切りませんでした。」と言うのを私は見たいのです。それは、性質と忠実さの試練という私たちの前に置かれた試練であると心から信じています。もし、その試練に耐えるなら、あなたは金が火の中で試されるようにその試練を通り抜けるでしょう。

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