試練の目的

デレク・プリンス
*First Published: 2020
*Last Updated: 2026年6月
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「人とは何者なのでしょう。・・・朝ごとにこれを訪れ、そのつどこれをためされるとは。」(ヨブ7:17-18)
なんと驚くべきことでしょう。神は、毎朝私たちを訪れ、ためされるというのです。 そのことが私に初めて現実的なものとなったとき、私は自分自身に問わなければなりませんでした。私は、毎朝神の訪問を受ける準備できているだろうか。毎朝、そのような思いで目覚めているだろうかと。そして、続けて自分にこう問いました。なぜ、神は私たちをためされるのだろうか。神の目的は何なのだろうか。宝石商は、金や銀を特定のテストにかけます。それをするのは、金や銀が価値ある物だからです。鉄やスズのような卑金属をテストすることはありません。
コリンズ英語辞典では、動詞の「試す」という単語に興味深い定義があります。何らかのテストを行なうことによって、ある人の価値を確かめること、とあります。神は私たちに怒りを持っておられる、あるいは困らせるために私たちをためされるのではありません。逆に、試練は神のお気に入りであるしるしです。神は、私たちの価値を確立したいので、私たちをためされるのです。
ヨブ
族長時代に突出して義なる一人の人がいました。彼の名前はヨブです。神はヨブを誇りに思っていました。実際、神はヨブをサタンに自慢しました。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」(ヨブ1:8)
いかにもサタンらしい反応であったのは、利己的な動機をヨブのせいにしたことでした。「ヨブはあなたから得るために、あなたに仕えているにすぎません。」
それに応えて、神はサタンがヨブを試みることを許可しました。まず、神はサタンがヨブの財産、しもべたち、子ども たちなど、すべての持ち物を破壊することを許しました。その後、神はサタンが頭からつま先まで腫物で苦しめるためにヨブの体に触れることまでも許したのです。しかし、神はヨブのいのちに触れることは許しませんでした。
ヨブは、神が自分を試しておられることを知っていました。ヨブはこう言っています。「神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。」(ヨブ23:10)。それは、金が火によって試されることを言っています。このことは、ヨブが忍耐する強さを与えることになります。ヨブはたましいのうめきを上げましたが、あきらめることはしませんでした。
一般的に、エリファズと他の2人の宗教的な友人は、ヨブの苦しみは彼が犯した罪であると結論付け、ヨブにあらゆるひどい非難を浴びせました。しかし、最後には神はヨブの潔白を証明し、友人たちを戒めました。神はエリファズに告げました。「あ
なたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ。」(ヨブ42:7)。
アブラハム
アブラハムは、全焼のいけにえとして息子を捧げよとまでも言われた、過酷な試練を通らされたもう一人の義人です。アブラハムが特別に試されたのは、ユダヤ人とクリスチャン両方の神が選んだ民の父となるという特別な運命が与えられていたからです。神は、ご自身が特別な目的を持っておられる人々に、特別な試練を課します。
新約聖書は試練を通らなければならないことを私たちクリスチャンにはっきりと警告しています。ペテロは、私たちの信仰を火によって精錬されなければならない金に例えています(Ⅰペテロ1:7参照)。ヤコブは喜んで試練に応答するべきであると言っています。
「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1:2-4)
妻と私にはそれぞれ、別々の時に悔い改めと神の赦しを請わなければならない時がありました。それは、神の試練に正しい応答をしなかったからです。私たちはそれらの試練を心から喜ぶことができなかったのです。
さらに、ヤコブは試練への応答の方法にヨブの例を挙げています。
「あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。」(ヤコブ5:11)。
試練、それとも懲らしめ? 神の試練と懲らしめを区別することは非常に重要です。多くの人は、クリスチャンになったら、神の懲らしめから逃れると考えているようです。特に、クリスチャン歴の長い人ほどその傾向があります。しかし、その考え方は聖書に基づいていません。そのようなクリスチャンに対して、ヘブル書は厳しく警告しています。 「そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。 父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」(へブル12:5-8)
モーセ
これに関して、神が私に印象付けたのは、モーセを取り扱った例です。主がモーセに、エジプトに戻ってイスラエル人を奴隷生活から解放するように命じた時、モーセは80歳でした。しかし、モーセが実際にエジプトに戻る途中、主はモーセを殺そうとしました。(出エジプト4:24-26)
なぜでしょうか。モーセの不従順のゆえです。モーセは、主がアブラハムとその子孫と交わした割礼の契約を成就しなかったからです(創世記17:9-14)。モーセが悔い改めて自分の息子に割礼を施した時ようやく、主はモーセのいのちを救い、彼の行く道へと解放しました。神は、不従順でその使命を通ることを許可するより、むしろ彼を殺そうとしたのです。リーダーとしてのモーセの立場は、彼を神の懲らしめから解放するものではありませんでした。さらなる責任を与えることになったのです。
今82歳の私に、個人的に当てはまるものがあります。もし、私が自分の人生で不従順に道を開くなら、神から与えられている働きを完成することはできません。 神の取り扱いのもとに来る時、私たちは神の前にへりくだり、詩篇139:23-24にあるダビデの祈りをする必要があります。
「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」
もし、私たちが主に心を神に探っていただこうと願うなら、神は、みこころに反することを指摘することはありません。そして私たちは、神の懲らしめではなく、神の試みを受けているのだと結論づけることができるでしょう。 神は、私たちの応答がどのようなものかを明らかにするでしょう。懲らしめに対する私たちの応答は、悔い改めであるべきで、試みに対する応答は、忍耐であるべきです。しかし、もし悔い改めるべき時に忍耐しようとするなら、私たちはかたくなさと鈍感という罪を犯します。
罪、あるいは義の基本的問題は、サタンによるアダムとエバの最初の誘惑にはっきりと表われています。サタンのギリシャ語名はdiabolos(英語ではdevil)で、意味は、中傷者です。誰かを中傷することは、その人の人格を中傷することです。これが、サタンの主な活動です。
何よりも真っ先に、サタンは神ご自身の人格を中傷します。ですから、サタンのエバへの最初の質問はこうでした。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」(創世記3:1)。神は独断的で不当で愛のない暴君者であるとほのめかしたのです。神は、彼らが善悪の知識を知る木の実を食べるなら、彼らに開かれるであろう「高いレベルの知識」からアダムとエバを閉め出していました。
実際、サタンの目的は、神が素晴らしく、美しく、楽しいすべてのものをすでに彼らに与えられているのに、彼らの神の素晴らしさに対する信頼をむしばむことでした。
- 神の善意への不信、
- 神の言葉への不信、
- 不従順の行為。
神の素晴らしさへの不信から、アダムとエバは神のことばへの疑い、そして不従順の行ないへと移っていきました。彼らの堕落には不信、疑い、不従順という3つの段階がありました。
キリストへの信仰を通して、神は堕落へと向かうプロセスをひっくり返す贖いを提供しました。それは、疑いから信仰へ、不従順から従順へ、不信から信頼へと取って替えられます。従順へと導く信仰が第一の段階です。しかし、信仰が信頼へと発展するまでは、そのプロセスは完成しません。
信仰と信頼の違いは何でしょうか。非神学的な答えだと、信仰は行ないで、信頼とは態度でしょう。(スミス・ウィグルスワースは、信仰は行ないであると常に強調しています)。 行ないとしての信仰と、態度としての信頼の違いをで、明確に描いているのは、詩篇37:5です。
「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」
ゆだねるとは、一つの信仰の行為を表わし、信頼は献身の最初の行為に続く態度です。そのあとは神がおさめて下さいます。神がそれをしてくださいます。 シンプルにそれを表わすものは、銀行に預金することでしょう。あなたは銀行員にお金を手渡し、受領書を受け取ります。それは、ゆだねることです。 そのあと、あなたは夜中に目を覚まして、「銀行はちゃんと私のお金を扱ってくれているだろうか。私は期日に利息を受け取るだろうか。」と心配することはありません。あなたは受領書を安全な場所に置いて、スヤスヤと眠るでしょう。それは信頼です。
多くのクリスチャンは信仰の行ないであるその第一ステップを踏み出しますが、信頼の態度を保たないのです。不思議なことに、私たちの多くは天の神を信頼するよりも地上の銀行を信頼しているのです。
神の試練の背後にある第一の目的は、私たちに信頼を生み出させることです。このことはヨブにも当てはまります。彼はすべての試練のただ中で断言しました。「見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望み…」(ヨブ13:15)。 さらに、信頼はただちにヨブの目を時間の領域の上へと引き上げ、永遠とよみがえりを垣間見ることを可能にしました。
「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。 この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。 私の内なる思いは私のうちで絶え入るばかりだ。」(ヨブ19:25-27)
なぜ、信頼がそんなにも重要なのでしょうか。それは、信頼が私たちの神の人格への評価を表わすからです。アダムとエバがサタンの誘惑に屈した時、彼らが口にした言葉以上に彼らの行ないが物語っていました。その行ないはこう言っていました。「神はただ愛なる方ではない。神は私たちを正当に扱う方ではない。神は信頼できる方ではない。」
罪からの救いは、堕落が取り消され、私たちの内にこの信頼の性質が生み出されるまで、完成されません。それにはおそらく私たちは多くの試練を通らされるでしょう。神の絶対的信頼性への揺るがない信仰を私たちのうちに生み出すという、神の最終目的への視点を決して失わないことが大切です。
イエスご自身は、信頼の最高の模範を私たちに示してくださいました。父のご計画を成就することにおいて、イエスは不法で非情な神を認めない者に引き渡されました。彼らはイエスをあざけり、つばをかけ、むち打ち、衣をはがし、十字架につけました。ついに、イエスは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)と叫びました。
しかし、これらすべてのことにあっても、イエスは父の忠実さへの信頼を失うことは決してありませんでした。息を引き取る時、イエスはご自身の霊を父に渡されました。
叫んでも、神が答えてくださらないように思える時、私たちはどのように反応するでしょうか。それでもなお、神の忠実さに信頼することができるでしょうか。 忘れないでください。神は私たちの達成度よりも、私たちの人格に心を留めておられるのです。達成することは、時間の領域においてのみ重要なのです。人格は永遠のものです。人格は、私たちが永遠にまでどのようであるかを決定づけます。
神は私たちが耐えることのできないような試練をお許しになることはありません。神は、イエスに要求されたことも、おそらく、ヨブに要求されたことさえも私たちに期待してはおられません。私たちが通るすべての試練は、私たちの人格を形成するためにデザインされており、キリストにあって、神が私たちを創られた目的にそった者となるまでそれは続きます。 「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」(ヤコブ1:12)
*Prayer Response
主よ、私は常にあなたを信頼してきたわけではないことを知っています。そのために、あなたの許しを求めます。あなたの試練の目的が、私をあなたが創造された者へと変えることだと理解しています。私はそれを心から望んでいます、主よ。
信仰を持って、今ヤコブの手紙1章12節からこの宣言をします。「試練に耐える人は幸いです。彼が承認されると、命の冠を受けるからです。」私は試練についてのその真実、そして主よ、あなたへの究極の信頼を宣言します。アーメン。
コード: TL-L133-100-JPN