神は、私たちを暗闇の王国の圧制から解放し、光の王国の相続人となるために、道を設けてくださいましたか。その通りです。神が私たちのために設けてくださった道は、私たちのためのイエス・キリストの死でした。十字架の上でイエスは、ご自身の従順によって得た祝福の中に私たちが入るようにと、私たちの不従順によるのろいを引き受けてくださいました。その祝福は光の王国のすべての領域に及びます。のろいと祝福はどちらも、霊的、身体的、物質的という私たちの人生の主な 3 つの領域に影響します。

霊的に得たもの

キリストはどのような霊的のろいから私たちを解放されたのでしょうか。また、キリストが備えてくださった霊的祝福とは何でしょうか。

まず、祝福をもたらす基本的な要因を見ましょう。

「もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。」(申命記 28:1-2)

次に、モーセはのろいが来る要因に移ります。

「もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。」(15 節)

祝福を受けることとのろいを受けることの間の決定的な違いを理解することは、非常に重要です。その違いを一言で言っている重要な部分は、「あなたの神、主の御声によく聞き従い」です。

幸福か災難かという私たちの人生は、私たちが聞く声によって定められます。主の声に聞き従うことは、祝福をもたらします。しかし、主の声を聞かないことは、多くののろいをもたらします。もちろん、主の声を聞くだけでは十分ではなく、主が言われることに従わなければなりません。反対に、主の声が私たちに求めておられることを語るので、まず主声を聞かない限り、主が言っておられることに従うことは不可能です。

クリスチャンと称する人々が直面する大きな霊的危険は、神の声に鈍感になることです。多くの人々が、神の声を聞き続けることなく、自分が培った習慣的で形式的なライフスタイルで宗教活動や奉仕を続けているかもしれません。すべての摂理の中で、神がご自身の民に求められる一つの条件は、私たちが神の声を聞くことです。

聖書が語っていること

その条件は、エレミヤ 7:22-23 で主ご自身によって明確に表わされています。神はイスラエルに本当に求めておられるものが何であるかをこの聖句で説明しているのです。

「わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの国から連れ出したとき、全焼のいけにえや、ほかのいけにえについては何も語らず、命じもしなかった。ただ、次のことを彼らに命じて言った。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる・・・』」

主が私たちの神となり、私たちが神の民となるための主のシンプルな条件に注目してください。「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしは、あなたがたの神となり...」

あなたは、新約聖書は違うのでは、と考えるかもしれませんが、そうではありません。原則はまったく同じです。イエスはそれを一つの聖句にまとめています。「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネ 10:27)。

私たちが本当にイエスに属するものであるというしるしは、特定の教派の生活や礼拝をしているとかではなく、イエスの声を聞いているか、つまりイエスの声を聞いて従っているかです。神の祝福へのシンプルな道は、神の声を聞いて従うことです。神の声に聞き従わない必然的な結末は、のろいを受けることです。

神への不従順から来る、私たちの人格の霊的(内なる)領域におけるのろいの簡潔なリストを紹介します。これらは申命記 28 章でモーセが挙げています。

  • 20 節: 私たちのなすすべてにおいて、混乱を経験する。
  • 28 節: 気が狂い、錯乱する。
  • 34 節: 目に見ることで気を狂わされる。
  • 65 節: 心がおののき、精神が弱る

これらは、いくつかの霊的影響で、今日の世界の人々の生活に見られます。混乱、フラストレーション、内なる苦痛、苦悩などです。

従順からくる霊的領域の祝福とは何でしょうか。もちろん、数え切れない祝福があります。しかし、美しい一言で言うなら、平安でしょう。

イザヤはイエスが十字架で死なれたときになされたみわざについてこう言っています。「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし...」(イザヤ 53:5)。イエスは、私たちが神と和解できるようにと、私たちの罪と不従順のためにさばきと懲らしめに耐えました。神との和解の結果、私たちは内なる苦痛、苦悩、混乱、フラストレーションから解放されるのです。私たちは深く静かな内側の平安の現実を知ることができます。

この平安について、新約聖書からあと2つの聖句を見ましょう。

「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(ローマ 5:1)
「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ 4:7)

何と美しいことばでしょうか。私たちはもはや罪に定められません。もはや神を喜ばせていないのでは、と恐れることはありません。私たちには神との平和があります。ピリピ 4 章のこの美しいことばは、私たちの内側の経験的結果を表現しています。神の平安は、現代の文明の中で私たちの心と思いを守ってくださいます。

実際に、ヘブル語で「平安」という語は、対立者がいないということ以上の意味を持っており、完全、あるいは健全を意味します。この種の平安は、内なる人から始まり、全体的健全に至ります。そして、私たちの人生のすべての領域に影響を与えます。

身体的に得たもの

では、申命記 28章に戻って、主の声に聞き従わない結果の身体的のろいを見ましょう。それらは実に多くあります。これを読むとき、これらすべての病は、贖われた神の民のものではないのろいとして述べられていることを心に留めておいてください。

「疫病をあなたの身にまといつかせ」(21 節)、「肺病と熱病と高熱病と悪性熱病と」(22 節)、「はれものと、湿疹と、かいせん」(27 節)「盲目」(28 節)、「あなたのひざとももとを悪性の不治の腫物で打たれる。足の裏から頭の頂まで」(35 節)。

クリスチャンである私たちの多くが、祝福を楽しむべき時にのろいに耐えています。なぜでしょうか。おそらく、おもに2つの理由のためです。それがのろいだと知らない、あるいはイエスが私たちを呪いから解放し、祝福を相続するようにされたことに気づいていないからでしょう。申命記 28:59を読んで、私たちがのろい、あるいは祝福のどちらを歩んでいるかを探ってみましょう。

「主は、あなたへの災害、あなたの子孫への災害を下される。大きな長く続く災害、長く続く悪性の病気である。」

鮮明なイメージ

預言者イザヤは、不従順と反抗の結果を非常に鮮やかに描いています。イスラエルの国に向かって語っているイザヤは、不従順の結果の状態と完全に病に侵された身体とを比較しています。

「あなたがたは、なおもどこを打たれようというのか。反逆に反逆を重ねて。頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。」(イザヤ 1:5-6)

この箇所は、不従順の結果の比喩的表現です。しかし、ある日私はそれを読んでいるとき、聖霊が素晴らしく美しいものを示してくださいました。イエスは私たちの身代わりとなって、すでにすべてののろいをご自身の身に引き受けてくださったことに気づいたのです。この聖句は単に不従順の結果としてイスラエルの状態の比喩ではありませんでした。十字架にかかったイエスの文字通りの描写でもあるのです。

イエスは、恐ろしい 9 本の皮ひもが付いたローマのむちで打たれました。イエスの頭には、いばらの冠が押し付けられ、傷を負っていました。心全体が弱り果てていました。私は、イエスは砕かれた心のゆえに死んだと信じます。この聖句は十字架にかかられたイエスの正確な描写です。なぜ、イエスは十字架にかかったのでしょうか。私たちのためにのろいとなることによって、のろいから私たちを贖うためです。これらすべての神への私たちの不従順から生じるそれらすべての身体的のろいは、十字架にかけられたときにイエスに臨みました。

次に、イエスによって私たちが得られる身体的祝福を見ましょう。まず、もう一度イザヤ 53:4-5 を見ます。

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」

イエスが不従順の身体的罰を受けられたことで、私たちは代わりにいやしを得るのです。これは、5 節の最後に見られます。「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」 あるいは、こう言うこともできるでしょう。「彼の打ち傷によって、私たちにいやしを得させた。」 いやしは、イエスの身に負った打ち傷を通して私たちの相続とされたのです。

この聖句の次の部分は、新約聖書のマタイの福音書で引用されており、病人をいやし、悪霊を追い出すイエスのミニストリーを描写しています。このように書かれています。

「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。『彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。』」(マタイ 8:16-17)

マタイはイザヤ 53 章に書かれているのが誰であるのか疑うことはありませんでした。イエスだと確信していました。マタイ(ユダヤ人であり、ヘブル語を理解している)は、イザヤ 53 章のそれらの聖句が身体的なものであるということを疑わなかったことにも注目してください。それは、イザヤ書で与えられている預言の成就であった病人の身体的いやしでした。

イエスが安息日に男をいやすために、自分を非難する人々に答えて言われたことに注目してください。

「もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。」(ヨハネ 7:23)

イエスは全身をすこやかにします。人間のすべての領域と人格は、イエスを通していやされることができます。

使徒の働き 3:16で、ペテロが美しの門で足なえの男をいやした後に言ったことにも注目してください。これがそのいやしの説明です。

「そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。」

結果は何ですか。「完全ないやし」です。イエスは言われました。「私は人の全身をすこやかにする。」それは、イエスによって与えられる贖いの身体的な作用です。私たちは医者、精神科医などの仕事に感謝します。しかし、宇宙でただ一人、「私は全身をすこやかにする。私はその人の霊的、精神的、感情的な問題のすべてに対処できる。」と言うことができる人がいます。それは誰ですか。主イエス・キリストです。

私たちがイエスの贖いに基づいて信仰によってイエスとつながる時、新約聖書の中で行なわれ、記録されている同じ結果が、イエスへの信仰を通してあなたや私にも可能なのです。

物質的に得たもの

さて、特に物質的領域における祝福とのろいを見ましょう。まず、従順に約束されている物質的祝福を見ます。実に多くあります(この短い書簡の中ですべてを上げることは不可能です)。これは、申命記 28 章でモーセが言っていることです。

  • 町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。(3 節)
  • あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。(4 節)
  • あなたのかごも、こね鉢も祝福される。(5 節)
  • 主は、あなたのために、あなたの穀物倉とあなたのすべての手のわざを祝福してくださることを定めておられる。(8 節)
  • 主が、あなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われたその地で、主は、あなたの身から生まれる者や家畜の産むものや地の産物を、豊かに恵んでくださる。(11 節)

「主は・・・豊かに恵んでくださる。」というフレーズは、主の声に聞き従った結果を表わしています。モーセは申命記29:9 で同じテーマに簡潔に戻っています。

「あなたがたは、この契約のことばを守り、行いなさい。あなたがたのすることがみな、栄えるためである。」

神の契約のことばを守ることは、私たちがすることすべてを栄えさせます。それは、いかなる領域でも失敗やフラストレーションの余地を残しません。それらは、従順に約束された祝福です。

では、不従順ゆえの物質的のろいを見ましょう。申命記 28:29 に戻ります。

「あなたは、盲人が暗やみで手さぐりするように、真昼に手さぐりするようになる。あなたは自分のやることで繁栄することがなく・・・」

豊かな繁栄が祝福であるように、私たちの道で繁栄しないことはのろいです。さらに完全で鮮明に、モーセは申命記 28:47-48で再びそれを言っています。ここでは、祝福とのろいが直接並べられています。

「あなたがすべてのものに豊かになっても、あなたの神、主に、心から喜び楽しんで仕えようとしないので、あなたは、飢えて渇き、裸となって、あらゆるものに欠乏して、主があなたに差し向ける敵に仕えることになる。主は、あなたの首に鉄のくびきを置き、ついには、あなたを根絶やしにされる。」

この 2 節以上に明確に描かれた2つの選択肢はありません。従順の結果:すべてのものに豊かになり、心から喜び楽しんで主に仕える。不従順の結果:飢えて渇き、裸となり、あらゆるものに欠乏して敵に仕える。

ある日、私がこれらのことばを思いめぐらしているとき、これが絶対的貧困の描写であるとわかりました。お腹がすいて何も食べるものがなく、のどが渇いても、飲む物がなく、裸で何も着るものがなく、あらゆるものに欠乏している人。その人は、絶対的貧困の状態にあります。それ以上の貧困の姿を描くことは不可能です。飢え、渇き、裸、あらゆるものに欠乏している、私たちが理解しなければならない重要な真理は、貧困がのろいであることです。それは神の民のものではありません。貧困は神の子どものものではないことを、はっきりと理解した日、私のたましいに何という喜びと解放がやって来たことでしょうか。それはあがなわれた神の民のものではありません。そうではなく、神のみこころは、喜びと感謝の心で神に仕える豊かさです。

かつて、私がニュージーランドの教会でメッセージをしているとき、聖霊が私の霊と思いに同時に示してくださったものがあり、それ以来私はそのことがずっと頭にあります。聖霊は十字架のイエスを私に示しました。イエスは飢え、渇き、裸で、すべてのものに欠乏していました。なぜでしょうか。私たちのために貧困ののろいを打ち砕くために、そうならざるを得なかったのです。イエスはこれを最後に、のろいを完全に取り除きました。なぜでしょうか。それにより、私たちイエスの血によって贖われた者たちが、貧困ののろいという鉄のくびきを負うことがないためです。

神の交換

貧困は従順の結果の祝福ではなく、不従順の結果です。神に感謝します。私たちはみな不従順であったのですが、イエスは私たちのすべての咎をご自身で負われました。私たちの反抗と、貧困を含むすべての悪の報いは、イエスが十字架にかかったときにイエスに臨みました。

この交換は新約聖書で明確に要約されています。IIコリントで、物質的領域のその交換の 2 つの要素が見られます。パウロは言いました。

「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(IIコリント 8:9)
「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」 (IIコリント 9:8)

そこにある交換は何ですか。イエスは十字架上で私たちの貧しさを負いました。それは、私たちがイエスの富と豊かさにあずかるためです。それは、恵みによるものです。恵みはイエス・キリストによってのみ来るのです。恵みは努力して得ることはできません。恵みは信仰によってのみ与えられます。

IIコリント 9:8で言われていることは、言語のギリシャ語では驚くべきものです。2 回使われている「あふれる」という語が、5回も使われています。これが、イエスが私たちに得させてくださったものです。イエスは、私たちが祝福を相続するために、貧困ののろいを打ち砕きました。

イエスによって私たちが得た霊的、身体的、物質的の3つのすべての領域の祝福は、ヨハネの手紙第三の 2 節に美しく要約されています。

「愛する者よ。あなたが、たましい(霊的)に幸いを得ているようにすべての点(物質的)でも幸いを得、また健康(身体的)であるように祈ります。」

それが、神のみこころです。それが、イエス・キリストの信者としてのあなたの相続です。

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