神との歩み パート 2:主とともに歩む

Teaching Legacy Letter
*First Published: 2012
*Last Updated: 2026年3月
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一対一の親しい人間関係には、常に双方向のコミュニケーションが必要です。それなしでは、親しい関係は続きません。結婚が良い例でしょう。男性と女性は、互いへの真実の愛と自分たちの結婚を素晴らしいものにするのだと心から願って結婚生活に入るでしょう。しかし、彼らが定期的で自由なコミュニケーションを確立、維持しなければ、その結婚は間もなく壊れ始めます。同じことが、神とクリスチャンの関係にも当てはまります。常にオープンな双方向のコミュニケーションなしに、神との関係は決して成功しません。常に神と話し、神に語っていただくという両方のことを私たちは学ばなければなりません。
神様はどのように語られるか
神は、どのように私たちに語られるのでしょうか。第一に、書かれたみことば、すなわち聖書を通してです。聖書は、すべての信者に向けて一般的に語っておられることすべての基本です。それ以上に、神は個人的に私たち一人ひとりに特定のことを語りたいと願っておられます。しかし、もし私たちが聖書で私たちに語っておられることを熱心に求めないなら、神から特別で個人的な方法で聞くことを期待する権利はありません。
聖書は、神からのすべての真のコミュニケーションの基礎、また、吟味されなければならないその他のかたちでのコミュニケーションの基準です。しかしながら、聖書を読むだけでは十分ではありません。Ⅱコリント3:6でパウロは言っています。「文字は殺し、御霊は生かすからです。」聖霊なくしては、私たちの見る聖書のページのすべては、死んだ文字です。しかし、それらの文字が聖霊の管となるとき、私たちは単にそれらの文字を見ているだけではなくなるのです。私たちは直接かつ個人的に語っている神ご自身の声として、心でその文字を聞くのです。
何年も前、私は自分の経験において劇的にそのことを理解しました。哲学の専門家として、私は哲学のあらゆる研究で学んできたのと同様に抽象的・分析的方法で聖書の学びを試みました。しかし、それは哲学とは全くかけ離れた、退屈でわけのわからない本だと気づきました。ただ義務感だけで読み続けていました。そして約9か月後、神はイエスが神の子であると個人的に私に啓示を与え、私を聖霊で満たしてくださいました。翌日、私が再び聖書を開いて読んでみると、その変化に驚きました。まるで世界に神と私のたった二人しか存在しないかのようでした。読む一つ一つのことばが、神が私に個人的に語っていたのでした。これは、すべてのクリスチャンの聖書の読み方であるべきです。
聖書を通して聖霊が語ってくださるのを聞くために、私たちが満たさなければならない重要な条件があります。
間違った態度を捨て去る
第一に、私たちは間違った態度や、人間関係を捨て去らなければなりません。ヤコブは言っています。「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。」(ヤコブ1:21)。すべての汚れとは、汚れた、制御できない架空のものとも定義できます。聞き分けのなさは、神と口論する、あるいは反論する傾向があります。それは柔和の反対です。同様の傾向について、ペテロはこのように言っています。「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて…」(Ⅰペテロ2:1-2)。そこには、神が聖書を通して私たちに語ってくださることを聞く前に、私たちが取り扱われなければならない、間違った態度のリストが挙げられています。そのような間違った態度を捨て去るとき、柔和で教えられやすい霊で聖書に向き合うことができます。
マルコ10:14-15でイエスは、神の国の真理の受け入れ方の模範として、幼い子どもたちを挙げました。イエスがこの箇所で強調している子どもの応答の重要な特徴は、偏見や先入観なく、学びたいという素直な意欲です。詩篇25:5でダビデ王は、私たちが聖書を開くときの態度の良い模範となる祈りを口にしています。「あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。」この待ち望むということばは、静かで忍耐強く期待する態度のことを言っています。みことばを通して神から聞くことは、優先順位の上位に来るべき非常に重要なことです。
あなたの献身を管理する
この概念もまた、もう一人の偉大な神の人モーセの祈りに表れています。「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」(詩篇90:12)。言い換えると、神から聞き、唯一、神だけから来る真の知恵を受けるのに必要な時間を取るために、日々の私たちの活動や献身を上手く整理できるように助けてください、とモーセは言っているのです。「主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられるからだ。」(箴言2:6)
みことばを実行する
しかし、ヤコブが自身の手紙で警告しているように、ただ神のことばを聞くだけでは十分ではありません。「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ1:22)。ヤコブは続けて、みことばを聞くことは鏡を見るようなものであると言っています。鏡は、神を喜ばせない私たちの生き方の領域を映し出します。しかし、私たちが実際的にそのことから益を得るのは、鏡が示す私たちに必要な変化や調整を行なうときだけです。
ヨハネ7:17でイエスは、みことばの教理を理解するためのカギである約束を与えてくださっています。「だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」教理の知識は、教えられたことを行なおうとする人のみに与えられます。従順は私たちをさらなる真理に導きますが、不従順は真理を閉め出し、誤りへと道を外れて行きます。
祈り
前述の方法で聖書を読むことで、私たちは神の声を聞きます。しかし、それは神とのコミュニケーションの半分にしかすぎません。残りの半分は、祈りによります。ソロモンの雅歌で、花婿が花嫁にこのように言っています。「私に、顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。」(雅歌2:14)。これは、ご自身を信じる民に向かってのキリストの思いの表現です。キリストは、私たちの声を聞きたい、私たちと親しく個人的なコミュニケーションを持ちたいと願っておられます。私たちが祈りによって神のもとへ行くとき、常に覚えておかなければならないことは、神は無関心でも、近づきにくい方でもないということです。反対に、神は私たちの祈りを聞き、それに答えたいのです。
関係がカギ
祈りとは、私たちが神に差し出す単なる懇願のリスト以上のものです。もう一度「主の祈り」のパターンを見てみると、その祈りの前半は、神に対する正しい態度に私たちを建て上げるものだとわかります。そのあとにのみ、私たちの願いを差し出すように勧められています。結局のところ、イエスは私たちに、「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」ということを思い出させているのです。祈りで重要なことは、神がすでに知っておられる必要を多く知らせることではありません。祈りのゴールは、神との関係を建て上げることなので、必要を満たしてくださる神への私たちの確信が重要です。
もし、私たちが単に自分の能力だけに頼るなら、だれ一人として祈るべき祈りができません。そのことを知っておられる神は、聖書を解釈するためのお方、すなわち聖霊を通して祈りの中で必要な助けをしてくださるのです。ローマ8:26-27でパウロは、私たちの祈りの中での聖霊の役割を説明しています。
「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」
パウロは、ここで弱さについて語っています。この文脈の中で彼は、体の病気というよりは、私たちの肉的な性質特有の弱さについて言っています。この弱さは、2つの方法で表わされます。時に、私たちは祈るべきだとわかってはいるのですが、何を祈ったらいいのかわからないときがあります。また、何を祈るかがわかっていても、どのように祈ったらよいのかわからないときがあります。その時の私たちの状況に応じて、聖霊は必要な助けをくださり、どのように祈るか、何を祈るのかの両方を示してくださいます。神が受け入れて下さる祈りはただ、神ご自身がまず聖霊を通して私たちに与えてくださる祈りだけなのです。
聖霊に導かれる
聖霊への信頼はもっと先に導きます。それは聖書を理解することや祈り方を知ることだけに制限されていません。聖霊はクリスチャン生活のあらゆる場面において私たちを導くための、神が約束された案内人です。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」(ローマ8:14)。このように、私たちは聖霊と二重の関係にあることが分かります。『神との歩みパート1』の書簡で言及した門と道という、二段階のかたちと一致しています(参照:マタイ7:14)。神の子どもとなるために、私たちは御霊によって生まれなければなりません(参照:ヨハネ1:12-13、3:1-8)。これは、門を入ることです。その後、神の子どもとして生きるために、私たちは聖霊に導かれなければなりません。これは、道を歩むことです。
新生の門を入った後、私たちに立ち向かって来る狡猾な誘惑は、聖霊の個人的な導きが宗教規則にとって代えられることです。「もし、毎日一時間祈って聖書を読み、教会に通い、什一献金をきちんと捧げれば」とか、もし、私が特定の娯楽を避けるなら、私は成功したクリスチャン生活を送ることができる。」と自分に言い聞かせるようなことです。しかし、そのような方法では成功しません。まだほかにもあると思いますが、そのような規則は素晴らしく立派です。しかし、それらは聖霊との個人的な交わりや導きの代わりになることができません。
実際、宗教的規則により頼むことによって、私たちは聖霊をないがしろにしているのです。もし、必要なものが規則だけであるなら、なぜ神は私たちに聖霊をくださったのでしょうか。これは、パウロがガラテヤ人に宛てて手紙を書いたときにガラテヤ人が犯していた間違いです。「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」(ガラテヤ3:3)。私たちの内で始まる聖霊の働きは、聖霊だけが完成できるのです。
聖霊の声
聖霊に導かれなければならないというこの必要に直面して、クリスチャンはしばしばこのように反応します。「でも、本当に聖霊が導いていると、どのようにして確信できるのですか。どのようにして聖霊の声だと確信できますか。」時に、私は別のこのような質問にも出くわします。「電話に出て、その相手が妻だとどのようにしてわかるのか。妻の声をどう認識するのか。」もちろん、それは私が妻を知っているので、声を聞き分けるのだということです。妻を良く知っているので、妻の声を聞くことは簡単です。
同じことが私たちと聖霊との関係にも当てはまります。聖霊の声を認識するために、私たちは聖霊ご自身との親密性を養わなければなりません。多くのクリスチャンは聖霊の人格を認めていません。その人々は、父なる神が人格であり、またキリストが人格であると知っていますが、聖霊も同じように人格であるとみなしていません。しかし、父と御子が人格であるのとまったく同じなのです。私たちは父と御子を知っているのと同じ直接的個人的方法で聖霊を知る必要があります。
聖霊をよりよく知るほど、私たちは聖霊の声をはっきりと聞き、さまざまなかたちでの導きを認識するようになります。夫婦が長くいっしょに住んでいると、言葉で言わなくても互いのことがわかる方法が出来上がってきます。沈黙、しかめつら、眉間のしわ、いつもと違う表情、それらは、言葉で伝える以上に伝わります。
同じことが私たちと聖霊との関係にも起こります。聖霊は常に言葉による命令をするわけではありません。聖霊には間接的、直接的なさまざまな方法があります。内なる警告、不承認の沈黙、励ましの温かさ、自然発生的な行動の促しなど、私たちが聖霊の導きに敏感になればなるほど、真の神の子どもとしての平安と確信でこの世界を歩んでいくことができるようになります。
つまずいたとき
私たちがクリスチャンの歩みにつまずいた、あるいは失敗したと仮定してください。私たちはそれに関して、どうしようもない失敗を犯してしまったということでしょうか。もちろん、違います。ここに、ダビデ王の励ましのことばがあります。
「人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。」(詩篇37:23-24)
ダビデはそのことばを個人的な経験から書いています。彼は失敗というものを知っていました。あるとき、彼は友の妻との姦淫を犯しました。そして、自分の罪を隠すために、自分が姦淫をした女性の夫を死に至らせました。しばらくダビデは罪を隠しておこうとしましたが、神のあわれみのうちに預言者ナタンを通してそれらをすべて光のもとにさらしました。告白と悔い改めを通してダビデは、ついに赦しを受け、回復しました(参照:Ⅱサムエル11、12章)
ダビデが自分の罪を告白する前に味わった身体的、感情的な苦しみが詩篇32:3-5に鮮やかに描かれています。
「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」
「あなたは私の罪のとがめを赦されました。」という最後のフレーズを神に感謝します。神の赦しを受けることができないほど、あなたは行き過ぎた、あなたの罪が耐えがたいと、悪魔に言いくるめられないでください。思い出してください。悪魔はすべてのクリスチャンの告発者です(参照:黙示録12:10)。悪魔の狙いは、罪悪感、無価値感、敗北感を持たせ続けることです。しかし、神は完全な赦しと回復を備えておられます。
信者の人生での罪に対する神の二重の備えがⅠヨハネ2:1で明らかにされています。「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。」これがその備えの一つです。あなたがたが罪を犯さないようになるため、神の恵みと力による信仰を通して、私たちが罪の支配から解放されて生きることを可能にするのです(参照:ローマ6:1-14)。しかし、ヨハネはこう続けています。「もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。」これが神の備えの2つ目です。もし、私たちが罪を犯せば、ただ悔い改めとへりくだることによって、私たちの仲介者であるイエス・キリストに立ち返る以外にありません。イエスは、父なる神と私たちの状況を取り扱い、完全な赦しときよめを与えてくださいます。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)。
このように、私たちは神の忠実さほど自分の信仰がないことを自覚し、赦され、きよめられ、罪悪感や無価値感を引きずることなく、再びクリスチャンとしての歩みを始めることができます。
「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」(ピリピ1:6)。
「あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」(Ⅰテサロニケ5:24)
献身の祈り
この時点で、あなたは主との関係においてさらに自分自身を捧げたいと感じていらっしゃるかもしれません。それは素晴らしい願いで、神もあなたともっと近く歩みたいと願っておられることをあなたは確信しているでしょう。あなたの願いをことばにするために、次の祈りによって、この学びを締めくくりましょう。
*Prayer Response
「主よ、私の願いはできるだけあなたと近く歩むことです。あなたのことばを通して私に語ってくださることを聞きたいのです。聖霊の声を聞きたい、そして聖霊に導かれてあなたの願いの中に入りたいのです。そのプロセスを中断させるいかなる態度も捨て去り、へりくだって教えられやすい霊であなたとあなたのことばに近づきます。
あなたの助けであなたに近づくため、またさらなる個人的な交わりと導きにおいて、もっとあなたを知り、聖霊に導かれるために必要なステップを踏みます。また、主よ、もし私が倒れたとき、悔い改めてあなたのもとに来るなら、あなたの手が私を引き上げてくださることを感謝します。
主よ、感謝します。あなたは私の内に始めてくださった良い働きを完成させてくださいます。あなたはそれをしてくださいます。あなたはさらに私を引き寄せ続けてくださることを大いに感謝し、あなたの誠実さを喜びます。イエスの御名によって。アーメン。」
コード: TL-L089-100-JPN