クリスチャンは、天から地まで宇宙全体にわたるとても大きな戦いの中にいます。それは、神の善の勢力とサタンの悪の勢力との戦いです。サタンは高慢のゆえに堕ちた天使長で、御使いたちを率いて神に反抗するための敵対する王国を作りました。みことばはサタンを竜、蛇、殺人者、嘘つき、盗人として描いています。サタンは、神と神の目的、そして神の民に敵対し、また盗み、殺し、破壊という3つの目的を持って私たちに向かってきます。

幸いなことに、福音の良き知らせは、十字架でのイエスの死によって私たちにとって2つの重要な点でサタンを滅ぼしました。1つ目は、私たちに過去の罪の赦しを受けることができるようにしてくださったことです。2つ目は、律法を守ることによってではなく、ただ信仰によって神の義を受け取ることを可能にしてくださったことです。このように、イエスはサタンから私たちに対抗する彼の主要な武器である罪責感を奪い取ってくださいました。

霊的武器

イエスはまた、ご自身のサタンに対する勝利を執行させるための霊的武器を私たちの手に与えてくださいました。第2コリント10章4節にこう書かれています。

「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。」

「神が与えてくださった私たちの霊的武器は神の御前で力があるもの」と言うのは、言葉通りに訳すと、「神により力あるもの」となります。この神から与えられた武器を私たちが信仰と神への信頼によって用いるとき、神ご自身の力が私たちに臨むのです。

私たちは敵との戦いにおいて、サタンが次にどこで攻撃してくるか思いめぐらしているような守りの体制ではなく、私たちが霊的武器で彼らを滅ぼすために彼らの要塞を攻撃するという行動を起こさなくてはなりません。受け身であってはいけないのです。私たちはこう言ってしまいがちです。「私はとても弱いし、価値のない者だ。どのように戦ったらいいのかわからない」。しかし、これはサタンがあなたの思いに入れた言葉です。ある意味私たちは弱い者です。しかし、第1コリント 1章27-28節でパウロが言っている言葉を聞いてください。

「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、ある者をない者のようにするため、無に等しい者を選ばれたのです。」

神は無限の知恵により、ある者であるサタンの王国を倒すために、私たちのような弱い者、取るに足りない者を選ばれたのです。私たちの拠り所は私たち自身にあるのではなく、私たちの武器にあるのです。

私たちの霊的武器とはどのようなものでしょうか。黙示録 12章10-11節にこう表現されています。この箇所はサタンのことを竜、また蛇として言及したすぐ後に続いています。

「そのとき私は、天で大きな声が、こういうのを聞いた。『今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。』」

ここでの決定的な声明はこうです。「兄弟たちは...彼に打ち勝った」。信者と敵との1対1の直接対決に気づいてください。戦いにおける武器は小羊の血と自分たちのあかしのことばです。さらに、彼ら(兄弟たち)は死に至るまでも戦いに全き献身をしていました。

この聖句の解釈はシンプルで具体的です。すなわちイエスの血が私たちのために成し遂げてくださったことについて神のことばが何と言っているか、を私たちが個人的にあかしする時サタンに打ち勝つのです。私たちがイエスの血、神のことば、そして私たちの個人的なあかしという3つの武器を共に用いるとき、まさに効果を発揮できるのです。しかし、これを適切に行なうためには、私たちはイエスの血について神のことばが語っていることを知らなければなりません。

過越の子羊

ペテロの手紙第 11章18-19節

「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちるものにはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの尊い血によったのです」。

ここで、イエスは過越の小羊にたとえられています。

旧約聖書では、過越の小羊の血は、イスラエルの家々に適用されました。各家族の父親は小羊をほふり、鉢にその血を入れ、ヒソプの束によって鉢から家へと移しました。ヒソプを血に浸し、家に塗りつけたのです。鉢の中の血が守るのではなく、ヒソプが重要なのです。ヒソプを用いて家に塗りつけられた血がその家族を守ったからです。

このヒソプの役割を果たすのが私たちのあかしです。イエスの血が成し遂げたことについて聖書が何と言っているのか、それを私たちが置かれている場所であかしすることが、鉢から血を取って必要なところへ注ぎかけるということなのです。

贖いと赦し

エペソ1章7節でパウロはこう言っています。「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは、神の豊かな恵みによることです」。パウロは、ここで、イエスの血によって与えられる2つについて述べています。それは、贖いと罪の赦しです。しかし、この2つのものを私たちの人生に効果的に適用するために、私たちは適切なあかしをしなければなりません。詩篇 107篇2節のメッセージはこうです。

「主に贖われた者はこのように言え。主は彼らを敵の手から贖い」

私たちは「敵、つまりサタンの手から贖われている。」と大胆に宣言しなければなりません。

贖いとは、“買い戻す”という意味です。私たちはかつて罪人であり、サタンの奴隷市場で売り物として陳列されていました。しかし、イエスはサタンの奴隷市場に入って行き、ご自身の尊い血をもってサタンの所有から私たちを買い戻してくださいました。私たちの罪が赦されたからこそ、この敵からの贖いが成立したのです。キリストの贖いと赦しが私たちの人生で効果的なものとなるために、私たちは自分の個人的なあかしを用いなければなりません。「イエスの血によって私のすべての罪は赦された。イエスの血によって私はサタンの手から贖い出された」と。このあかしを、私たち自身の口で告白することが、ヒソプの役割を果たし、イエスの血の持つ本来の力を私たちの実際的な日々の生活の中で発揮させるのです。

きよめ

さらに、イエスの血がもたらす重要なもう一つのものが、罪からのきよめです。この罪からのきよめは、第一ヨハネ1章7節で述べられています。

「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」

もし私たちが光の中を歩んでいるなら、最初に起こることは互いの交わりで、次に起こることはイエスの血によるきよめです。

歩む、交わりを保つ、きよめる、という3つの動詞のすべてが連続性現在時制です。それらはただ一度起こるのではなく、継続していくものでなければなりません。私たちは互いの交わりを保ちつつ光の中を歩み続けなければなりません。そうすればイエスの血は私たちをきよめ続けます。

イエスの血のきよめを宣言していたとしても、私たちが必要条件を満たしていないならば、真のきよめは実現しません。イエスの血は暗闇の中できよめるのではなく、私たちが光の中を歩んでいるときにのみ、きよめるのです。私たちが光の中を歩んでいるかどうかということを知る第1の手掛かりは、私たちが互いに交わりを保っているかどうかということです。私たちが信者同志での交わり、また主との交わりを楽しんでいないのなら、私たちは光の中にはいません。そしてもし、私たちが光の中にいないのなら、イエスの血は私たちをきよめません。

次に、私たちはどのように光の中を歩むかについてです。一つ目に、私たちは神のことばに従って歩まなければなりません。詩篇119篇105節は言っています。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」。二つ目は、互いの交わりを保たなければならないということです。

エペソ4章 15 節でパウロはこのようにまとめています。

「むしろ、愛を持って真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです」。

この聖句では、光の中を歩むということは、私たち信者が真理と愛によってつながることだと定義しています。私たちは互いの関係において真理を行なうべきであり、しかもそれを愛によって行なわなければならないのです。

光の中を歩むことは、次の2つの行動から成り立っています。神のことばに従って歩むことと、信者たちとの間で 真理と愛の中を歩むことです。これらの条件を満たすとき、私たちはイエスの血はすべての罪から私たちをきよめると全き確信をもって言うことができます。

今日、私たちは肉体的な汚れの環境に置かれていることを確かに感じています。しかし、私たちの周りの霊的環境もまた、罪、腐敗、不信心によって汚れています。きよさを保つために、私たちには継続したイエスの血によるきよめが必要です。

きよくあるための必要条件を満たしているという確信に立ってこそ、正しい告白をすることができます。私たちのあかしは次のようであるべきです。「私たちが光の中を歩むとき、イエスの血はあらゆる罪から今もこれからも私をきよめます」。もし、私たちがそのことを信じるなら、私たちは神に感謝し始めるでしょう。そして神に感謝するとき、私たちは今まで味わったことのないきよさを実感するようになるでしょう。

義認

イエスの血がもたらすものには、さらに義認があります。これはローマ5章 8-9 節で明確にされています。

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

鍵となるのは、『血によって義と認められた』です。罪の赦しと義認は新約聖書の鍵となる言葉です。罪を赦すということの実際の意味は、「正しくされる、罪から解放する、潔白を保つ」です。私が今までに聞いた義認の最高の定義は、「イエスの血によって私は義とされている。まるで私が一度も罪を犯したことがないかのように」です。(英語で義認は justified で、それをもじって“just-as-if -I’d” never sinned というものです)。私たちは何ゆえに罪を犯したことがないなどと言えるのでしょうか。それは、私たちはイエスの血によって義とされており、私たち自身の義ではなく、決して罪を犯されなかったイエス・キリストの義を受けているからです。

第2コリント5章21節でパウロは言っています。

「神は、罪を知らない方イエスを、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」

代わりに、ということに注目してください。十字架の上でイエスは私たちの代わりに罪ある者とされ、その罰として裁きを受けられ、ご自身の血を流すことによって贖いの全額を支払ってくださったのです。イエスにあって私たちは神の義とされました。それは私たち自身の義でも、いかなる人間の義でもなく、ただ神ご自身の義です。神は罪とは全く関係のないお方です。神は決して罪によって汚されることはありません。それが、イエスの血による信仰によって私たちが受ける義です。ですから、イエスの血によって私たちは罪赦され、神の義とされるのです。まるで私たちが一度も罪を犯したことがない者であるかのように。

そしてこれは、サタンの私たちに対する告発への答えです。サタンは何故私たちを告発するのでしょうか。それは、私たちの有罪を立証したいからです。ですから、サタンの告発に打ち勝つ第一のあかしはこうです。「イエスの血により私は義とされ、まるで一度も罪を犯したことがないかのごとく正しい者とされたのだ」。このことのゆえに、私は恥や恐れを持たず神の御前に立つことができるのであり、大胆にサタンに答えることができるのです。「サタンよ。私を告発しても無駄なことだ。なぜなら私は自身の義によってお前の前に出るのではなく、しみも汚れも罪もない神の義によってお前に立ち向かうからだ」と。

聖別

次に、イエスの血によって与えられるものは、聖別です。聖別するとは、「聖くされる」という意味で、聖くされるとは、神のために何かを、また人を取り分けるという意味です。きよい人とは、神のために選り分けられた人のことです。へブル13章12節で、

「ですから、イエスも、ご自身の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました」。

聖なるものとするために血が用いられるということは、過越の出来事において明らかです。

過越の小羊の血は、イスラエルを特別な方法で区別するものでした。出エジプト11章4-7節で神がイスラエルの民を分かつ意図が啓示されています。

モーセは言った。「主はこう仰せられます。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出て行く。エジプトの国の初子は、王座に着くパロの初子から、ひき臼の後ろにいる女奴隷の初子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ。そしてエジプト全土にわたって、大きな叫びが起こる、このようなことはかつてなく、また二度とないであろう。』しかし、イスラエル人に対しては、人から家畜に至るまで、犬も、うなりはしないでしょう。これは、主がエジプト人とイスラエル人を区別されるのを、あなたがたが知るためです」。

主は、ご自身の民とそうでない人々とを区別されました。怒りとさばきが神の民でない人々の上に下り、神の民は犬に至るまでも吠えることがないほどに完全に守られたのです。この区別、分離の土台は、過越の小羊の血でした。家の外に血を塗りつけたすべての家は聖とされ、神に選り分けられました。いかなる悪の力もその家に侵入することはできませんでした。それは主がご自身の民とそうでない人々[と]を区別されたからです。この区別は塗りつけられた小羊の血よってなされました。

同様に、適切なあかしの言葉を用いることによって私たちはイエスの血によってもたらされるもう1つのもの、すなわち聖めを宣言することができるのです。「イエスの血により、私は神に聖別されている。サタンは私の内に入り込む余地はなく、私に対する支配力もなく、断言できることは何もない。すべてはイエスの血によって完了しているのだ。」イエスの血は、贖い、赦し、きよめ、義認、聖別、そして私たちへのとりなしのための備えとされました。私たちは神のことばがイエスの血について何と言っているかを個人的にあかしすることよってこれらの備えを実生活の中に適用することができるのです。このようにして、私たちに対する強力な武器であった「罪責感」を奪われたサタンに対し、私たちは、はるか昔に十字架で完成されたキリストの勝利の中を生きることができる者とされたのです。

継続したとりなし

イエスの血によって私たちのために備えられている素晴らしいもので、多くのクリスチャンが気づいていないものがもう一つあります。へブル 12 章 22、24 節でこう言われています。

「しかし、あなたがた(すべての真のクリスチャン)は、シオンの山...アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています」。

天の都シオンで、私たちのためにイエスの血は神の大いなる臨在のある至聖所で注ぎかけられました。イエスは私たちの先駆者として至聖所に入り、永遠の贖いをご自身の犠牲によって成し遂げ全能の父なる神の大いなる臨在の中でその贖いのしるしを注ぎかけたのです。

私たちはここで重要な対比に気づくべきです。人類史上の初期、カインは弟アベルを殺しました。そして彼はその責任逃れをしようとしましたが、主はカインにこう言われました。「あなたはいったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地から私に叫んでいる」(創世記4:10)。しかし、それと対照的に、天で注ぎかけられたイエスの血は、復讐ではなく、あわれみのために叫んでいます。その血はご自身のあわれみのゆえに、神の大いなる臨在の前で私たちのためにとりなしてくれているのです。

いったん私たちがイエスの血の力を個人的に証言するなら、その言葉を何度も頻繁に繰り返す必要はありません。なぜなら、イエスの血は神の大いなる臨在の前で私たちのために常にとりなしてくださっているからです。困難や誘惑、恐れ、不安に陥るたびに、私たちはいつも次のように自分に言い聞かせるべきです。「イエスの血は、神の臨在の前で今も私のためにとりなしてくださっている」と。

私たちはサタンと戦う時、信仰を持って積極的に攻撃を仕掛けなければなりません。イエスはご自身の血とみことば、そして私たちのあかしという武器を与えてくださっており、この私たちの個人的なあかしの言葉こそ、他の2つの武器を用いるための鍵となるものです。

イエスの血は、私たちのために贖い、赦し、きよめ、義認、聖別、そして執り成しの備えをしてくださいました。神のことばが語るイエスの血について、私たち自身が個人的に証しすることによって、これらの備えを自分の人生に適用することができます。こうして、サタンは私たちに対する最大の武器——すなわち「罪悪感」——を失い、私たちはキリストが十字架で成し遂げられた勝利のうちに生きることができるのです。

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