手を置く

Teaching Legacy Letter
*First Published: 2008
*Last Updated: 2025年12月
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クリスチャン信仰の6つの基本教理が決定される際に、それが人間の理解だけにゆだねられていたなら、『手を置く』という教理はほぼ確実に、そこに含まれていなかったでしょう。しかし結局は、聖書の最高の注解書は、聖書自体なのです。この学びの書簡では、その教理の四番目の要素である『手を置く』ことについて見ていきましょう。
私たちは、『手を置く』という行為について正しく理解しているでしょうか。それは、明確な霊的目的を持った一人の人が別の人のからだに『手を置く』行為です。通常この行為は、祈りか預言、あるいはその両方を伴います。
宗教界以外においても、この『手を置く』という行為は奇妙なものではなく、一般の人間の行動にも見られます。例えば、世界のある地域では、男性が挨拶をする際、お互いの肩に手を乗せ合います。
この行為は、互いの友好関係と出会いの喜びを表わすものです。また、子どもが頭痛や発熱を訴えているとき、母親が本能的に子どもの頭に手を置いて子どもを落ち着かせるようにすることは、とても自然なことです。
第一に、『手を置く』人はその行為によって、手を置かれる人に霊的祝福や権威を流し出します。第二に、『手を置く』人は、手を置かれる人が霊的祝福と権威を神からすでに受けたことを公的に承認します。第三に、『手を置く』人は、手を置かれる人が特別な働きやミニストリーのために神に献身することを公的に承認します。時には、一度の『手を置く』行為に、この3つの目的が同時に組み込まれることがあるかもしれません。
第一に、『手を置く』人はその行為によって、手を置かれる人に霊的祝福や権威を流し出します。第二に、『手を置く』人は、手を置かれる人が霊的祝福と権威を神からすでに受けたことを公的に承認します。第三に、『手を置く』人は、手を置かれる人が特別な働きやミニストリーのために神に献身することを公的に承認します。時には、一度の『手を置く』行為に、この3つの目的が同時に組み込まれることがあるかもしれません。
旧約聖書の2つの慣例
聖書を開いてみると、『手を置く』ことは、創世記にもあるように、神の民の間ですでに行なわれていたことが分かります。例えば、創世記48:14で、ヨセフは二人の息子エフライムとマナセを、父ヤコブの祝福を受けるために父のもとへ連れて行ったとあります。
「すると、イスラエルは、右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。マナセが長子であるのに、彼は手を交差して置いたのである。」最初、ヨセフは父が間違えたと思い、父の右手を長子であるマナセの頭の上に、左手を弟エフライムの上に差し替えようとします。しかし、ヤコブはエフライムに右手を、マナセに左手を置いたのは神の導きであることをはっきり言いました。ヤコブは手をなおも交差したままで、2人の祝福を続け、最上の大いなる祝福をエフライムに、それより劣る祝福をマナセに与えます。
この聖句箇所は、2人の孫の頭に『手を置く』ことによって、ヤコブの祝福が流し出されたことをはっきりと表わしています。さらに、右手を通しては、より偉大な祝福、左手はそれより劣った祝福であることを表わしています。
二つ目の例として、モーセは地上での働きの終わりに差しかかった時、自分の代わりとなるふさわしい新しい指導者をイスラエルに示してくださるように主に求めました。主がその必要を満たすためにモーセに命じたことが民数記 27:18-20に記録されています。
「主はモーセに仰せられた。『あなたは神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを取り、あなたの手を彼の上に置け。彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、彼らの見ているところで彼を任命せよ。あなたは、自分の権威を彼に分け与え、イスラエル人の全会衆を彼に聞き従わせよ。』」
この主の命令をモーセが実行した方法が、同じ章の22、23節に書かれています。
「モーセは主が命じられたとおりに行った。ヨシュアを取って、彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、自分の手を彼の上に置いて、主がモーセを通して告げられたとおりに彼を任命した。」
ヨシュアによってもたらされた結果が申命記34:9に記録されています。
「ヌンの子ヨシュアは、知恵の霊に満たされていた。モーセが彼の上に、かつて、その手を置いたからである。イスラエル人は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおりに行った。」
これらの聖句から、モーセがヨシュアに手を置いた行為がヨシュア自身とイスラエル人の全会衆にとって、非常に意義深かったことがわかります。この神聖な任命の行為により、モーセは二つの主な目的を果たしました。第一に、モーセは、自分が神から受けた霊的知恵と栄誉をヨシュアに流し出しました。第二に、モーセは引き継ぎの指導者として神がヨシュアを示されたことを、イスラエルの全会衆の前で公けに認めました。
新約聖書のいやしの儀式
ここで新約聖書を開き、この『手を置く』儀式が行なわれている部分を見ていきましょう。そこには、『手を置く』行為が用いられる5つの特徴的な目的が見出せるはずです。それらは、からだのいやしのため、聖霊のバプテスマを受けるため、霊の賜物を受けるため、クリスチャンの働き人を地域教会から遣わすため、執事や長老の任命のためです。
最初の目的は(今回はこれについてだけ学びます)、からだのいやしの奉仕と直接関連しています。マルコ16:17-18にあるように、イエスはご自身の地上でのミニストリーの終わりに、最後の命令で弟子たちに権限を与えています。この箇所でイエスは、福音を宣べ伝えることに伴う、5つの超自然的なしるしを示しており、それらはイエスの御名を信じるすべての信者によって明言されるでしょう。イエスが示している5つ目の超自然的なしるしは、
「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって・・・病人に手を置けば病人はいやされます。」
イエスの御名によって手を置くことは、病人へのミニストリーにおいて、からだのいやしのために定められています。新約聖書のヤコブ5:14-15でもう一つ、少し違った儀式が定められています。
「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」
ここで定められている儀式は、主の御名によってオリーブ油を病人に塗っています。
この似ている2つの儀式は両方とも、イエスの御名への信仰によってのみ効果があるのです。油を塗る場合、祈りも伴わなければならないと、特に定められています。マルコの福音書で病人に手を置く箇所では、祈りについては特に触れられていません。しかし、ほとんどの場合、病人に手を置くだけでなく、祈ることはもちろん自然なことでしょう。
また、病人に油を塗るとき、同時に手を置くことは、実に自然で、ほぼ本能的であると思われます。このように、2つの儀式は結合しています。しかし、必ずしもそうでなければならないわけではありません。病人に油を塗らず、『手を置く』ことはまったく聖書的です。同様に、病人に手を置かず、油を塗るだけというのも、まったく聖書的です。
ここで自然に次のような疑問がわいてくるでしょう。病人に『手を置く』ことと、病人に油を塗るという2つの儀式の間に、何か用い方や目的の違いはあるのでしょうか。時と場合によってどちらを用いるのが適切かというようなことはあるのでしょうか。もしそうであるなら、それらを用いる聖書的原則の指標は何でしょうか。
クリスチャンのために
油を塗ることについて、前出のヤコブの手紙の箇所は、次のことばで始まっています。
「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き・・・」
ヤコブの手紙は、何よりもまず(ユダヤ人ではあるが)、クリスチャンだと明言している人に宛てており、「あなたがたのうちに」という部分は、おもに信者に言及していると思われます。これは、その直後に続く、「その人は教会の長老たちを招き」という指示にも合致しています。
信仰告白をしていない、またキリスト教会とつながりのない人は、この「あなたがたのうちに」には含まれません。また、遣わされるべき教会の長老がだれであるかを知らないような人も含まれません。したがって、この油を塗るという儀式は、何よりもすでにキリストにある信仰告白をし、キリスト教会につながっている人のためのものです。
この聖句に含まれている第二の重要な学びは、クリスチャンが教会につながること、その教会のリーダーたちが教会員の身体的必要に信仰をもって仕えるために整えられるべきであることを神が期待しておられるということです。「その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい」というのは、第一に、リーダーたちがその人を知っており、またその人もリーダーを知っているというかたちで教会につながっていること、第二に、そのリーダーたちは教会のために神によって任命され、信仰によって教会員のからだのいやしに仕えるために整えられていることの両方を必要としています。
前述のマルコ16章にある、病人に『手を置く』もう一つの儀式に戻ると、この儀式の背景は、未信者に福音を宣べ伝えることと一緒に行なわれるように提案されており、おもに使われるのは、まだ救われていないか、新しく信仰を持つようになった人のためであることがわかります。
これは、マルコ16:15-17で弟子たちに与えられた全世界に福音を宣べ伝えなさいという命令のすぐ後に続いているという事実から、イエスによって命じられた他の超自然的なしるしと同様、上記の結論に至るのです。
「それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います・・・」
イエスは、すぐに続けて5つの超自然的なしるしを挙げ、最後の5つ目に病人に手を置いていやすことで結んでいます。これは、病人のいやしを含め、それらの超自然的なしるしの一つ一つが、神の真理と福音のメッセージを聞いたことのない地域へ福音のメッセージが持つ権威のあかしを携えていくことが、神の計画であることを述べているのです。
これは、マルコの福音書の締めくくりの弟子たちの伝道活動の記録と一致しています。マルコ16:20です。
「そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」
これは、手を置いて病人をいやすことを含め、超自然的なしるしの最大の目的は、まだ福音を受け入れたことがない人々に福音の真理を確かに示すためであるということを指しています。ですから、イエスの御名によって手を置いて病人をいやすという方法は、教会に属しているクリスチャンのためというのが第一目的ではなく、むしろ未信者や新しく信仰を持った人々のためであることは明らかです。
手を置いた結果、いやしは、どのように起こるのでしょうか。聖書は、この疑問に対する明確な詳しい答えを与えていません。イエスはただ、「病人に手を置けば、病人はいやされます」とだけ言われました。「病人はいやされます」という部分は、「病人は良くなります」と訳せるでしょう。
イエスのこれらのことばによると、いやしのための正しい方法と、いやしのプロセスにかかる正確な時間、この2つは、神の主権によるものです。私たちは、これに並列するIコリント12:6のパウロのことばに目が留まるでしょう。
「働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。」
病人に『手を置く』ことに関して、パウロが「働きにはいろいろの種類がある」と言っています。つまり、いやしのプロセスは、その時々によって常に同じように働くわけではないということです。
ある場合には、『手を置く』ことは、いやしの働きの超自然的な賜物でもあるでしょう。その場合、この行為で手を置く人は、神の超自然的ないやしの力を、手が置かれた人のからだに流し出し、また、手を置かれた人が自分のからだの中に神の超自然的な力を実際に感じることはよくあることです。
ゆるやかなプロセス?
しかし、別の場合で、まったく力を感じないことがあります。『手を置く』ことは、純粋に神のことばへの自然な信仰と従順の行為です。それでも、真の信仰があれば、劇的な経験や超自然的な経験がなくても、いやしは伴います。
また、キリストは、いやしのプロセスにかかる時間を特定しません。時には、病人に手を置くや否や、完全ないやしを即座に与えられます。しかし、またある時には、いやしが徐々にしかやって来ません。後者の場合、いやしを求めている人は、いやしのプロセスが完全になるまで、積極的な信仰の訓練を続けるということが何よりも重要です。
コード: TL-L061-100-JPN









