実としての信仰

Teaching Legacy Letter
*First Published: 2007
*Last Updated: 2026年2月
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前回の学び、『賜物としての信仰』では、1 コリント 12:8-10 のパウロによる 9 つの御霊の賜物を見てきました。次に、ガラテヤ 5:22-23 でパウロが言っている 9 つの御霊の実のリストに移りましょう。
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、忍耐、親切、善意、信仰、柔和、自制です。」(英欽定訳)。
ここで7つ目の実としてあげられているのが、信仰です。最近の様々な訳は、「誠実」、「忠実」、「信頼に値する」などがありますが、パウロが用いているギリシャ語の名詞は pistis で、これは、新約聖書全体において、信仰と言われているものの基盤の単語です。
実と賜物
フォーカスするものの違いを表わすための一つの方法として、クリスマスツリーとりんごの木を思い浮かべてみましょう。クリスマスツリーはプレゼントをもたらし、りんごの木は実を成らせます。プレゼントがクリスマスツリーに付けられ、またツリーから外されるのも、どちらも単純な一回の動作によります。木とプレゼントの間には直接のつながりはありません。一つはラッピングされたもの、もう片方はモミの木です。プレゼントはその木の性質とは何の関係もありません。
一方、りんごとその実をつける木の間には直接的なつながりがあります。木の性質は、その種類と質という、実の性質を決定づけます。りんごの木がみかんをならせることは不可能です(参照:マタイ 7:17-20)。りんごの実は、ただ一つの作用によって生み出されるのではなく、着実で継続した成長の過程と展開の結果です。最高の実を結ぶためには、木は注意深く育てられなければなりません。これには、技術と労働が求められます。
このことを単純に霊的領域に適用してみましょう。霊的賜物はひとつの簡潔な作用で与えられ、受け取ります。受け取る人の性質について何もわかりません。一方、霊的な実は、それから生み出されるいのちの性質を表します。それは、成長の過程の結果としてのみ来るのです。最高の実を結ぶために、いのちは時間、技能、働きとともに注意深く育てられなければなりません。
私たちは、賜物が能力を表わし、実は性質を表わすと言うことによってもう1つの方法で違いを表すことができるでしょう。
どちらがより重要なのでしょうか。長い目で見れば、疑うことなく、能力よりも性質が重要です。賜物を用いるのは一時的です。パウロがIコリント 13:8-13 で説明しているように、賜物がもはや必要でなくなるときがやってくるでしょう。しかし、性質は永遠のものです。私たちが人生で発展させる性質は、私たちが永遠に至るまでどのようであるかを決定づけるでしょう。いつの日か、私たちは賜物から離れ、私たちの性質がいつまでも残るときが来るのです。
しかしながら、私たちはどちらかを犠牲にして一方だけを選ぶ必要はありません。賜物が実を排除することはないし、実が賜物を排除することもありません。むしろ、それら二つは互いに補い合うものです。イエスご自身が人として完全であったように、賜物は性質を具体的に表現するものであるべきです。イエスの愛なる恵み深い性質は、霊的賜物を最大限に用いることによって表現されました。賜物を通してのみ、イエスはご自身を送られた天の父のご性質を人々に完全に表わすお方として、ご自身のもとへやって来た人々の必要に応えることができました(参照:ヨハネ14:9-1)。
私たちはキリストの模範に従うことを求めなければなりません。イエスに表われている愛、思いやり、あわれみ深さの性質をさらに発展させていくと、それらの性質を具体的に表わすために、イエスが用いた同じ賜物がさらに必要となるでしょう。私たちがさらに十分にそれらの賜物を備えていけば、まさにイエスがなされたように、さらに父なる神に栄光を帰する者となることができるでしょう。
そして、実は性質を表します。9 つの御霊の実のすべてを有し、十分に発展させる時、クリスチャンの性質の完全性を表わす者となり、実の各々のかたちが特別な必要を満たし、残りの実を補い合います。この信仰の実の完全性の中に、異なる側面ではあるけれども、ギリシャ語の pistis が用いられているという点で一致している2つのものを見ることができるでしょう。一つは信頼で、もう一つは信頼に値する、です。
信頼性としての信仰
実としての信仰の最初の要素は信頼性です。エルサレム聖書は、pistis を十分信頼できることと翻訳しています。幾度となく、イエスは神の国に入るための条件の一つに、幼い子どものようにならなければならないことを強調されています(参照:マタイ 18:1-4,19:13-14,マルコ 10:13-16、ルカ 18:15-17)。信じて疑わないこと以上に、幼子の特徴的な性質を表わすものはおそらくないでしょう。しかし逆に、それは、最も成熟した神の人であった、アブラハム、モーセ、ダビデ、パウロなどにその完全さに見られる性質です。ですから、このように結論づけることができるでしょう。信頼性を養う度合いが、私たちの霊的成熟度の良いものさしとなります。
さらに、この面において信仰の実は、神の静かで確かな素晴らしさ、知恵、ゆるがない信頼と定義づけることができるでしょう。どのような試練や災難に思えることに出くわしても、この実を養った人は、それらのことすべての中にあっても、落ち着き安らぐでしょう。その人の中には、あらゆる状況、状態に神の完全な支配があり、ご自身の子どもたちの一人一人に神の目的が果たされるという、揺るがない確信があります。
この種の信頼で外に表われるものは、安定性です。それは、詩篇 125:1 でダビデによって美しく描かれています。
「主に信頼する人々はシオンの山のようだ。ゆるぐことなく、とこしえにながらえる。」
地のすべての山は震え、揺り動かされ、さらには完全に消え去るかもしれません。一つを除いては。シオンの山は決して動かされません。神がそれをご自身の住むところとされ、それだけが唯一永遠にとどまります。
それは、信頼することを学んだ信者とともにあります。信者の周りの人々はみな、パニックや混乱に陥るでしょうが、その信者は落ち着き、安全でいるのです。
「主は聖なる山に基を置かれる。」(詩篇 87:1)。
私たちのたましいは、主の御手の中で安全であることを、私たちは確信していなければなりません。この種の信頼のカギとなるのは、献身です。私たちはまず、イエス・キリストに対して明確で個人的な私たちの人生の献身をします。その後、永遠のまさに入り口での試練のときには、私たちはさらなる献身をする必要はないでしょう。私たちはただ、すでに行なったいのちと死、時間と永遠の両方を含んだ献身の中に憩うだけでいいのです。
詩篇37:5でダビデは言っています。
「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」 ここで、2つのことが私たちに求められています。第一には、ゆだねるという行為、もう一つは、信頼するという態度です。献身の行為は、信頼の態度に導きます。私たちが信頼の態度を持ち続けている限り、ダビデは神が成し遂げてくださる、と私たちに保証しています。
主に献身をするということは、銀行に現金を持って行って自分の口座に預金するようなものです。私たちは、いったん証書や通帳を受け取ったら、自分のお金が安全かどうか心配する必要はありません。それは今や、銀行の責任なのです。自分のお金を預けるのに銀行を信頼することに何の問題もない人々が、重要な個人的な問題に関して神を信頼することのほうが難しいと感じるのは、皮肉めいています。
銀行預金の例は、成功する献身のための重要な要素を描いています。私たちが銀行から出るとき、その手には正式な証書や通帳があり、それには日付、場所、預金額が記されています。何一つ不確かなものはありません。私たちは神に献身するそれらのことに関しても、等しく特定的である必要があります。私たちが何をゆだね、どこで献身したかにおいて、疑いの余地なく、知っておく必要があります。また、神が私たちの献身を受け入れてくださったことを認める、聖霊の正式証書が必要です。
信頼は養われるべきである
信頼は、実のあらゆる形に似ています。それは、育てられなければならず、完熟するまでに様々な成長の過程を通らなければなりません。詩篇62篇のダビデのことばは、信頼の発展を見事に描いています。「神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。」(2節)。しかし、その後神への信頼のまったく同じ宣言の中で、ダビデは、「私はゆるがされることはない。」(6節)と言っています。2節と6節の間で、ダビデは「決してゆるがされない。」から、「ゆるがされることはない。」と進歩しています。
私たちも、ダビデのように自分自身に正直になる必要があります。私たちの信頼が成熟する前に、私たちが口にすることのできる最高の言葉は、「私は決してゆるがされない!」です。この段階では、困難や妨害が私たちを揺るがすでしょうが、それらが私たちを打ち倒すことはありません。そして、私たちが信頼を養い続けるなら、「私はゆるがされることはないのだ。」と言うことができる段階まで来ることができます。私たちをゆるがすことも、ましてや打ち倒すことなどできるものは何もない、と。
私たちも、ダビデのように自分自身に正直になる必要があります。私たちの信頼が成熟する前に、私たちが口にすることのできる最高の言葉は、「私は決してゆるがされない!」です。この段階では、困難や妨害が私たちを揺るがすでしょうが、それらが私たちを打ち倒すことはありません。そして、私たちが信頼を養い続けるなら、「私はゆるがされることはないのだ。」と言うことができる段階まで来ることができます。私たちをゆるがすことも、ましてや打ち倒すことなどできるものは何もない、と。
私たちも、ダビデのように自分自身に正直になる必要があります。私たちの信頼が成熟する前に、私たちが口にすることのできる最高の言葉は、「私は決してゆるがされない!」です。この段階では、困難や妨害が私たちを揺るがすでしょうが、それらが私たちを打ち倒すことはありません。そして、私たちが信頼を養い続けるなら、「私はゆるがされることはないのだ。」と言うことができる段階まで来ることができます。私たちをゆるがすことも、ましてや打ち倒すことなどできるものは何もない、と。
完全に成熟した信頼が、IIテモテ 1:12 でパウロのことばによって美しく例示されています。
「そのために、私はこのような苦しみにも会っています。しかし、私はそれを恥とは思っていません。というのは、私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。」
全世界的基準では、この段階でのパウロは失敗者でした。彼に最も影響を受けた友人たちや支援者たちの幾人かは、彼に背を向けてしまいました。彼の近しい同労者の内でルカだけがパウロとともに残りました。デマスはパウロを捨てて、この世に戻って行きました。パウロはからだが弱く、歳をとっており、ローマの牢屋につながれ、残酷で邪悪な君主による不当な裁判と処刑を待っていた囚人でした。それでも、パウロのことばは落ち着き、ゆるがない自信に満ちていました。時間を超えて、彼は、雲一つない日を待ち望んでいたのです。正しいさばきが義の栄冠として彼に与えられる、「かの日」です(IIテモテ 4:8)。
ダビデと同様、パウロにとって信頼は、献身の行為から生まれてきたものでした。それは彼自身のことばで表現されています。「その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださる...」(IIテモテ1:12)。『信頼すること』は、『任せること』の結果です。何年も前に、パウロはキリストに対して撤回することのできない献身をしていました。のちの試練と苦悩は、ローマの地下牢で、その薄暗い地下牢と対照的な輝くゆるがない信頼を、徐々に完全に達するところまで生み出したのでした。
信頼性としての信仰
では、実としての信仰の二つ目の、信頼性という側面に移りましょう。言語学的には、信頼性の本来の意味は pistisです。Arndt and Gingrich 新約聖書ギリシャ語標準辞典では、pistis の第一定義は、『忠実さ、信頼性』となっています。旧約聖書にさかのぼるなら、信仰というヘブル語の emunah がそれに当てはまります。その第一の意味は、『忠実さ』で、第二の意味は『信仰』です。それに由来する動詞はアーメンで、『そうなりますように』や、『確かなものとなりますように』です。
どちらの意味も、神ご自身の人格と性質を合わせたようなものです。私たちが信仰を信頼とみなすなら、その唯一で究極の基盤は神の信頼性です。私たちが信仰を信頼性としてみなすなら、聖霊は私たちの信頼を通してのみ、私たちに神の信頼性を分け与えてくださることができるのです。神ご自身は信仰の初めであり、終わりです。神への信頼性は、私たちの信頼に基づく以外にありません。私たちの神への信頼が、神の信頼性を私たちの内に再現するのです。
おそらく、神の信頼性以上に続けて聖書の中で強調されている神の特性はないでしょう。旧約聖書で、この特性のための特別なヘブル語の単語が一つあります。それは chesed で、徳、親切、慈愛、あわれみなど様々に訳されています。しかしながら、それらの翻訳の一つとしてその意味を完全には表現できていません。
神の chesed には明確な特徴が2つあります。1つ目は、神の無償の不相応の恵みの表現です。それは、人が値する、あるいは権利として要求できるあらゆるものを超えています。2つ目は、神が自ら結んでくださる契約に常に基づいています。chesed は私たちが受けるに値する、あるいは要求できるすべてのものを超えた、ご自身の契約義務を果たす神の信頼性であるということによって、私たちはこれらの2つの特徴を組み合わせることができるでしょう。
このように、私たちは、3つの重要なヘブル語の概念の緊密なつながりがわかります。emunah は信仰、忠実さ、chesed は、神の信頼性、berith は契約です。これは、詩篇で繰り返し出てくるテーマです。
わたしの真実【emunah】とわたしの恵み【chesed】とは彼とともにあり・・・わたしの恵み【chesed】を彼のために永遠に保とう。わたしの契約【berith】は彼に対して真実【amen】である。しかし、わたしは恵み【chesed】を彼からもぎ取らず、わたしの実【emunah】を偽らない。わたしは、わたしの契約【berith】を破らない。くちびるから出たことを、わたしは変えない。 (詩篇 89:24、28、33-34)
最後の節は、神の信頼性と神の口から出ることばとの特別な関係を明らかにしています。神が決してなされないことが2つあります。ご自身の契約を破らないこと、ご自身が言われたことを変えないことです。聖霊によって分け与えられる神の信頼性は、私たちの内に同じ性質を再現します。それは、私たちを変わることのない誠実さと正直さをもった人としてくれます。
私たちは、神の恵みに基づいた神の契約履行に表わされている神の信頼性をすでに見てきました。それは、私たちが受けるに値する、あるいは要求できるすべてのものを超えた契約の信頼性です。これはまた、私たちの仲間の信者との契約関係にも反映します。私たちは単なる正当性の要求や契約の法的形式で自分たちを限定するのではありません。それは、神が私たちと結んでくださった、自分のいのちを投げ出すという契約を、私たちの間で互いに完全にゆだねる備えができるようにさせます。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」(IIヨハネ 3:16)。私たちがいのちを投げ出すことによって、神と互いの完全な契約関係の中に入るのです。
聖書は、世の終わりのモラルと倫理基準の崩壊の恐ろしい様子を描いています(参照:IIテモテ 3:1-4)。このように、世が暗闇の中へ深く落ちていくとき、対照的に神の民はこれまで以上に交わりの光の中を歩む決意をしなければなりません。私たちは、それらの契約関係信頼の交わりの契約関係の中に喜んで入り、保つことを示さなければなりません。この目的のために、私たちは信頼性という実みを完全に成熟させることに努める必要があります。
まとめ
霊的な実は、主に2つの形で霊的賜物とは異なります。一つ目は、霊的賜物はひとつの、単純な作用で分け与えられ、受け取ることができ、霊的な実は時間、技能、働きが求められる継続する過程によって養われなければなりません。二つ目は、賜物はそれを用いる人の性質に直接関係していませんが、実は性質を表わします。理想的には、実と賜物は神をあがめ、人に仕えるという組み合わせにおいて、互いにバランスを保つべきです。
実のかたちとして、信仰は信頼と信頼性という2つの明確な区別がなされるでしょう。信頼は、成熟するにつれて安定性に現われてきます。信頼は献身の最初の行為に求められます。私たちは神の信頼に値するお方というところに信頼の基礎を置きます。神は、私たちがふさわしいとか、私たちが要求できることのすべてを超えて、ご自身の契約義務を果たすことによって私たちに対して信頼性を示されます。同様に、それは神と私たち信者の互いの契約関係の中に入り、それを保つことを喜んで行なう者としてくださいます。
コード: TL-L060-100-JPN