多くのクリスチャンは、人生の中に、達成、満足感、平安、癒し、増え続ける神の祝福を経験することを妨げる障壁を持っています。カルバリ以降、神と人間の間に何らかの障壁があるとしたら、それは神の側にではなく、人間の側にあるのです。イエスの死と復活で、全ての障壁は神に下りました。ですから、もしなにか霊的な障壁があなたの霊的発展を妨げているとしたら、あなたを引き留め、苛立たせ、抑えている何か - あなたが持つべきで持ちたいと願う喜び、平和、満足感、もしくは達成感からあなたが妨げられているのなら、その障壁は神の側にではなく、あなたの側にあるのです。私の個人的な経験では、平和とまったき休息を満たすための最大の障壁は、赦さないことです。

マタイ 18:18-19 に、私が「教会の原動力」- 全ての力と全ての権威の場所と呼ぶものがあります。

「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」

私は、これは細胞レベルの教会だと信じます。2人、3人の信者がイエスの御名により、聖霊によってともに導かれるのです。集会のポイントは、イエスの御名、そして彼らを一致させるのは聖霊であることです。これが、教会が形成される細胞の命です。

肉体的な生活では、もし細胞の活性が壊れてしまったのなら、からだは不健康になるというのが原則です。そして同じことが、イエス・キリストのからだなる教会でも真理であると信じます。もし、局部の細胞活性が壊れてしまったら、からだ全体は健康ではいられません。

この細胞活性の中に、全ての教会生活の根源と全ての力の中心と源があります。そこに約束されている力以上のものを必要とする人は一人もいません:「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」それ以上に私たちに必要なものはあるでしょうか。全ての力は、その節を適用することに含まれています。


私が言いたいことは、この約束の力は柵に囲まれ、守られており、あなたが条件を満たさない限り、得ることができません。私はこの柵を、「正しい関係」と呼んでいます。神と人間との正しい関係に生きていない人は誰も、その柵の内側に属さないのです。同じ章の15-17節で、イエスはこの約束を与える直前、あなたの兄弟があなたに不快感を与えたとき何をすべきかを話しています。

「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」

18-20節の約束の直後に、イエスは赦さないしもべのたとえ話をされ、私たちが他の信者を赦すことに失敗したときの恐ろしい結果を警告しています(23-35節を読んでください)。これらの節の配置から、力の奥義のある場所は正しい関係で取り囲まれていることがわかります。

赦さないしもべ

この重要なたとえ話を注意深く見てみましょう。

たとえ話の最初のしもべは 1万タラント、もしくは現在の比率では、約600万ドルを主人に借りていました。彼は支払うことができなかったので、牢屋に入れられるところでした。彼は全ての借金を快く赦す主人のあわれみを懇願しました。しかし、彼は出て行くと、自分に 17ドル(同じ比率を使用)借りているしもべの仲間を見つけました。

「払え。」と彼は要求しました。
「できません。」とそのしもべ仲間は答えました。
「では、お前を牢屋に入れる。」
「待ってください。17ドルを何とかして支払います。」
「だめだ。もし今払えないなら、牢屋に入れる。」

当然ながら、他のしもべたちは非常に驚き、彼らの主人に報告し、「あなたが600万ドル赦したあのしもべをご存じですか。彼はあなたのところから出てくるとすぐ、彼に17ドル借りていて払えない仲間のしもべに会い、そのしもべを牢屋に入れたのです。」

聖書は、そのしもべの主人は非常に怒ったと書いています。そのしもべを呼び、何があったのか尋ねたあと、主人は言いました。「悪い奴だ」(32節)。それから命令を与え、「借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した」(34節)。最後の節では、こう言っています。「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです」(35節)。この話の最後の節は、イエスさまがクリスチャンと公言している人々のことに言及していることがわかります。

二つの明らかな事実について言わせてください。まず初めに、他の人を赦さないことは不正です。主は言われました。「悪いやつだ。」赦さないことは、ただ罪であるだけではなく、それは不正なのです。第二に、赦さないしもべは獄吏に引き渡されました。そして主は言われました。「天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」クリスチャンが、もし心からあなたの兄弟の罪(いかなる危害、損傷、借金)を赦さないのなら、主イエスは、神は主人がその赦さないしもべを取り扱った同じ方法であなたを取り扱う、獄吏に引き渡す、と言われました。

私自身の特定のミニストリーの過程の中で、多くのクリスチャンと公言している人々が獄吏に引き渡されている、つまり霊的、精神的、もしくは身体的な獄吏にいることに気づき、このたとえ話の理解にたどり着きました。そしてこう思いました。神さま、どうしてこのようになっているのでしょうか。この人たちは救いを公言し、イエス・キリストを主と認め、イエスの御名を呼ぶ人々です。それでも、彼らは獄吏に引き渡されているのです。彼らは悪霊の手の中にあり、平安や喜びがなく、恐れを抱き、心には休息がなく、彼らは解放のために私のところに来るのです。彼らは教会の外の人々ではなく、教会の内にいる人たちなのです。

主は私に言われました。「わたしが彼らを獄吏に引き渡したので、彼らは獄吏の中にいるのです。」もし、神がだれかを獄吏の手に引き渡したとするなら、この地上にはその人を取り戻せる被造物はないでしょう。一つもないのです。多くの説教者が試み、また多くの人々が説教者に試みさせていますが、それが起こることはありません。もし神があなたを獄吏に引き渡したのなら、神がそこから出すための条件にあなたが見合うまで、あなたはそこにいることになります。一時的な安堵感は得られるかもしれませんが、それだけです。あなたが今までに怒りや赦さない心を持った相手すべてに対して、快く赦さない限り、あなたは本当の平安、解放、もしくは自由を得ることはできません。これが神の変わらない条件です。他に方法はありません。

祈りと赦し

主の祈りは、すべてのクリスチャンにとっての模範です。イエスは、弟子たちが祈り方をイエスに尋ねたときに言われました。「だから、こう祈りなさい」(マタイ6:9)。これは模範で、まったく同じことばを使う必要はありませんが、原則は変わりません。

イエスは、私たちに「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」(12 節)と祈るように言われています。それを変えることはできません。あなたには、あなたが他の人を赦す同じ分だけ、神からの赦しを求める権利が与えられています。あなたが他の人を赦さないのなら、神があなたを赦すことはありません。

これは、イエスがさらに説明する必要があると感じた、主の祈りの一部分だけです。「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません」(マタイ 6:14-15)。 私はこのことをできるだけ明らかに強調して言いたいと思います。もしあなたが誰かをまだ赦していないのなら-自分を欺かないでください-あなたは神から赦されていないのです。それが、あなたの全ての問題の源です。あなたは完全な赦しを得ていないのです。

マルコ11章で、イエスは次の偉大なことばを語っています:「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります」(23 節)。それよりも偉大な力はありません。これが私たちに必要な全ての力なのです。加えて、イエスは言われました「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」(24 節)。あなたは「素晴らしい」と言うでしょう。

あなたは「素晴らしい」と言うでしょう。でもちょっと待ってください。次の節では、「また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」(25-26 節)と書かれています。これはまったく明確です。もしあなたがだれかに対して何か恨み事があったら、赦すのです。「だれかに対して恨み事があったら」には、何事をも、そしてだれをも除外できないのです。

あなたは「素晴らしい」と言うでしょう。でもちょっと待ってください。次の節では、「また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」(25-26 節)と書かれています。これはまったく明確です。もしあなたがだれかに対して何か恨み事があったら、赦すのです。「だれかに対して恨み事があったら」には、何事をも、そしてだれをも除外できないのです。

主の祈りの最後の願いは、解放への願いです。最も正確な翻訳は、「悪から私たちを救ってください」(マタイ 6:13)です。しかし、「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」と祈るまでは、それを祈る権利はないのです。いったん赦しの問題が解決されたなら、解放は問題ありません。だから覚えていてください。もし、あなたがすべての人に対して赦しの霊の中にいないのなら、悪魔はあなたの人生に正当な主張をすることができるのです。

感情 対 意志

ある人は、「プリンス先生、私は赦せると思いません。」と言うかもしれません。あなたに良い知らせがありますー そのように思う必要はありません。ただ決断しなければなりません。それは感情の問題ではなく、あなたの意志です。現代の多くの説教は、人の感情に向けられているので、完全に間違って教えられており、そのため、それが生み出すものはすべて感情です。しかし、人生を変えるために神に用いられた説教者はすべて、人々の意志に向けて説教をしました。フィニーは言いました。「私は意志以外には興味はない。」と。ですから、赦しを感じる必要はありません。赦しの決断をしなければなりません。もしあなたが生まれ変わった神の子どもであるなら、それをする力があなたの内側にあります。

イエスは弟子たちに息を吹きかけて、言われました。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります」(ヨハネ 20:23)。そしてもし、あなたが人の罪を持ち続けているなら、その人とひもでつながれており、あなたは自分の罪を持ったままでいるのです。あなたは 20 年前に夫と離婚したかもしれません。しかし、あなたが彼を赦していないのなら、あなたはまだ彼とつながれているのです。

私は以前、ある小さな集会で最もおかしな出来事がありました。一人の女性が私のところにきて言いました。「プリンス先生、私のために祈ってください。私は全員がビールを飲む地域に住んでいるのです。私たちは、近所の中でビールを飲まない唯一の家族なんです。その地域を出たいのです。」

彼女が発した全ての文章にはビールという言葉が含まれていました。しばらくして、私は彼女に言いました。「姉妹よ、あなたは逆にアルコール依存症であると気づいていますか。あなたはビールを飲む奴隷となっている人と同じように、ビールとただ仲良くなっているのです。もし、あなたが違う地域に引っ越ししたとしても、良くなるとは思いません。なぜなら、問題は人にあるではなく、あなたにあるからです。」

それから、私は彼女に彼女の夫について尋ねました。「ご主人のことを赦しましたか。」
「はい。」と彼女は答えました。「夫はビールを飲んでいましたが、今は救われました。そして私は彼を赦しました。」
「それは素晴らしいですね。」と私は答え、「まだ赦せていない人はいますか。」と聞きました。
「私はバーテンダーを赦すことができません。」
私は言いました。「えっ。それは良くないですね。もしあなたがそのバーテンダーを赦すことができないのなら、神もあなたを赦せないのですよ。」

そして私は彼女を座らせ、そのバーテンダーを赦せるかどうかの決断をするようにいいました。15分位で、彼女は戻ってきて言いました。「私、決めました。」
「どうするつもりですか?」
「彼を赦します。」

そして、彼女を祈りで導き、「主よ、私があなたに赦していただきたいように、私はそのバーテンダーを赦します。」彼女はそれを祈ったあと、彼女の重荷が引き上げられました。深いため息が彼女から出て、すすり泣き始めました。結び目は解かれ、10 分後、彼女はそこにいた全員と抱き合い、その場所から出て行きました。なんと典型的でしょう。一人のバーテンダーがあなたのすべてを崩壊させているとはどのようであるかを考えてみて下さい。しかし、これが多くの信者にとって典型なのです。

赦しはシンプルです。それは意志の行動と口に出すことです。あなたが決断するのです。あなたが言うのです。それだけです。その人の名前を言ってください。「主よ、私は夫を赦します。私は義理の息子を赦します。」具体的に。「私があなたに赦していただきたいように、主よ、私は彼らを赦します。」それを言って、終わりです。もとに戻って、やり直さないでください。もし、その誘惑がきたら、言って下さい。「主よ、金曜日に彼女を赦しました。」それはすでに解決されています。

もし、あなたがまだ怒りを感じているのなら、それに関係している人のため祈り始めて下さい。あなたはだれかに怒りながら、同時に彼らのために祈ることはできません。祈りによって、否定的な思いを前向きな思いに置き換えます。

もし、あなたが赦されるのなら、神はあなたに他の人々を赦すことを求めておられますあなたの祈りに答えてほしいのなら、赦さなければなりません。クリスチャンとして持つべきである喜び、平安、そして達成感を体験したいのなら、赦しがあなたの人生において働かなければなりません。選択は、あなた次第です。あなたが赦さない選択をし、あなた自身の人生を台無しにすることもできますし、あなたの意志の行動により、赦し、解放されるという決断をすることもできるのです。

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