例えば、東京のような大きな都市を考えてみるとき、東京には様々な教会があると私たちは言います。しかし、神は、 教会はたった一つであるという見方をしていると私は信じます。そういう意味において、黙示録はイエスが教会を花 嫁とすると言っているのであり、イエスは重婚者ではないと思います。イエスは一つの教会とだけ結婚するのです。で すから、私たちは多くの異なる教会について考えますが、神は一つの教会として見ておられるということです。パウロ が手紙を書いたとき、コリントのバプテスト派や、ローマのオープンバイブル教団、あるいはエペソの福音派などの教 会に宛てて書いたのではありません。パウロは常に、その町の教会全体に宛てて書きました。今日、私たちの考え方 はそれには程遠いですが、私は神が考えを変えたとは思いません。

ですから、町や地域にある教会のリーダーたちのつながりがどのようであるかは重要であると思います。「私の教会」という自己中心的な考えになって、それだけにフォーカスしがちです。しかし、それは聖書の考え方ではありません。私たちは互いを同じ教会の兄弟姉妹としてみなすべきです。クリスチャンの性質で最も重要な要素の一つは、私たち一人ひとりの人生に十字架がどんな立場を果たしているかを自分自身に問うことによって明らかにされます。ガラテヤ2:20でパウロはその基準を定めました。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」

私は、これが、自分に当てはまるかを考えてみました。なぜなら、それが唯一の守りだからです。ガラテヤ5:24でパウロは続けています。

「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」

真にキリストに属している人々の記述があります。それは、メソジスト派教会に属しているとか、バプテスト派教会や長老派、カトリック教会に属していると言っているのではありません。真にキリストに属している人々の唯一のしるしは、その人たちが自分の肉を十字架につけていることです。

ローマ6:6でパウロは、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた…」と言っています。それは、神がなしてくださったことです。しかし、パウロはガラテヤ5:24で、それは私たちがしなければならないと言っています。あなたは自分の肉の性質をくぎ付けにしなければなりません。そして、十字架は常に痛みを伴います。痛みのない十字架はありません。

神の基準

その性質が十字架を通してのみ来るという事実を立証するために、神が期待しておられる性質を見てみましょう。詩篇15篇にあります。

「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。正しく歩み、義を行い、心の中の真実を語る人。その人は、舌をもってそしらず、友人に悪を行わず、隣人への非難を口にしない。神に捨てられた人を、その目はさげすみ、主を恐れる者を尊ぶ。損になっても、立てた誓いは変えない。金を貸しても利息を取らず、罪を犯さない人にそむいて、わいろを取らない。このように行う人は、決してゆるがされない。」

最初の節は質問になっており、残りの部分はその答えです。ダビデは、神の聖なる山に住む人々の特徴を上げています。私たちが神の聖なる山に行こうとするなら、それらの性質が必要となります。それらの特徴を見ていきましょう。それらは、恵みによって生み出されることを忘れないでください。

正しく歩む人。その人の行動は神の目に正しいのです。
義を行なう人。その人は、ただ語るだけでなく、実行する人です。その人は「心の中の真実を語」ります。その人の口から出ることばは、その人の心の中にあることです。
口から出すことばと、心の中にあるものは同じものです。舌をもってそしらない人。その人は、陰口を言いません。多くのクリスチャンの働き人が、陰口による傷を負っていると言われてきました。
友人に悪を行なわない人。その人は、親切で公平です。
隣人への非難を口にしない人。もし、あなたがその人の所へ行って、その人の友人の悪口を言っても、その人はあなたの言うことに耳を傾けません。彼はその問題を取り上げないでしょう。これは、クリスチャンの道徳で最も重要な点の一つです。
神に捨てられた人を、その目がさげすむ人。その人は神にそむく人に同意しません。相手が政治的、あるいは教会の中で非常に地位の高い人物であっても、神にそむいているなら、神と同様の目を持ってその人を判断します。
主を恐れる者を尊ぶ人。その人は、神の子どもとされている人々すべてに敬意を表します。たとえ、その人々がとるに足らないように見える人々であっても、敬意をもって接します。
損になっても、立てた誓いを変えない人。その人は誓いを立てたなら、たとえ自分の不利になることが分かっていても、それを変えません。
金を貸しても利息を取らない人。その人は、お金を貸した人からの利息を請求しません。
罪を犯さない人にそむいて、わいろを取らない人。わいろを受け取って、罪のない人を陥れようとしたりしない人。

そして最後に、「このように行う人は、決してゆるがされない。」と言っています。そのような人は、揺るがされることがありません。すべての教会のリーダーたちがそのようであるなら、教会には問題はないでしょう。私は、これはクリスチャンの道徳であると信じます。もし、私たちがこれらの10個のポイントを実行するなら、教会内の道徳上の危機を根絶することができるでしょう。

コロサイ3:3-5を読んで、さらに深く見ていきましょう。

「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」

キリストは、私たちのいのちです。それは、滅ぼされることのないいのちです。消滅させられることがありません。それは、敗北しえないいのちで、永遠に続くいのちです。そして、パウロはこう付け加えています。「地上のからだの諸部分・・・を殺してしまいなさい。」言い換えれば、あなたはそれらを死につけ続けなければならないということです。それは一度きりの経験ではなく、継続する訓練の人生です。

「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」

このピリピ 2:1-4 でパウロは、私たちがキリストのからだで一致を保っているかどうかについて、私たちの態度を説明しています。パウロは様々な言葉を用いていますが、すべてをカバーする一語があります。それはへりくだりです。これが一致のカギです。箴言 13:10 はこう言っています。「高ぶりは、ただ争いを生じ...」。ですから、高ぶりの反対、すなわち謙遜が争いの解決であることは、論理的です。

聖書には、神が私たちをへりくだらせると、どこにも書いていません。聖書は常に、私たち自身がへりくだるようにと教えています。へりくだりは、神が私たちのためにすることではなく、私たち自身がしなければならないことです。

パウロはまた、何事も自己中心によって行なってはいけないと言っています。私の見解では、自己中心は教会で最も大きな問題の一つであると思います。

私には、アメリカで宗教雑誌の編集者をしている友人がいます。何年か前、私は彼にこう言いました。「あなたの雑誌に載っている記事の多くは素晴らしい。しかし、広告を読むと、私はシャワーを浴びなければならないと感じるんだ。なぜなら、それらはみな自己アピールだからだ。」

それは個人的なもの

キリスト教とは、第一に正しい関係についてであり、正しい教理についてではありません。福音は規則のかたまりではありません。また、神についての声明ではありません。福音は神についてすべてのことを知ることでやって来るものではありません。福音の目的は、神との正しい関係です。神との正しい関係を生み出さない福音のメッセージは、悲劇的です。

また、マタイ18:15-17では、イエスが他の人との正しい関係を保ち方について語っています。

「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」

このように、三段階あります。一人でその兄弟のところへ行ってください。もし、あなただけで解決できたら、それ以上のことをする必要はありません。しかし、それで解決しない場合、2、3人の信頼できる証人を連れて行くことで、その兄弟の言うことを記録できます。それでも解決しないときは、教会全体の前にその問題を持って行きます。そして、教会が言う通りにその問題を取り扱わなければなりません。もし、教会の言うことさえ聞かないのなら、その兄弟を仲間の信者として扱ってはいけません。彼は信者と呼ばれる資格を失ったのです。

それは、教会を非常に重要なものとすることです。私はしばしば、教会がそのように行なう権利はどこにあるのかと考えます。イエスは、19、20節でこう続けています。

「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

ギリシャ語では、「同意する」は、音楽用語です。それは私たちが言う「交響曲」という言葉です。それは協調についてのことです。そして、イエスは言っています。「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」私は音楽家ではありませんが、ほぼ和音であるというのは非常に耳障りであると知っています。私は、ほぼ仲がいい多くのクリスチャンの関係を多く見てきました。

神は天で耳をふさがれるのではないかと私は思います。18節を飛ばしましたが、それを見てみましょう。

Assuredly, I say to you, whatever you bind on earth will be bound in heaven, and whatever you loose on earth will be loosed in heaven.

何という大きな権威でしょう。ある意味、天の権威は信者としての私たちにゆだねられているのです。しかし、注意してください。それを行なうのは私たちなのです。クリスチャンは何かをつなぎ、解くために神に祈るとしばしば耳にします。しかし、それは聖書の言っていることではありません。神が言っているのは、「あなたが、私の名前によってそれをつなぐ。」です。それを行なう信仰と勇気を持つことは、私たちにかかっているのです。そして、私たちが地上でそれをつなぐなら、それはすでに天でつながれています。

私は長年にわたって、自分の安全を成功により頼んでいるために、不安でいっぱいのクリスチャン奉仕者を多く見てきました。私はまったく異なる人生観を持っています。私にとって、成功とは、父なる神を喜ばせることです。そして、安全とは、私が父なる神に愛されているということを知っていることです。それこそが、福音が生み出そうと意図しているものであると私は信じます。もし、一つの町のすべての牧師が、父なる神を喜ばせることを第一の動機としているなら、対立はなくなるでしょう。競争もなくなるでしょう。

私はそれが、神が私たちに願っている生き方であると信じます。それはクリスチャン道徳の問題に対する答えであると思います。もし、私たちが父なる神と正しい関係を持つならば、他のすべての関係もうまくいくでしょう。

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