礼拝の自由 第一部

Derek Prince
*First Published: 1995
*Last Updated: 2025年12月
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「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」(ヨハネ 4:23)
素晴らしいと思いませんか。宇宙全体をみこころのままに治める源である全能の神が、ご自身を礼拝する人々-その人々とは、罪人の落ちぶれた集団から引き出された、あなたや私のような者です-を求めておられるのです。どうしてでしょうか。神は、何か確かな証言や支持を必要としていたからなのでしょうか。とんでもありません。
そうではなく、父の心は、ご自身のすべての栄光によって、お創りになった者たちにご自身を啓示することを切望しているのです。これは、神が与えてくださる最高の祝福です。
In this new series of two teaching letters, Free to Worship, we are going to explore firstly, the uninhibited nature of worship that God longs for from His people. In the second letter, we will confront the reality of the sacrificial nature of true worship.
神の啓示は、何よりもまず、ご自身の大切なことばである聖書を通して現されます。「だれでも、わたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、私の父は、その人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(ヨハネ 14:23)。神のことばを受け入れ、従うことを通して、父なる神と神の御子が私たちの内に住んでくださいます。
このことは、私たちが受け入れた方である神への礼拝へと私たちを引き寄せます。みことばを通して私たちはより神を知り、さらに神を礼拝したいと願うようになります。私たちの神を礼拝したいという思いの程度によって、みことばがどれほど私たちの生活の中に入っているかを測ることができるかもしれません。
最初に、礼拝とは、聖歌やコーラスを歌うこと、あるいはクワイヤーの歌を聞くこと、さらには祈りによって成り立っているものではないということを認識しなければなりません。これらすべては正しい活動ではあるのですが、これらは私たちを礼拝の中へ導くものであるべきです。
さらに重要なことは、礼拝は霊的なパフォーマンスではないということです。礼拝では、自分自身や自分の経験にではなく、神にフォーカスします。礼拝は直接的なもので、私たちの創り主との親しい個人的な交わりです。それは、人間の霊が出来うる最高の活動です。しかし、霊性を越えた、人間としての存在のすべてを含むところまで達します。
もう一つの誤りは、礼拝が集まりや公けの場でだけなされるものだという考えです。礼拝は、私たちの個人的ディボーションの最高潮のかたちであるべきです。事実、「ディボーション」という言葉の本来の意味は、礼拝行為です。もし私たちが公けの場や集まりの中でだけ神を礼拝するなら、それは常に見せかけのものとなってしまうでしょう。他の人のいる前で行なう単に宗教的な「行為」に過ぎないものとなってしまいます。
一方で、一致した会衆の礼拝は、個人的なディボーションで得られる以上の神と神の権威への意識をさらに高みへとさらに深みの中へと導くことができます。
残念ながら、何世紀もの間、クリスチャンの礼拝の概念は聖書にある型からかなり低いものへとなってしまいました。私は聖書で礼拝のために使われている主なことばをすべて調べ、興奮すべき革命的な結果に到達しました。旧約、新約の両方で礼拝のために使われている言葉のすべてが、からだの姿勢を描写していたのです。実例として、私たちは頭から始まり、下に向かっていくというものです。
一つの主な行動は頭を垂れることです。アブラハムのしもべが主人の息子のための花嫁を探していたとき、神がアブラハムの兄弟の家族へと導いていることに気づき、「そこでその人は、頭を下げひざまずき、主を礼拝して」(創世記 24:26:口語訳)。
さらに、モーセとアロンがエジプトで主が彼らを奴隷の身から解放すると約束されたことをイスラエルの長老たちに報告した時の長老たちの反応も同様でした。「彼らは伏して礼拝した」(出エジプト4:31:口語訳)。
私たちの手もまた、礼拝において重要な役割があります。神のあわれみ深い愛へのダビデの応答が詩篇 63:4に描写されています。
それゆえ私は生きているかぎり、あなたをほめたたえ、
あなたの御名により、両手を上げて祈ります。
詩篇 141:2でダビデは、似たような礼拝の行為を描写しています。
私の祈りが、御前への香として、
私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上がりますように。
詩篇 143:6では、神を慕う表現として違った手の位置で描写しています。
あなたに向かって私は手を差し伸べ、
私のたましいは、かわききった地のように、あなたを慕います。
手を上げることは、神の威厳を認める行為です。手を差し伸べることは、神から受け取りたいという願いを表わすものです。
おそらく、祈りを描写している絵画で最も知られているのは、アルブレヒト・デューラーの祈りの手でしょう。これは、礼拝というより懇願の絵です。しかし、デュラーが祈りを唇や顔ではなく、手にフォーカスしているということは意義深いです。
手を使った礼拝のもう一つの方法が詩篇 47:1-2 に描写されています。
すべての国々の民よ。手をたたけ。
このように手をたたくことによって私たちは偉大なる私たちの王の素晴らしい権威を認めます。勝利の叫びに加わることによって、私たちは主の完全な勝利を宣言します。私は、何かが語られたりなされた時に、拍手の嵐が沸き起こり、時には叫びが起こるという集会の場にいたことがあります。おそらく、このように応答する人は、それが礼拝の聖書的行為であることに気づいていなかったでしょう。
叫びについて付け加えておきます。これは、大声で歌うことではありません。叫びです。私たちの肺を最大限に活用しています。
ソロモンが宮を奉献したとき、主の祭壇の前で手を差し伸べました。しかし、ソロモンはさらに、ひざまずいたのです(II歴代誌 6:12-13)。この礼拝のかたちは、主への全き服従ということの象徴です。
エペソ 3:14-15で、パウロもこの姿勢で神に祈ったことを示しています。「こういうわけで、私はひざをかがめて。」
最終的に、全宇宙は創造主への従順のこの行動をするようになります。イザヤ 45:23で主は宣言しています。「わたしは自分にかけて誓った・・・すべてのひざはわたしに向かってかがみ・・・」。ピリピ 2:10でパウロは、この従順の行為は、特に神が定めた統治者であるイエスに向かってなされると言っています。「イエスの御名によって・・・すべてがひざをかがめ・・・」。
さらにからだ全体を含んだ礼拝の行為があり、それは聖書の中で他の何よりも多く描写されています。神の前にひれ伏すことです。私たちはひれ伏すとき、神に完全にゆだねているということを認めているのです。私たちはこのようにすることにより、アダムとエバの最初の不従順を引き起こした、また彼らの子孫であるすべての者の堕落した性質である、神に頼らないでいたいという願望を破棄するのです。
聖書の中のほとんどの偉大な人々は、ある時には、神の前にひれ伏したことが見られます。創世記 17章には、アブラハムが主の前にひれ伏したことが 2回記録されています(3、17 節)。
神の軍の将として主がヨシュアにエリコの外で現れたとき、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝みました。主の軍の将はさらに、足のはきものを脱ぐように言いました(ヨシュア 5:13-15)。顔を地につけることと、はきものを脱ぐというどちらの行為も礼拝を表わしています。それは、エリコを勝ち取るための主からの示しであるとヨシュアが受け取った礼拝の姿勢でした。
しかしながら、現在の基準からすると、かなり変わった礼拝の行為がIIサムエル 6:12-14 で描写されています。ダビデは神の箱をエルサレムに運んでくることに成功し、主の前で力の限り踊ったのです。ダビデは力強い勇士であったので、この「力の限り」というフレーズは、全身を使った極めてエネルギッシュな行動であったに違いありません。それは、あふれるばかりの喜びと感謝に最もふさわしい表現でした。
その章は、そのような激しい礼拝の表現に対して否定的な反応をする人への警告の言葉で締めくくられています。ダビデの妻ミカルは、そのようなことをしたダビデを非難し、その結果として子を身ごもる特権を失ってしまいました。自分の肉に基づいた批判の態度は、霊的不毛という結果を招くことがあります。
先に述べたように、歌うこと自体は礼拝の行為ではありませんが、明確にしておかなければならないことがあります。時には、歌うことで気づかないうちに礼拝の中へ導かれることがあります。また、手をたたくことや踊りは、礼拝と同様に賛美の表現となることがよくあります。人間の言葉は、様々なかたちの礼拝と賛美の間の正確な境界線を引けるほど十分な繊細さを持ってはいません。
なぜ、からだなのでしょうか?
このような質問があるでしょう。なぜ、からだが礼拝の中でそれほど重要な役割をするのか。イエスは、霊とまことによって礼拝しなければならない(ヨハネ 4:24)と言ったのではないかと。その答えは、人間の性質を構成している霊、たましい、からだの 3つの要素の関係を理解することにかかっています。(参考I;テサロニケ 5:23)
霊は、私たちの存在の一部で、神と直接つながることができます(Iコリント 6:17)。しかし、それ自体を表現するためにはたましいの協力が必要です。たましいは、意志に働きかけてその人全体に決断をさせる部分です。たましいは、次にからだを動かします。
これは、詩篇 103:1 のダビデのことばに描かれています。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。」ダビデの霊は主をたたえるためにかき立てられており、彼のたましいはそれにふさわしい決断を促しました。次にからだに行動を起こさせます。最初に、彼の霊がささげたいと願う祝福の表現のために声帯を動かします。
この理解から、礼拝は霊がたましいを通して働き、からだにふさわしい行動を生み出すことになります。もし、たましいとからだが霊の促しに応答しないなら、霊は抑圧され、そのことを表現できないため、からだという牢獄につながれてしまいます。現在、多くの教会がこのような状態にあります。自由に彼ら自身を表現できずに、霊がからだの中に閉じ込められているのです。教会の身体的活動はいくつかの型にはまった動きに限定されています。教会に入り、着席し、起立し、また着し、起立し、退出します。その結果、創造主を自由に礼拝するという、彼らの霊に秘められた能力の最高の活動に関わることがほとんどないのです。
しかし、逆の誤りもあります。たましいとからだが霊に促されることなく、あるいは霊に関係なく礼拝の行動をしてしまうことです。その結果は、真の礼拝ではなく、単なる宗教的活動です。礼拝の聖書的なかたちは、霊の率先による霊、たましい、からだの3つの部分の調和した相互作用が求められます。この私たちの全機能の調和は、真の自由を作り出します。
カチカチの霊
最近、私はこのような状況の「例話」として用いられるような体験をしました。私は、祈りの中で神を待ち望んでいるクリスチャンのグループと一緒にいました。突然、私の意志による行動からではなく、私の両手が高く上がり、からだはしばらくの間激しくけいれんしました。私は周りの人たちがどう思ったかと恥ずかしくなりました。そして自問自答しました。「人が何と思うか、それとも神が私に願っておられることをすることのどちらが大切か。」そして、私は神がなされることを無条件に認めることに決めました。実際、ほとんどの人は私に起こっていることに気づくことなく、神に集中していました。
激しいけいれんは、数分間続き、その後落ち着いて、私のからだはほぐされました。神は私に「カチカチの」霊(今まで聞いたこともないですが)から解放してくださったことを示してくださったのです。神はまた、その霊がいつどのように私に忍び寄ってきたかについて示してくれました。私は医療設備がかなり原始的だった 1915年にインドで生まれました。地元の医者は私の両足が同じ長さではないとすぐに気づきました。彼は片方の足に添え木をして数か月間私を仰向けで寝かせるように勧めました。それ以来、私はいくつかの動作ができなくなっていました。しかし、あの解放以来、私は新しい自由な動作を経験し始めたのです
私は多くの身体的、霊的祝福を楽しんできてはいましたが、79年間、このカチカチの霊によって完全な自由は邪魔されていたことが、実に残念でなりません。
何世紀もの間、クリスチャン教会にも類似したことが起こってきたのではないかと私は思います。多くの教会は、神が願っておられる、ご自身の民が神を礼拝する喜びという自由で快活な体験をクリスチャンにさせないように「カチカチ」の霊に潜入されてきたと。その結果、私たちの礼拝の形式は聖書にあるような非常に豊富なかたちからかけ離れていることが多いのです。
では、どうすればいいでしょうか。まず、私たちは聖書のかたちに立ち返り、神を礼拝する適切な行動の範囲をすべて理解しなければなりません。それから、私たちのたましいが霊の促しに応答するように、そしてあらゆる適切な動作にからだを解放するように訓練しなければなりません。多くの場合、これには何らかの霊的解放が必要になってくるかもしれません。
これらのことばがあなたに当てはまるならば、あなたは、私が陥ろうとしていた間違いをしないでください。恥ずかしさや周囲の目を気にして、神があなたのために用意しておられるところへと行かせないようにさせないでください。
コード: TL-L006-100-JPN