教会の勝利

デレク・プリンス
*First Published: 1989
*Last Updated: 2026年3月
41 min read
Transcript
今日は、「私たちが直面する敵」というテーマの 4 回目、最後の学びです。「私たち」とは、神の民であり、イエス・キリストの教会のことです。ここまで、今日の教会が直面している 2 つの主な敵について学びました。1 つ目は、「魔術」、2 つ目は「反キリストの霊、あるいは力」です。
魔術とは、堕落した人類の普遍的な宗教であり、あらゆる時代の人々が空中のサタンの反逆的な使いの王国との接触を試み、何らかの方法によってサタンを神々として崇拝する手段であると定義しました。反キリストは、イエスの福音がすでに伝えられた場合だけに関連するもので、魔術とは異なる種類の霊的な力です。反キリストの「反」には、2 つの意味があります。第一に、「~に反する」、第二に、「~の代わりに」です。反キリストの霊の圧力は、真のメシアであるイエス・キリストを排除し、代わりに偽のメシアを置こうとします。その霊的な力は、今日の教会で非常に活発に働いていることがわかりました。また、反キリストの霊、反キリスト者、獣の最終的な現れがどのようになるかについて、私が信じているイメージをお話ししました。
では、ネガティブなことからポジティブなことに移りましょう。この学びでは、「教会の勝利」を取り上げます。私たちが直面するおもな敵を簡単に定義したのは、私たちがどのように神に従い、神が備えてくださった手段によってそれらの敵に打ち勝つことができるかを示したかったからです。最初に、次のことを理解する必要があります。聖書に書かれているすべての約束、黙示録にあるすべての約束、ご自分の教会へのイエスの最後の啓示、すべての良い約束は、勝利した者たちのためだけのものです。敗者のための約束はありません。パウロは言いました。「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」結局、選択肢は 2 つだけです。打ち勝つか、打ち負かされるかです。第三の選択肢はありません。そして、打ち負かされることを許してしまう人々には、神からの良い約束は何もありません。黙示録2章と3章には、イエスが 7 つの教会それぞれに送ったことばが書かれていますが、最終的な約束はすべて、勝利者のためのものです。勝利しない者への約束はありません。私たちはこれに真剣に向き合う必要があります。神は私たちが勝利することを可能にしてくださいました。神は私たちが勝利することを期待しておられます。それは、黙示録 21 章 7 節に集約されています。
「勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。」
勝利者はすべてを手にします。勝利しない者は何も得られません。そのどちらかです。悪魔がクリスチャンの教会に仕掛ける大きな嘘の一つは、中立の立場があると思い込ませることでしょう。私は本当の意味での勝利者ではありませんが、自分が打ちのめされているという事実を受け入れたくありません。新約聖書はそのような中立の立場があると言っていません。
聖書とイエスへの信仰によって勝利することができます。サタンの力に対処するために、まず、極めて重要で基本的なことを理解しなければなりません。それは、イエスが、ご自分の死と復活によってサタンに対して完全に、永久に、最終的に、取り消すことのできない敗北をすでに与えているということ聖書とイエスへの信仰によって勝利することができます。
それを理解していなければ、あなたは勝利の土台を何も持っていないことになります。もう一度言います。完全に、永久的に、最終的で取り消すことのできない敗北です。サタンは決してその事実を変えることはできません。イエスは息を引き取られるとき、こう言われました。「完了した。」そうです、完了したのです。イエスがなされたことに何も付け加える必要もなく、何一つ取り除くこともできません。それはコロサイ人への手紙2:13-15ではっきりと書かれています。その文章は非常に複雑ですが、時間がないので、特定の記述に焦点を当てたいと思います。コロサイ2:13-15 です。
「あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」
最後の節から始めましょう。ここで言われている、「すべての支配と権威」とは、前にエペソ 6:12 で見たものと同じです。私たちの戦いは、サタンの王国のさまざまなレベルや順位にある、支配と権力に対するものです。それが、私たちが戦っている相手です。しかし、重要なことは、イエスがすでに誰の目にも明らかな完全な敗北を与えたことです。ここで使われている「凱旋」という言葉の意味を理解する必要があります。それはローマ帝国の文化でもありました。ローマの将軍が戦いで勝利を収めてローマに戻ってきた時、ローマ議会はその将軍を勝利者であると認めました。そして、その将軍は白い馬が引く馬車に乗ってローマの通りを練り歩き、ローマ中の人々は彼をたたえ、彼の後ろには勝利の証しが伴いました。つまり、その将軍が倒した支配者と指揮官も鎖でつながれて引いて行かれたのです。多くの囚人がその後ろに引かれ、時にはローマの人々が見たことがない征服した地の野獣も引かれていきました。これが凱旋です。それは勝利を勝ち取るためのパレードではなく、すでに勝ち取った勝利を祝います。パウロがここで言っていることは、その死と復活により、イエスは凱旋の馬車に乗って、目に見えない世界を行き巡り、その後ろには鎖でつながれたサタンのあらゆる力が引きずられているということです。それが勝利の全体像です。
その勝利を得るために、イエスは私たちのために 2 つのことをしてくださいました。簡単にそれに触れましょう。一つ目は、過去に関することです。私たちに対するサタンの大きな武器は、罪悪感であることを心に留めておいてください。サタンが私たちを罪悪感の中にとどめ続ける限り、私たちはサタンに対抗できません。しかし、十字架の勝利でイエスは罪悪感の問題に対処しました。まず、過去に関して、イエスは私たちの過去に犯したすべての罪が赦されるようにしてくださいました。コロサイ2:13 で、「私たちのすべての罪を赦し」と言っています。「すべて」という言葉は非常に重要です。私たちが今までに犯したすべての罪が赦されたことを信じなければなりません。たとえ一つでも赦されていない罪があるなら、それはサタンが私たちを失望させ、無力にさせてしまうために使うことのできる手段なのです。
もう一つは、さらに複雑ですが、簡単にお話しします。イエスは、神の義を達成する手段としてのモーセの律法を廃棄しました。神のことばの一部としての律法、あるいはイスラエルの歴史の一部としての律法を廃棄したのではありません。モーセの律法から得られるすべての教訓を廃棄したのではなく、神の義を達成するための条件ではないと、それを廃棄したのです。律法が必要条件である限り、私たちが義を主張しようとするたびにサタンがそこに立ちはだかり、私たちが従わなかった戒めや儀式を示して、「ほら見たことか。お前には近づく権利がないのだ」と言うのです。しかし、イエスが十字架で死なれた時、イエスはその面における律法に終止符を打ちました。聖書はそれをはっきりと書いています。「十字架に釘づけにされました」(コロ 2:14)。ですから、私たちは十字架のもとに行く時、律法の下にはいません。今や私たちの義は、戒めを守ることにではなく、信仰によるのです。私たちは信仰によって義とされています。このことは、イエスとペテロとの関係に鮮明に表れています。最後の晩餐で、イエスはペテロに言いました。「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」ペテロは、「そんなことはない」と言いましたが、その通りになってしまいました。そしてイエスは言いました。「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」あなたが信じ続けるなら、その信仰があなたを導いてくれます。ですから、決してあなたの信仰から離れないでください。失敗や非難、他のどんなことによっても、あなたの代わりに死なれ、あなたの罪を背負って罪となってくださったイエスの汚れやしみのない義の衣を与えられているという信仰から離れてはいけません。
「義とされる」とはどのような意味でしょうか。これは今日のテーマではありませんが、とても重要なトピックです。それは律法用語です。あなたが天の裁判にかけられ、法廷は判決を下しました。判決は無罪です。なんと、無罪です!「サタンよ、お前は言いたいことを言うがよい。お前は私のすべての罪と私の失敗、私のあらゆる不十分さを指摘することができるし、私もそれを認める。お前が知らない私の罪を告白することさえできる。しかし、天の法廷は無罪だと言った。私は義とされ、一度も罪を犯したことがないかのように、正しいとされたのだ。」あなたがその立場に立つとき、あなたはイエスがすでに収めた勝利によって、サタンに打ち勝つ以上の存在となります。しかし、もし他の土台から出発するなら、決して勝利を得ることはできません。唯一の土台は十字架です。
それから、私たちに対するサタンの武器を奪います。サタンの最大の武器は罪悪感ですが、イエスはそれに打ち勝つための武器を備えてくださいました。それが二番目の部分です。私たち夫婦はいつも第 二コリント10:3-5 を告白しており、今みなさんと一緒に告白したいと思います。私と妻は霊的戦いの一環として 50 ぐらいの聖書箇所を選び、それらを宣言しています。これはその一つです。
「私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ」
何という勝利でしょうか!
このように、私たちの武器は肉のものではありません。霊的なものです。なぜなら、私たちは肉体を持った人間と戦っているのではないので、私たちは爆弾や戦車やライフル銃などを使っても役には立ちません。私たちにはそのような物理的、物質的な武器の代わりに、霊的な武器が与えられています。そして、それこそが要塞を破るために私たちが用いることのできるものです。誰の要塞ですか。サタンです。次の節には様々な翻訳があり、議論、推論、推測があるでしょう。それは思いと知識について語っています。そこが戦場です。戦いの場とは何かを知らなければなりません。それは、「思い」なのです。それに気づいている人はどれくらいいるでしょうか。クリスチャンのとしてのあなたの問題のほとんどが、思いの領域にあります。がっかりしないでください。そこが戦場なのです。しかし、私たちには勝利の武器が与えられています。私たちはサタンの要塞、妨害を打ち崩すことができるのです。サタンは、福音の真理を受け取ることを妨げるために人の思いの中に要塞を築きます。私たちがすべきことの一つは、神が与えてくださった霊的武器を使うことです。祈り、メッセージ、賛美などは、それらの要塞を打ち倒し、人々を救い、変えるための神のことばが入る道を開きます。
たとえば、前のセッションでは、ユダヤ教とイスラム教という 2 つの反キリスト教の力を取り扱いました。それぞれの力には、打ち壊さなければならない特定の要塞があります。ユダヤ人の思いの要塞とは、「イエスを信じたら、ユダヤ人でなくなる」というものです。あなたはそれに気づいていないかもしれませんが、これこそ彼らがイエスの真理を受け入れることに対する最強の障壁なのです。ムスリムの要塞は、「神は息子を必要としない。神の子は存在しない」です。もしあなたが、ユダヤ教徒やムスリムに効果的に伝道しようとするなら、彼らに実際的なインパクトを与える前に、これらの霊的武器を用いてその要塞を打ち壊さなければなりません。
私たちには勝利のための武器があります。最終的な目的は、あらゆる思いをキリストへの従順の中にとどまらせることです。それは非常に大きな課題です。第一に、人々の思いをサタンの偽りの支配から解放し、次に彼らの思いをイエスへの従順の中に留まらせなければなりません。私たちには、そのための武器が与えられているのです。今日の話は、その武器についてではありません。そのテーマについてはこれまで多くのメッセージをしてきましたが、今日は教会が勝利を得るために必要な一般的な基本条件だけを取り扱いたいと思います。
それを簡単に説明します。7 つをリストアップしました。
マタイ 12:25 を見てみましょう。これは非常に重要なイエスのことばです。教会はこのことばを無視してきたことが多いように思います。イエスは言われました。
「どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。」
私たちは神の国について話してきました。しかし、もし神の国が内輪もめするなら、神の国は勝利することができません。ですから、サタンの教会に対する第一の攻撃は、私たちを分裂させることです。それは成功してきたでしょうか。残念ながら、サタンは非常に成功していると言えるでしょう。私たちがしなければならないことは、分裂を阻止することです。それは、クリスチャンと呼ばれるすべての人や物事と自動的に結びつくという意味ではありません。しかし、聖書に従い、イエスを愛し、イエスに仕えるイエスの真の信者であれば、私たちは彼らを兄弟姉妹として認めなければなりません。そして、彼らと私たちの間に不必要な壁を作らないようにするのです。
妻と私は自分たちのミニストリーにおいて、世界中で様々なミニストリーや人々と仕事をしています。基本的には、その人たちとの関係には何も問題がありません。その一番の理由は、彼らと私たちは前向きな物事に専念しているからだと思います。そして私たちは、マタイ 24:14 の「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」に専念しています。神の国の福音をすべての国に宣言することによって主の道を備えることが、私たちの責任であると考えています。聖書に基づいたその主な目的を持った人々に出会うなら、私たちは初めて会った人でも、10 分後にはずっと前から知っているように感じるのです。
ですから、ネガティブな面にではなく、ポジティブな面にフォーカスしましょう。人々が祈りととりなし、伝道に献身しているところでは、壁はなくなっていることに気づくでしょう。人々が教会の組織やプログラムで忙しくしているところでは、たいてい問題があります。ですから、私たちがまずしなければならないことは、分裂を警戒することです。それは簡単なことではありません。確かに、私たちがすべての答えを持っているわけではありませんが、そのことを優先するなら、実現に近づくことができるでしょう。
私たちがしなければならない 2 つ目のことは、非常に重要なことです。それは、神のことば全体を知り、宣言することです。第二テモテ 3 章を開きましょう。この章は、私にとって非常に意義深いものです。なぜなら、終末の日々を描いているからです。第二テモテ 3:1 からです。
「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。」
この 3 章全体は、終わりの日に特に関連することを取り扱っています。最初に、終わりの日が近づくにつれて人間の性質や行いが全般的に退化していく様子が描かれています。パウロは、この終わりの時代に人類を特徴づける18の主要な道徳的、倫理的汚点を挙げています。そしてそれらの根源はすべて、利己主義にあります。自分を愛する、金を愛する、大言壮語する。その 3 つ以上に現代文明をより明確に表現する言葉はないと思います。他のすべてのものは、その中に含まれます。
大きな敵は利己主義です。私たちはそのことを心に留めておかなければなりません。なぜなら、薬物やアルコール、不道徳に溺れないことは、必ずしも私たちをこの世から分かつことにはならないからです。私たちを本当に世から分かつものは、他者を立てることです。教会に通っていて、道徳的で立派な生き方をしている多くの人々は、基本的にとても利己的だと思います。それが今日の教会の特徴であることを理解する必要があります。教会の特徴的なしるしは、神と人のために献身し、仕え、しもべとなることによる「無私無欲」であるべきです。
パウロは続けて、終わりの時代の様々な他の特徴を指摘しており、そのうちのいくつかは後で紹介します。パウロは非常に明確にオカルトの恐ろしいほどの高まりを描いており、そのことも、私たちの時代に非常に顕著です。3 章の最後に、私が神の答えであると考えていることが書かれています。16 節からです。
「聖書はすべて、神の霊感によるもので」
「聖書はすべて」です。多くの人は、そのことに確信がありません。神を正し、聖書を編集し、変更が必要な箇所を見つけることが自分の仕事だと信じている説教者が多くいます。私はそうではありません。私は聖書を信じます。
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」
このことばは、神の民が完全に整えられるためには、わずかの聖句だけでなく、聖書のすべての真理が神の民に提示されなければならない、という意味だと私は理解しています。エズラ書に何が書いてあるのかを知らなければなりません。アモス書の教えを知らなければなりません。ピレモンへの手紙を理解しなければなりません。それらはすべて、あなたが完全に整えられるために必要なことだからです。完全に整えられるためには、テレビの前にいる時間を減らさなければならないかもしれません。なぜなら、クリスチャンの奉仕のために完全に整えられることは、ほぼフルタイムの仕事だからです。
その章をそこで分割したのはパウロではありません。パウロは続けています。4 章 1 節から読みます。
「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」
率直な質問をしましょう。日曜日の朝、責められ、戒められ、勧められることを期待して教会に行く人はどれくらいいるでしょうか。もし、そのような扱いを受けたら、二度とその教会には行かないという人もいるでしょう。しかし、牧師がちゃんと自分の仕事をしているなら、そのように戒められたり、責められたりしていると感じることは通常のことです。私たちはそのような時代に生きています。
「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」
これは西洋の教会で顕著に見られることだと思います。新しい教理や新しい啓示、心をくすぐり、興奮させるような何か新しいものを欲しているクリスチャンが多くいます。しかし、それは私たちがすべきことではありません。私たちの仕事は、みことばを宣べ伝えることです。ですから、パウロはこの部分をこう締めくくっています。
「しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」
今日ほど、聖書の絶対的真理と権威をしっかりと握ることが重要な時代はないと思います。聖書は私たちが予想もしなかった多くの分野で攻撃され、むしばまれています。健全な信仰を持っていると思われてきたムーブメントや教会や団体が、この数十年の間にその基盤からずれてしまいました。
使徒の働き 20:27 のパウロのことばを見てみましょう。
「私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。」
私は、この「余すところなく」という言葉に感銘を受けました。それは、神の計画全体を宣言させないようにするプレッシャーがたくさんあることを示しているからです。社会的プレッシャー、経済的プレッシャー、教派のプレッシャーなどです。人気を得たいなら、神のことば全体を宣言しないことが一番の近道かもしれません。しかし、私たちは最終的には神に申し開きをしなければならないことを忘れないでください。パウロは言いました。
「あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ。私には責任がない。」
パウロの頭の中には、エゼキエルに対する神のことばがあったと思います。
「わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。角笛の音を聞きながら、警告を受けなければ、その血の責任は彼自身に帰する...しかし、警告を受けていれば、彼は自分のいのちを救う。しかし、見張り人が、剣の来るのを見ながら角笛を吹き鳴らさず、そのため民が警告を受けないとき...わたしはその血の責任を見張り人に問う。」
このことばを受けて、パウロは、「あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ。私には責任がない。私は神のご計画全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたので、誰の血も私の扉に塗られることはない」と言ったのだと思います。
3つ目の条件は、とても重要だと思います。第一ペテロ 5:5-6 に書かれています。
「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。」
近年、教会で従順について語られることがよくありますが、従順には聖書的な根拠があると私は信じています。重要なことは、従順な態度です。たとえ同意しなくても、従順でいることはできます。それは行動規範というより、態度の問題です。
ペテロは言っています。「みな互いに謙遜を身に着けなさい。」それは、英語の比喩ではありません。パウロが使っている言葉は、「謙遜のエプロンを着けなさい」という意味です。このエプロンという言葉は、奴隷だけが着けていたエプロンを指します。つまり、そのエプロンを着けている人は、誰の目にも奴隷であることが明白だということです。ですから、自分がすべての人の奴隷であることを示すその謙遜の態度であるエプロンを着けなさい、とパウロは言っているのです。
「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」
私がいつも言っていることですが、謙遜さは神が私たちのためにできるものではありません。神は決して「私はあなたをへりくだらせる」とは言いませんそうではなく、常に「あなたはへりくだりなさい」と言います。それは決断です。私たちはへりくだる決断をしなければならないのです。
そして、自分をへりくだらせる注目すべき例が、エズラ 8:21-23 にあります。エズラとバビロンからエルサレムに戻る捕囚の一団は、4か月もかかる非常に危険な道のりを旅していました。彼らはみな、宮のあらゆる高価な器を携え、妻や子どもたちも一緒にいましたが、エズラはペルシャの君主からの軍の護衛を拒否しました。エズラは言いました。「私たちは神に信頼する。」それは、彼が、神に仕える者たちを神が守ってくださると証言したからです。証言したら、その証言した通りに生きること、それが証言の祝福です。ですから、エズラは兵士や騎兵の一団を求めず、こう言いました。
「そこで、私はその所、アハワ川のほとりで断食を布告した。それは、私たちの神の前でへりくだり、私たちのために、私たちの子どもたちと、私たちのすべての持ち物のために、道中の無事を神に願い求めるためであった。」
これはまさに聖書的です。詳しく話す時間はありませんが、自分をへりくだらせる方法の一つに、断食があります。ダビデは詩篇 35:13 で、「私は断食してたましいを悩ませ」と言いました。なぜ、たましいをへりくだらせる必要があるのでしょうか。それは、自分の中に傲慢で利己主義という自我があるからです。それは、「私はこうしたい、私はこう思う、私はこう感じる、私は重要だ、私を見てください」と言います。ですから、神の道を本当に歩む前に、へりくだらされなければなりません。
この話をするとき、私はいつも、ワシントンDCにいた弁護士のことを思い出します。彼は私の断食についての教えを聞きました。彼はクリスチャンで、断食をしようと決めました。彼は悲惨な一日を送りました。レストランや食料品店の前を通るたびに唾液が出て、お腹が鳴り、店に入りたくなるのです。しかし、断食をやめることなく、その日を終えました。その夜、彼は自分の胃袋に言い聞かせました。「おい、胃袋よ、今日はお前のせいで大迷惑だったよ。罰として、明日も断食だ。」
私たちは、そのように自分の主張を取り扱わなければなりません。自分の思いを神のみこころと思いに従わせなければなりません。断食を聖書的な方法で学ばないクリスチャンは、神の完全な勝利を手にすることができないのではないかと私は思います。イエスは 40 日間の断食によって宣教を始めました。あなたは自分がイエスよりも優れていると思いますか。イエスは弟子たちに、「もし断食をしたら」ではなく、「断食によって」と言われました。イエスはマタイ6章の説教の中で、断食について、祈る時とまったく同じ言葉を使っておられます。イエスは、私たちが祈ることと、断食することを期待しておられます。
あなたはそのことを理解し、どのような方法で断食をするかを聖霊から知る必要があります。もし、妻と私が定期的に断食を実践していなければ、今のようなミニストリーを続けることはできなかったと思います。なぜなら、私たちは今日の世界に存在するサタンの大きな力に真正面から挑んでいるので、神からすべての助けを必要としているからです。その方法の一つが断食なのです。
続けましょう。次にしなければならないことは、神のすべての武具を身に着けることです。エペソ6 章を開きましょう。空中のサタンの王国について語られている12節のすぐ後で、パウロは言っています。
「ですから...神のすべての武具をとりなさい。」
あなたは武具を手に取らなければなりません。それは自然に備わるものではありません。神があなたに着せてくださるのでもありません。あなたが着けなければなりません。パウロは、私たちのような信者に宛てて書いています。パウロは信者たちに、武具を着ける責任を課したのです。その武具とは、14 節―真理の帯、正義の胸当て、15 節―福音の備えの靴、16 節―信仰の大盾、17 節―救いのかぶと、御霊の剣です。これらを分析してみると、頭のてっぺんから足の裏まで完全に守られていますが、一箇所だけ守られていない場所があります。背中です。あなたが背中を見せるなら、守りはありません。それを忘れないでください。
また、それは完全なリストではありません。6つの武具がありますが、聖書で完全とされているものは、7です。次の一つは、おそらくその6つよりも重要なものです。18 節、「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。」祈りの武器について教えたのは、チャールズ・ウエスレーであったと思います。すべての祈りとは、私たちがサタンの王国の拠点である空中に手を伸ばして攻撃できる武器です。他の武器は、おもに自分を守るための武器です。しかし、祈りは、私たちの大陸間弾道ミサイルなのです。コンピューターを正しく設定するなら、そのミサイルはどんな標的でも、どこにでも達することができます。
次に私たちがしなければならないことは、神の超自然の力の必要性を認識することです。私は超自然と言いたいです。キリスト教は超自然の宗教です。私は以前、使徒の働きを読み返して、明らかに超自然的なものについて書いてある箇所をすべて取り除いたらどうなるかを調べてみました。それは単に内面的な超自然の体験だけではなく、目に見えるもの、感覚的に認識できるものです。使徒の働きは 28 章 ありますが、超自然的な箇所を除外したら、28 章のうち損なわれずに済む章は 1 章もないことを発見しました。使徒の働きは、教会がどのように機能するべきかについての聖書の唯一の記録です。私たちは、自分たちの自然の能力だけでは、効果的に機能して神のみこころを達成することはできません。私たちは聖霊の超自然的な働きを必要とします。そして、それを可能にするおもな形の一つが、第一コリント 12 章にリストアップされている聖霊の超自然の賜物です。これは、私が言いたいことを要約しています。
第一コリント 4:20 です。
「神の国はことばにはなく、力にあるのです。」
それは神学でありません。神学の範囲の中にはありません。議論するものでも、知的証拠のことでもありません。それは神の超自然の力を示すものです。第一コリント 2:1-5 のパウロのことばを見てみましょう。
「さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」
ガラテヤ3章について私が話したことを覚えていますか。魔術は教会で何を曖昧にしていると言いましたか。イエス・キリストの十字架です。パウロは、「私の関心は、十字架につけられたイエス・キリストだけです」と言いました。
私は最近、エルサレムの多くのユダヤ人を含む会衆に説教をしました。そして、ユダヤ人の間で本当に最も高く評価されているものは知識であると彼らに指摘しました。ここに一人のユダヤ人がいて、「私はイエス・キリストと彼が十字架にかけられたこと以外は何も知らないと決めました」と言っています。なぜでしょうか?パウロはこう言いました。
「あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。」
十字架は力だからです。それがパウロの秘訣でした。なぜ、聖霊は力によって彼のミニストリーを証明したのでしょうか。パウロが十字架につけられたイエス・キリストにフォーカスしていたからです。様々な上品なメッセージや理論を提示したり、様々な医者や人々の言葉を引き合いに出したりしても、聖霊は退屈なだけです。しかし、あなたが十字架につけられたイエスを引き上げ始めると、聖霊は、「私はそのことを証ししよう」と言ってくれるのです。
私は、それが今日の教会に一番必要なことだと思います。特に、ムスリムが多く住んでいる国において重要です。そのことを理解していますか。何百万人ものムスリムがいます。そして、超自然の現れ以上にムスリムの心に届くことのできるものはありません。私たちには機会があります。彼らのところに行くことなく、彼らが私たちのところに来てくれているのです。私たちが彼らの国に行って、福音を宣言することは困難です。なぜなら、追い出されるか、刑務所に入れられるからです。しかし、神は彼らが私たちの国に来るようにされました。教会はそれについて何をしていますか。今こそ、教会が立ち上がり、「イエスが生きておられることを示そう」と言う時なのです。
もう一度、第二テモテ3章を開きましょう。指摘していきたいことがいくつかあります。覚えておいてください。これはすべて、終わりの日に関することです。それがこの章の全体的テーマです。8節でパウロはこう言っています。
「また、こういう人々は、ちょうどヤンネとヤンブレ(彼らはエジプトの呪法師だった)がモーセに逆らったように、真理に逆らうのです。彼らは知性の腐った、信仰の失格者です。でも、彼らはもうこれ以上に進むことはできません。彼らの愚かさは、あのふたり(ヤンネとヤンブレ)の場合のように、すべての人にはっきりわかるからです。」
つまり、パウロは、パロの宮殿で行われたモーセとエジプトの呪法師たちの間で繰り広げられた競争が今の時代にも、イエスのしもべとオカルト者の間で行われるだろうと言っているのです。それは神学的に解決されるものではありません。それは、どちらの力が大きいかという力の競争です。そしてエジプトの呪法師たちにも様々な力があったことを心に留めておいてください。モーセが行なった最初の3つのしるしは、彼らもできました。杖を蛇に変えることができました。水を血に変えることができました。川からカエルを這い上がらせることができました。それらはすべて超自然的なものでした。しかし、モーセがそれ以上のことを行なったとき、呪法師たちは「これは神の指です。太刀打ちできません」と言いました。
モーセとアロンが杖を持ってパロのところに行くと、パロは、「お前たちの不思議を行え」と言いました。アロンが杖を投げると、それは蛇に変わりました。しかし、パロはあまり驚くことなく、自分の呪法師たちに、「お前たちにもできるか」と聞きました。呪法師たちは「できます」と言って、自分たちの杖を投げると、それらは蛇になりました。しかし、それで終わりではありませんでした。モーセの蛇が呪法師たちの蛇を飲み込んだのです。あなたはその場面について考えたことがありますか。呪法師たちは杖を持たずに去って行き、モーセの杖は以前より太く強くなっていました。誰の杖が勝つかなのです。人々が私に同意しないとき、私は時々こう言います。「言い争いはやめましょう。それぞれの杖を投げて、どちらの蛇が勝つかを見ましょう。」そうです。議論ではなく、実証が必要なのです。特に、御霊の賜物の中でも、3つの啓示の賜物には実証が必要とされます。知識のことば、知恵のことば、そして霊の見分けです。知識のことばは、サタンがどのように超自然の領域の中で働いているかを示してくれるものです。知恵のことばは、サタンの行動にどのように対処し、サタンを打ち負かすかを示してくれます。そして、霊の見分けは、私たちが悪霊の力や活動に直面しているとき、それを教えてくれます。今日の教会には、それらが本当に必要なのです。
先に進みましょう。私たちは喜びの賛美と大胆な宣言の力を用いなければなりません。私のお気に入りのみことばの一つが、エレミヤ 31:7 です。これは、終わりの日のイスラエルの回復についてです。
まことに主はこう仰せられる。「ヤコブのために喜び歌え。国々のかしらのために叫べ。告げ知らせ、賛美して、言え。『主よ。あなたの民を救ってください。イスラエルの残りの者を。』」
ここには、私たちが理解すべき重要な 3 つの武器、3 つの活動が語られています。それらは、「賛美」、「宣言」、「祈り」です。祈りとは、「主よ、あなたの民、イスラエルの残りの者を救ってください」と言うことです。主はイスラエルの残りの者を救うと宣言されました。私たちの祈りがなくても、主にはそれができるでしょう。しかし、神は別の箇所でこう言っています。「あなたがたが呼び求めるまで、わたしはそれをしない。」つまり、祈りとは、地上における神の目的を実現するために、私たちができることなのです。ある人はこう言いました。「神は私たちを必要とすることを選んだのだ。」神は私たちがいなくてもできるのですが、そうはされなかったのです。
祈りとは、単に自分の望みを求めることではありません。祈りとは、聖書に啓示されている神の目的を発見することです。そして、その目的が実現するようにと祈ることです。処女マリアのことばに実に美しく要約されています。御使いが約束を持って訪れたとき、マリアは、「あなたのおことばどおりこの身になりますように」と言いました。これは、あなたにとって最も力強い祈りです。パウロは言いました。「私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方」(エペソ 3:20)。神はみことばを成就することによって、実現させるのです。神が聖書で約束されていることは、私たちの人間的な思いで求めたり考えたりできることをはるかに超えています。
ですから、祈りとは買い物リストを持って神のもとに行くようなことではありません。祈りとは、神の目的を理性的に見出し、それに自分自身を一致させることです。
それには粘り強さが必要です。妻と私が 10 年間祈っていることがあります。まだそれは実現していませんが、自分が何によって祈っているのかがわかります。もし不信仰の中で祈っているなら、「10 年も祈っているのに、何も起こらない」と言います。しかし、信仰によって祈っているなら、「祈り始めた時よりも、答えは 10 年も近づいている」と言うでしょう。
イエスは言われました。「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい」(マルコ 14:38)。妻と私は、これがクリスチャンの性質を形成する大きなテストであることを発見しました。それは、粘り強く祈り、神のみこころを発見し、神が行うと言ったことが実現するように神を求めることです。
そして、「賛美」です。詩篇 102 篇を開きましょう。これも、この時代の終わりにシオンを回復するという預言です。その預言の後、18 節にこう書かれています。
「次のことが、後の時代のために書きしるされ、新しく造られる民が主を賛美しますように。」
これは、シオンの回復の時のことを言っていると信じます。神は、最高の献身をする一つの民を創造されています。何のためにでしょうか。神を賛美するためです。まるで神は、「わたしの民は何世紀もの間、わたしが望む賛美をしてこなかった。だから、わたしを賛美するために新しい民を創造しよう」と言っているかのようです。そして、カリスマ運動はその始まりだと思います。カリスマ運動には多くの弱点や失敗があると思いますが、少なくとも賛美とはどのようなものかというビジョンにおいて、新しい賛美のレベルが現れました。神を賛美することは、なんと重要なことなのでしょう。
詩篇 8 篇でダビデは言っています。
「あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。」
イエスがマタイ 21:16 でこのことばを引用したとき、イエスは「力を打ち建てる」という言葉を、「賛美を用意された」に変えています。神の民が打ち建てる力は何ですか。賛美です。賛美は何をしますか。誰を黙らせますか。敵と復讐する者です。なぜサタンを黙らせる必要があるのでしょうか。サタンがずっとしてきたことは何ですか。私たちを非難することです。「なぜ、神はサタンが私たちを非難するのを止めないのか」と思うでしょう。神はこう言われます。「私はあなたにサタンを止める手段を与えた。あなたが、私が望む私への賛美の方法を学べば、サタンを黙らせることができる。」
何年か前、スイスのローザンヌでフランス語通訳を介してメッセージをしていました。私はこの箇所を引用し、フランス語に訳されました。私はフランス語が分かるので、そのフレーズに引き付けられました。そのフレーズとは、「賛美は、敵と復讐者に沈黙を課す」です。私たちがサタンに沈黙を強要できるとは、なんと素晴らしい啓示でしょうか。私たちはサタンに、「黙れ!」と言うことができるのです。それは素晴らしいことです。どのようにしてできるのでしょうか。賛美によってです。もし、神の民が時間をかけて神を賛美することを学び、神を動かそうとするのではなく、きよい心と動機で神を賛美するなら、周りのすべての状況が変わるのです。神は賛美されるにふさわしいお方だからです。人々の心は開かれるでしょう。人を縛っている暗闇の力は揺るがされ、追い払われます。
では、エレミヤ 37 章に戻りましょう。宣言することは、ここ数年、神が妻と私のために与えてくださった新しい方法です。宣言とは、告げ知らせる活動です。新約聖書で、説教を語る者に使われている単語は、宣教者です。パウロは、神が自分を教師、使徒、宣教者に任命したと言いました。私はラジオ番組を始めて以来、神のことばの真理を宣言することで何が達成できるのかについてのビジョンが、さらに大きくされてきました。イスラム教の大きな強みの一つは、13 世紀以上もの間、毎日 5 回、モスクからアッラーとムハンマドについての宣言がなされてきたことです。それにより、国々の上に恐ろしいほどの暗闇が造られたのです。それは何でしょうか。偽りの宣言の力です。私たちは、真の宣言の力によって、その力に打ち勝たなければなりません。私たちは真理を宣言する必要があります。妻と私は宣言に用いるためのみことばの兵器庫を持っています。そして、その多くを一週間に何度も宣言しています。
申命記 33:25-27 を開いて、少し実践しましょう。みことばを宣言するとき、聖書の中で「あなた」となっている部分を「私たち」に置き換えましょう。
「私たちのかんぬきが、鉄と青銅であり、私たちの力が、私たちの生きるかぎり続くように。「エシュルンよ。神に並ぶ者はほかにない。神は私たち助けるため天に乗り、威光のうちに雲に乗られる。昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。私たちの前から敵を追い払い、『根絶やしにせよ』と命じた。」
次は一節だけです。第二コリント 9:8 は、私たちのミニストリーの経済的備えのための私たちの信仰の基礎です。同様に、あなたがたを私たちに換えて言いましょう。
「神は、私たちを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」
これを毎日言う時、足りないことを恐れることはないでしょう。「恵み」に注目してください。私はそれをあなたに伝えたいのです。恵みは、労苦して手に入れるものではなく、信じることが大切です。
教会が勝利するための条件の最後のポイントです。黙示録 12:11 です。
「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」
これも宣言の一例です。イエスの血潮が私たちにしてくださったことを、みことばが何と言っているかを個人的にあかしするとき、私たちはサタンに打ち勝つ、という意味であると私は教えています。私たちはそれを宣言します。私はいつも 7 度宣言します。そうするとき、あなたはサタンに打ち勝ちます。そのためには、ある種の人でなければなりません。「彼らは死に至るまで自分の命を惜しまなかった」人々とは、どういう意味でしょうか。それは彼らにとって、生きていること以上に、神のみこころを行うことの方が重要であったということです。それは献身です。サタンは中途半端なクリスチャンを恐れてはいません。サタンはそのようなクリスチャンには最終的には勝つことができるからです。主を否定したり、自分のあかしを撤回したりするのではなく、自分のいのちを投げ出す準備ができている人たち、それが勝利者です。アーメン。祈りましょう。教会や私たちのために祈りましょう。
神さま、勝利のため、そして勝利のすべての栄光ある可能性のための条件を、あなたのことばによって私たちに明確に示してくださったことを感謝します。主よ、何度もあなたを信じず、また従わなかった私たちの罪と至らなさ を告白します。私たちを赦してください。私たちのため、そして、イエス・キリストの全教会を代表して祈ります。また、主よ、私たちがあなたの栄光のために勝利者となる条件を満たすことができるようにしてくださる聖霊の力を求めます。
イエスの御名によって。アーメン。
コード: MV-4265-100-JPN