これは、「私たちが直面する敵」シリーズの第三回目です。最初の 2 回は、サタンの王国の性質と構造について学びました。神の国とサタンの王国という、2 つの対立する王国があることを話しました。どちらも霊的なもので、今の時点では私たちの目には見えませんが、非常に現実的なものです。また、サタンの王国の起源は、もともとはルシファーという大天使が、神に反逆して御使いのグループを率いて、新約聖書で「空中」と呼ばれる領域に対抗する王国を築いたことにさかのぼると学びました。この「空中」というフレーズは、教会に関する神の啓示が展開されている聖書の主要部分とも言える、エペソ人への手紙で実に5回も出てきます。「空中」が強調されていることは偶然ではないと思います。イエス・キリストの教会は、空中に設立されたもう一つの王国に立ち向かって空中で戦っていると考えられます。混乱している人のために指摘しておきます。聖書では一番最初の節、つまり創世記 1 章 1 節から、「天」という単語は複数形です。天は一つではなく、私たちの住む地球と神のおられる天の御座との間に、神に敵対するサタンの王国があるのです。

そして、サタンの王国の主な活動の一つであり、その力を現す主な方法の一つが魔術であることを取り上げました。多くの人々は、魔術はとっくの昔に通用しなくなった中世のもののような古臭いイメージを持つかもしれませんが、それは全くの誤りです。魔術は非常に現実的で、人類の歴史の中で今日ほど活発に働いていることはないと思います。そして、一世代前にはキリスト教国と呼ばれた多くの国が、今日では魔術の激しい活動に支配されています。

3 つの領域で魔術の簡単な定義を説明しました。第一の領域は、として人間の堕落した性質をそのまま表す方法の一つである「肉の行い」です。そして「操り」、「脅迫」、「支配」の 3 つのキーワードを挙げました。魔術の狙いは、単に他の人々を支配して自分の思い通りにさせることです。正当な手段は使いません。魔術は反逆と密接に結びついています。それは、神に対する人間の反逆の表れです。

第二の領域は、魔術は、様々な側面や段階を持つ、一種の「超自然的なサタンの宗教」です。ほとんどの国で、魔術の司祭は呪術医と呼ばれます。大部分が太古の昔からあり、人々が魔術と関わって来なかった地域は地球上には一つも見当たりません。そして、今でも世界の非常に多くの地域で魔術は広く行われています。

そして第三の領域は、これはサタンの得意技の一つである「教会内の魔術」です。です。パウロはガラテヤのクリスチャンに宛てて、「ああ愚かなガラテヤ人...だれがあなたがたを迷わせたのですか」と書いています。彼らが迷わされている証拠は、イエスの十字架でのみわざが見えなくなっていることでした。それによって、彼らはイエスが自分たちのために得てくださったすべての良いものを奪われてしまったのです。この魔術の働きは、教会ではおもに 2 つのことに表れます。それは、霊よりも肉に頼る「肉の欲」と、肉の欲の現れである「律法主義」です。誇張ではなく、おそらく、ほとんどのキリスト教会はこれに当てはまると思います。教会は聖霊の超自然的な恵みと力から離れ、今や人間的な方法と努力に頼り、ある意味において、あらゆる種類の律法主義的なシステムに縛られています。私が、「キリスト教は一連の規則ではない」と言った時、ある場所では人々は驚いて私を見ました。もし私が、「神はいない」と言ったなら、彼らは容易に受け入れたのではないかと思います。

今日はサタンの王国について、また神とイエス・キリストの教会に敵対するサタンの次のおもな働きに進み、「反キリストの霊」を取り扱いたいと思います。まず、反キリストについて書かれているヨハネの第一の手紙を読みましょう。第一ヨハネ 2:18-23 です。

「小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。あなたがたには聖なる方からのそそぎの油があるので、だれでも知識を持っています。このように書いて来たのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知っているからであり、また、偽りはすべて真理から出てはいないからです。偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。だれでも御子を否認する者は、御父を持たず、御子を告白する者は、御父をも持っているのです。」

まず、「反キリスト」というなじみの薄い言葉の本当の意味を簡単に説明します。まず覚えていただきたいのは、「キリスト」という語はギリシャ語のchristosから来ており、これはメシア(Messiah)の語源となったヘブル語のMashiachと完全に一致しています。多くのユダヤ人やクリスチャンは、メシアとキリストが同じものを表す語であることを理解していません。つまり、私たちが「反キリスト」と言う時、それは「反メシア」という意味です。メシアという言い方を用いた方がイメージしやすいと思います。

そして、前置詞の「反」(anti)は、ギリシャ語の前置詞です。これには 2 つの意味があり、そのどちらにも当てはまります。一つ目の意味は、「反対する」です。つまり、最初の動作はメシアへの反対です。2 つ目の意味は、「代わりに」です。つまり、最終的な目的は、真のメシアの代わりに偽のメシアを置くことです。

この力は、まずメシアを排除し、次にメシアの代わりに偽メシアを置くという形で作用します。全体的な作用が 2 段階であることを理解し始めると、反キリストの霊が、教会と呼ばれているほとんどの場所で極めて活発に働いていることがわかると思います。

妻と私には、アメリカで伝統的福音派と呼ばれている教会に属している友人たちがいます。その教団名を言うつもりはありません。ある日彼らは私に言いました。「私たちの教会では、仏陀について話しても、ソクラテスやプラトン、またキング牧師について話しても誰も動揺しないけど、イエスのことを話すと、みんな動揺する。」なぜでしょうか。反キリストの霊があるからです。真のメシアを取り除くという第一段階です。しかし、それがサタンの最終目的ではないことを心に留めておかなくてはなりません。サタンの目的は、真のメシアの代わりに偽メシアを置くことです。

それを理解し始める時、サタンの特定の働きは、イエスが宣べ伝えられているところでしか通用しないことが分かります。イエスについてまったく聞いたことがなければ、イエスを拒絶することはできません。しかし、魔術はそうではありません。魔術は堕落した人類全体が対象です。事実、私が話したように、魔術は堕落した人々すべてが対象となる宗教であり、様々な形式や儀式があります。しかし、反キリストは、キリストについて語られたところでしか現れることができません。

マタイの福音書には、イエスが宣教を始めたばかりの頃に荒野で誘惑を受けた時、「引き下がれ、サタン」と言ったことが記録されています。通常はそう翻訳します。しかしそれを、「私に従え」と翻訳しても全く問題ありません。それは、イエスと福音が宣言されるどこにおいても、従わないという反対の主張を神が許されるという霊的な現実です。実際、人間は真のメシアと偽のメシアのどちらを選ぶかを迫られることになります。間違った選択を排除しないのが神の対処法でもあり、正しい選択をすることは私たちの責任です。これは私たちの世代に深く関係します。この世代は何らかの形で、真のメシアか偽のメシアかを選ぶ決断をしなければならないでしょう。反キリストの霊は、私たちが考え得る以上に非常に活発で、私たちに間違った決断を迫ります。

ヨハネの手紙第一 4 章 2、3 節を読みましょう。

「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」

先ほどの 2 章の部分と 4 章の部分を合わせてみてみると、反キリストの 3 つの形態が見えてきます。第一に、反キリストは数多く存在します。人類の歴史の中で、実に多くの反キリストが現れてきました。後でそのことを簡単に説明します。

第二に、ある一人の特定の反キリストがいます。これは私が知る限り、人類の歴史にはまだ現れていません。反キリストの霊の最終的な現れであると私は信じます。私はよく人々に、「反キリストの影は、すでに舞台の上に落とされていると思うが、私たちはまだその実際の人物を見てはいない」と語ります。しかし、この時代の終わりには、聖書がはっきりと言っているように一人の最終的で最も邪悪で最も強力な支配者が現れ、短い期間、全人類を支配することになります。それが、その特定の反キリストです。

第三に、反キリストの霊です。反キリストの霊とは、すべての反キリスト者の中に働く霊です。ヨハネが言っている反キリストの霊の特徴は非常に重要です。それはまず、神の民の仲間と関わることから始まると第一ヨハネ 2:19 で言っています。

「彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。」

このように、反キリストは常に何らかの形で神の民の仲間と関わることから始めます。しかし、実際には神の民に属しておらず、やがてそれが明らかにされるのです。それが反キリストの霊の一つの特徴です。

二つ目の特徴は、イエスがメシアであることを否定することです。第一ヨハネ 2:22。

「偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。」

そして、ヨハネは 3 つ目の反キリストの特徴を語ります。

「御父と御子を否認する者、それが反キリストです。」

これは非常に重要です。反キリストは神の存在を否定しません。実際、自分は神の代理人であると主張します。反キリストが否定するのは、神格である父と御子の関係です。そして、それを否定しているものには、おそらく反キリストの霊があると言えます。

そして、第一ヨハネ 4 章で言われている反キリストの四つ目の特徴は、メシアがすでに来たことを否定していることです。おそらくやがて来ることは信じていますが、すでに来たことは否定するのです。

その4つの特徴は非常に重要なので、おさらいしましょう。

1. 神の民につながることから始める。

2. イエスがメシアであることを否定する。それは異教ではない。異教徒はイエスのことすら聞いたことがない。イエスが宣べ伝えられたところでのみ行われる。

3. 神格である父と御子の関係を否定する。必ずしも神を否定するわけではないが、父と御子としての神を否定する。

4. メシアがすでに来たことは否定するが、やがて来るということは教えている可能性が高い。

では、歴史的な例を取り上げましょう。今から私が言うことは、いくらか議論の的となるかもしれません。

真実について語ることは論争の的となりやすいものです。私は誰かを怒らせたいとも、他の宗教を攻撃したいとも思っていません。真実を述べたいだけです。それはユダヤ教が、反キリストの霊の最初であり、最も長く続いているということです。

私たちはこれまで、キリスト教はユダヤ教から枝分かれしたものだと考えてきましたが、それはユダヤ人がよく口にすることです。私はユダヤ人ではありませんが、私の妻はユダヤ人で、私たち夫婦はユダヤ人と非常に親しくしています。キリスト教がユダヤ教から枝分かれしたというのは真実ではないとわかるようになりました。実はキリスト教(イエスとその弟子たちの教えであって、それ以降ずっと続いている多くの「教会の教え」ではない)は、旧約聖書の宗教を継承したものです。ユダヤ教はそこから分岐しました。それを理解することは、特にユダヤ人と関わる際にとても重要です。

神の民とつながることから始める、それが最初の特徴です。私はユダヤ教の専門家ではありませんが、その教えを分析してみると、その多くがイエスを信じることが認められていない、つまり拒否です。その教えの多くは、イエスの主張を否定するものです。

ユダヤ教における反キリストの第二の特徴は、かなり単純です。イエスがメシアであることを否定し、やがて来るメシアを信じています。

第三は、神格である父と御子の関係を否定します。イエスが神の子であるという主張を拒絶し、神に子がいることを認めません。

そして第四に、すでに述べたように、メシアがすでに来られたことを否定します。

興味深いことに、1988 年エルサレムの町のすべての大通りに非常に美しいポスターがヘブル語で貼り出されました。「メシアが来られた。メシアに会いたいなら、この日曜日にオリーブ山に行きなさい。そこで会えます」というものでした。洗練されたデザインのポスターでした。誰がそれを印刷したのかは分かりません。あるジャーナリストは何が起こっているかを見るために指定の場所に行きましたが、メシアを見つけることはできなかったそうです。しかし、これはこの問題がどれほど現実的であるかを表しています。ユダヤ人にとってメシアという言葉は特別な意味を持つ言葉なので、あなたが思いやりを持ってユダヤ人に話しかけ、メシアという言葉を使うなら彼らの見方は変わるでしょう。

私の考えに同意しなくても全然かまいませんが、一つ提案したいと思います。マタイ 27 章の一つの節を見ましょう。この節には、反キリストの最初の実際の強力な現れが見られます。マタイ 27:21 です。イエスは総督ピラトの前に連れて来られました。ピラトはイエスに何の過ちも見出せませんでしたが、ユダヤの宗教指導者たちはイエスを非難し続け、ユダヤ人の全群衆を説得してイエスに反感を抱かせました。その群衆の中には、つい一週間前には、しゅろの枝を振って、エルサレムに入られるイエスを「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」と歓迎した者もいたに違いありません。これは私たちが無視してはならないことです。人間は非常に気まぐれであることを表しているからです。彼らの態度を一変させるために一週間もかかりませんでしたが、それは単に自然な人間の反応であったとは思えません。目に見えない領域で大きな霊的な戦いがあって、残念ながら反キリストの霊が勝ってしまったのだと私は信じます。総督ピラトがイエスを引き出してこう言いました。「祭りの時には、おまえたちの望む一人の囚人を釈放することができるが、誰を釈放してほしいか。バラバか、それともイエスか。」バラバは政治的扇動者であり、殺人犯、暴力的な男でした。バラバは良いことをしたことは一度もありませんが、一方でイエスは誰にも害を与えたことがありませんでした。イエスは何千人も癒やし、祝福し、食べ物を与えました。イエスに敵対する論理的な理由は何もありませんでした。そこには論理ではなく、霊的な力が働いていたのです。鍵となる節は、マタイ 27:21 でしょう。

「しかし、総督(ピラト)は彼ら(ユダヤ人の群衆)に答えて言った。『あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。』」

イスラエルは、人類に起こることの予型のようなものだと私は考えます。なぜなら、全人類は最終的に「どちらかを選ぶか」という選択を迫られると思うからです。救い主であり、癒やし主であり、義なるお方であるイエスを望むのか、それとも邪悪で暴力的で政治的扇動者であるバラバを望むのか。ある意味、バラバは反キリストの型です。彼らが選んだのはバラバでした。彼らを非難することはやめましょう。私たちは同じ間違いを犯さないように注意しましょう。霊的な力が一気に働いて、群衆を一変させてしまったのです。彼らは何の理由もなく、怒りと嫉妬でまるで狂ったようになりました。私は個人的に、反キリストの霊が人類に初めて影響を与えたのはこの時であると考えています。ある意味、その時から現在まで、ユダヤ人を支配しようとしていると考えます。

イエスは彼らに警告しました。ヨハネ 5:43 を見ると、彼らはこの時点で、イエスがメシアであり、神の子であるとの主張に異議を唱えていたことがわかります。

「わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。」

今ではそれは確かな事実だと証明されています。言い換えると、「私は真のメシアだが、あなたは私を受け入れない。もし、偽のメシアがその名で来たら、あなたはその人を受け入れるだろう」となります。ユダヤ人百科事典には、それ以降に現れてユダヤ人に受け入れられた約 40 人の偽メシアが記録されています。最も有名なのは、138 年にローマに反乱したバル・コクバでしょう。また、5 世紀頃のクレタ島のモーセは、「クレタ島から海の中に入って行けば、海が分かれてメシアに会える」と説き伏せ、何千人もの人々が海に入って溺れてしまいました。また、奇跡の年になると言われていた1666年には、サバタイ・ツヴィがメシアを名乗り、多くの人々から熱狂的に受け入れられました(彼は最終的にイスラム教に改宗した)。

すべてのユダヤ主義がそうであるとは言いませんが、ユダヤ教の間違った教えの一つに、神殿を取り戻してくれる人物がメシアだという教えがあります。すべてのユダヤ人にとっての聖地である神殿エリアは、今もムスリムのモスクに占領され、ユダヤ人はそこに行くことすら許されていません。実際にはこのエリア全体を政治的に支配しているにもかかわらずです。もし、中東に何らかの形で介入し、ユダヤ人のためにそこに神殿を立てる権利を手にすることができるような政治家が現れたなら、ユダヤ人はその人物をメシアとして熱狂的に歓迎するだろうと私は思います。そして、その人物は世界中のユダヤ人コミュニティにアピールするでしょう。それはそれほど遠い未来のことではないように思うのです。

次に、反キリストのもう一つの主な特徴を見てみましょう。これは、クリスチャンにとって、今の時代に十分に知っておくべき極めて重要なことの一つです。それは、ムハンマドの宗教として知られているイスラム教についてです。イスラムとは、完成、完全、成就という意味です。

ムハンマドは 7 世紀にアラビア半島で生まれ、自分は預言者で、洞窟で大天使から宗教の啓示を受けたと主張し、イスラム教が生まれました。彼はそのイスラム教こそが、旧約聖書と新約聖書の真の成就であると主張しました。クリスチャンと福音書は真理を歪曲したが、自分はイスラム教を通してそれを回復していると。それがムハンマドの基本的な主張です。彼はまず偶像礼拝を拒絶し、キリスト教の主張を拒絶したことで、ユダヤ人は自分についてくるだろうと考えました。しかし、ユダヤ人が自分についてこなかったので失望し、ユダヤ人に敵意を抱き、彼らを迫害するようになったのです。

では、イスラム教の教えを見てみましょう。これは私個人の意見ですが、現時点では、イスラム教は世界で働いている神の真理に対抗する中で最も邪悪で強い力だと思います。西洋の多くのクリスチャンがイスラム教を完全に誤解し、過小評価していることは悲劇です。いったんイスラム教が力を得れば、何よりもまずユダヤ人を抑圧し、次にクリスチャンを抑圧するでしょう。何世紀にも渡って、イスラム教国では、クリスチャンとユダヤ教徒は二流階級の人々という意味の dimmy という肩書が与えられてきました。イスラム教の優位性を誰の目にも明らかにするためには、周りにそのように低く卑しいと見なすユダヤ教徒やクリスチャンを置くことは、むしろ好都合だからです。

妻と私は、1985 年にパキスタンで福音を伝えていました。まず、首都カラチのクリスチャンのコミュニティを訪問することになりました。その不衛生さと貧困、劣悪な状況を目の当たりにして、自分の体調が悪くなっていくような恐ろしい感覚を今も覚えています。

通りにはむき出しの下水道があり、トイレも外にありました。それが、パキスタンの人々に提示されたキリスト教の姿でした。それはイスラム教徒に好都合だったのです。イスラム教徒は彼らを完全に排除せず、クリスチャンよりもムスリムが完全に優越であると示したかったのです。たとえば、ムスリムは決してトイレ掃除をしません。パキスタンでは、トイレ掃除の仕事はすべてクリスチャンです。それがパキスタン人のキリスト教に対する一般的な見方です。このことは、イスラム諸国でユダヤ教徒やクリスチャンがいかに抑圧され、劣っている少数派とされてきたかを示す、数えきれない例の一つに過ぎません。クリスチャンの誓約はイスラム法廷では認めてもらえません。ムスリムに対するクリスチャンの証言は受け入れられないのです。

イスラム教がホロコーストのような恐ろしい罪を犯していないのは事実ですが、13 世紀にもわたってキリスト教を弾圧し、蔑んできました。彼らがどれほどクリスチャンを蔑んでいるか、よく知らない人もいるでしょう。私たちがキリスト教の継承と伝統によって優れたものだと考えている「あわれみや赦し」のようなものは、ムスリムにとっては単なる弱さと見なされます。現在の中東の状況を見ると、西側の政治家たちは、クリスチャンでなくてもキリスト教の視点を持っています。彼らにはキリスト教の背景があり、あわれみ、平和、赦しについて語ります。ムスリムにとって、それらはナンセンスです。ムスリムは復讐を神聖な義務だと考えています。そこには全く異なる霊があります。そしてそれは、いつもすぐに見てわかるとは限らないのです。

第二に、彼らはイエスが神の御子であることを、狂信的なまでに否定します。預言者としてのイエスについてはムスリムと語ることができますが、彼らはあなたを注意深く観察しています。実際、コーランはイエスを預言者、救い主やメシアとしてさえ認めています。しかし、イエスは神の子であると言うとき、彼らは激しく憤慨して反発します。かつてソロモンの神殿があった場所に建てられた岩のドームと呼ばれる有名なモスクの周りには、アラビア語で「神には子が必要ない」という言葉が2つ刻まれています。それほど、そのことに対する彼らの反発は激しいのです。

そして先ほども言ったように、イスラム教は神格の父と御子の関係を否定します。興味深いことに、ユダヤ教もイスラム教も、どちらも中東で生まれた宗教です。イスラエルのツアーに参加すると、ガイドはおそらく、「中東はユダヤ教、キリスト教、イスラム教という三大宗教の起源である」と説明するでしょう。

これは私の推測ですが、反キリストの霊は、キリスト教会の中でイエスを排除することに成功するのではないでしょうか。私たちは最終的に、イエスのいないキリスト教を持つことになるということです。道徳的で律法的なシステムであり、素晴らしいイベントと宗教に満ちたシステムですが、そこにイエスがいないのです。そのように、いったんイエスを排除してしまうなら、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の統合への道を開いてしまうことになります。これは私の個人的な見方ですが、反キリストはユダヤ教、イスラム教徒、背教のキリスト教を統合した宗教を率いるのではないかと考えています。私たちはそれに向かう長い道のりを歩んでいるのではないかと思うのです。近年、ローマ法王とカンタベリー司教が、イスラム教の聖職者やあらゆる種類のヒンズー教徒、アメリカ・インディアンを兄弟として歓迎する式典をキリスト教の教会で行なったことを考えると、そう思ってしまうのです。新聞を読めばわかりますが、それは反キリストの霊です。その目的はイエスを排除することです。イエスはつまずきの石です。十字架はつまずきの石なのです。十字架のイエスを排除すれば、キリスト教はあらゆる種類の宗教と融合することができるという、その方向に向かっていると私は個人的に思うのです。それらに対する私たちの態度と対応に十分注意しなければなりません。なぜなら、偽りの霊が働いているからです。

また、多くの部分的反キリスト者や制度があります。たとえば、約 30 年前、私はケニアで教育関係の仕事をしていました。私は、ある面ではケニアの初代大統領であるジョモ・ケニヤッタに敬意を表します。しかし、マウマウの乱と呼ばれる反乱が起こったケニアの独立運動の期間、マウマウ団の支持者は宣教師が教えたキリスト教の讃美歌のイエスの部分をすべて、ジョモに置き換えたのです。これもまた、反キリストの霊の一例です。ジョモが反キリスト者だと言っているのではありません。彼はクリスチャンではありませんでしたが、ある面においては良い人でした。彼は良い仕事をしたと思います。私は彼を批判するつもりはありません。しかし、その独立運動の中には反キリストの霊が働いていました。(ジョモ・ケニヤッタはマウマウ団を率いたというのは後に誤解だと分かった。)

では、反キリストの霊の最終的な現れを見ましょう。今話しているのは、私の知る限り、まだ未来のことです。それが未来のことでないとしたら、私はまだそれを見出してはいません。間違いの可能性は常にあり、私が示す通りになると断言しているのではなく、少なくともみなさんがこれらの非常に重要な聖書箇所を無視せず、注意を払ってほしいと願います。サタンの策略を知らないわけではないので、その策略がどの程度実行されているかについて、何らかの意見を持つことができるようにするためです。

まず、第IIテサロニケ 2 章を開けましょう。そこは、反キリストの姿、啓示、出現を主に取り扱っている箇所です。また主の再臨への備えについても書かれています。それらは非常に密接に絡み合っています。なぜなら、主の再臨の前の最後のサタン的行為は反キリストだからです。パウロはこう言っています。

「主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。」

私は英雄になりたいとは思っていません。イエスが反キリストを取り扱ってくださることを待ち望んでいます。それができるのは、イエスだけです。真のキリスト、真のメシアが来られる時、偽りの者を取り扱うでしょう。それがイエスの再臨の主な目的の一つであると思います。反キリストを倒し、打ち破ることです。

第二テサロニケ 2:1-3 を読みましょう。まず、1-2 節です。

「さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。」

以前、9 月 12 日にイエスが来られるという預言的メッセージが広まったことがあります。他の国で広まったかどうかはわかりませんが、アメリカで多くのクリスチャンがそれを信じていたことには驚きました。これは、少なくともアメリカのクリスチャンがいかに無知であるかを示しています。他の国のクリスチャンはもう少し理解しているか、それもわかりません。しかし、イエスはユダヤの新年に当たるロシュ・ハシャナに来られると言ったこの教師を信じた人が何千人もいたのです。彼らは、イエスか来なかったことを恥ずかしいとは思わなかったでしょう。そこが驚きです。彼らは完全に間違っていたあとでも、人を信じ続けることができるのです。

ともかく、私はパウロがこれらの言葉を書いた理由が理解できました。「霊によってでも、あるいはことばによってでも...すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。」サタンの図太さは、まるでパウロが書いたかのように手紙にパウロの名前をサインし、人々がパウロから手紙を受け取ったかのようにすることもできたのです。

私の友人の牧師(彼は良き兄弟であり、有名だった)が、ある教会の牧師をしていたとき、自分の教えを録音したカセットテープを配布していました。かなり誤った教理を持っていたグループが彼のテープを手に入れ、テープのB面(何も録音されていなかった裏面)に、許可を得ずに自分たちの教えを録音して彼に返しました。それ以降、彼の教会では、その全く誤った教えが入ったテープが貸し出されていたのです。サタンに度胸がないとは思わないでください。彼の大胆さは無限です。

「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。」

「背教」という言葉は、ギリシャ語では apostacia で、啓示された真理を故意に拒絶するという意味です。私たちは、背教の時代に生きていると思います。それについては、あとでお話しします。

「背教が先に来ず、罪の人(または無法の人)が現れず、滅びの子が現れない限り。」

反キリストにはさらに二つの肩書きがあります。彼は「不法の人」です。神に対する人間の反抗と神の律法の拒絶を最大限に体現しています。そして彼は「滅びの子」であり、永遠の死へと向かっています。新約聖書の中で滅びの子と呼ばれているのが、イスカリオテのユダ一人だけであることは興味深いです。彼は偽りの使徒でした。

ここで再び、この人物が何らかの形でキリスト教会と関係を持ち始めることが暗示されています。私は個人的には、彼はカリスマ的な存在になると思います。私が言うのは、超カリスマです。IIテサロニケ 2 章 4 節を読みましょう。

「彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。」

今は、詳しく述べませんが、同一の存在に、反キリスト、不法の人、滅びの子という 3 つの異なる名前があるのです。そして、黙示録 13章にもう一つの重要な名前があります。黙示録 13 章 1 節から見ましょう。これは、ヨハネの見た幻の一部です。

「また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。」

竜とは誰ですか。サタンです。それは明らかです。

ここは、サタンが自分の力を与える者が現れる場面です。なぜサタンはこの者に力を与えるのでしょうか。その者に全人類を支配し、サタンが最も望んでいること、つまり自分を礼拝するように全人類を説得させる、あるいは強制させるためです。それがサタンの目標です。そのためにサタンは何世紀もの間、しつこく粘り強く取り組んできて、今まさにその目標の達成に近づいているのです。続けましょう。 3 節です。

「その頭のうちの一つは打ち殺されたかと思われたが、その致命的な傷も直ってしまった。そこで、全地は驚いて、その獣に従い」

ここに一種の偽りの復活があります。この者が暗殺されるかどうかはわかりません。見かけ上は死んでも、生き返ります。もし、ジョン・F・ケネディが暗殺後に生き返っていたら、アメリカでは何が起こっていたでしょうか。ケネディ大統領に媚びを売る人が多くいたことでしょう。4 節に進みましょう。

「そして、竜を拝んだ。獣に権威を与えたのが竜だからである。また彼ら(地上の人々)は獣をも拝んで、『だれがこの獣に比べられよう。だれがこれと戦うことができよう』と言った。」

それが 4 つ目の肩書き「獣」、「野獣」です。ギリシャ語では、ヒョウやライオンなどの野生の肉食獣を意味します。

黙示録には 2 人の人物が非常に意図的に対比されています。サタンの支配者である獣と、神の統治者である小羊です。霊的に理解しておかなければならないのは、私たちは獣の性質を養うのではなく、小羊の性質を養わなければならないということです。イエスの宣教の始めの出来事です。聖霊がイエスの上に下ったとき、聖霊はどのような性質を持った人物を探していましたか。小羊です。バプテスマのヨハネが、「見よ、神の小羊」と言ったとき、聖霊がイエスの上に下りました。これは、私たち一人ひとりに関わる大きな事柄の一つだと思います。なぜなら、今日の世界は競争が激しく、人々は非常に暴力的なので、獣の性質を私たちに浸透させることは非常に簡単だからです。しかし、神が私たちに望んでおられるのは、小羊の性質です。

黙示録 5 章の小羊の性質を見てみましょう。5 節から始めます。ヨハネは神の手にある巻物の幻を見ましたが、だれもその巻物を開くのにふさわしい人がいませんでした。それでヨハネは泣いていました。

「すると、長老のひとりが、私に言った。『泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。』」

つまり、獅子とは小羊です。それは意図的な矛盾です。神が定めた統治者は獣の性質ではなく、小羊の性質を持っています。そして、彼はご自分のいのちを捧げたので、すべてのものの上に高く上げられます。ご自分をへりくだらせたからです。ご自分を捕らえる者や迫害する者に抵抗せず、従順と謙遜の道を歩みました。今の時代の教会も同じ性質を表さなければならないと私は心から信じています。しかし、それは簡単ではないでしょう。

このことをお勧めします。教会は主と同じように十字架の道を通るなら、天に帰ることができると思います。私たちは勝利するでしょう。私たちが弱い時、神の力は、私たちの弱さの中で完全なものとなります。それが、私たちこれからが学ばなければならない教訓だと思います。今日の教会では、私たちの力でできることや、信仰によって達成できることなどについて多くの教えがありますが、それは、実は生まれつきの人、肉の人を慢心させるものです。その性質は、神が私たちのために持っている目的の中に入る前に十字架につけられなければなりません。

小羊への礼拝について話すと長くなるので、残りはご自身で読んでください。黙示録 13 章に戻って、いくつかの部分を見ていきましょう。人々はみな獣を拝んでいました。そして彼らはみな、獣との戦いは絶望的であるとはっきり分かっていました。

何が起こるかは誰にもわかりませんが、仮に世界の支配者が権力を握って、その者だけがすべての核兵器を備蓄し、他の誰も持つことが許されないとしたら、誰も彼と戦おうとはしないでしょう。それを考えることすら自殺行為です。そんなことが起こると言っているのではなく、この箇所で書かれているような状況に近い状況が起こるかもしれないのです。黙示録 13 章 6 節。

「そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。」

彼は、神への公然たる挑戦者です。彼は隠れた敵ではなく、全能の神の顔に拳を振りかざします。そして、それに似た考え方が私たちの身近にあるのです。7 節。

「彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで」

聖徒たちとは、私たちであることを願います。「そう願う」と言うと、あいまいな望みのように聞こえます。私は聖徒でありたい、しかし、獣が私に戦いを仕掛けることを望むか。あなたは選択しなければなりません。

「彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され」

キリスト教はすべてのことが楽勝とはなりません。ある意味、私たちの信仰には、見かけ上は敗北しているようでも実際には敗北しないと言う願いも含まれていると思います。

イエスはこの世界の評判にほとんど関心がありません。そのことを考えたことがありますか。イエスの最後の公の姿は何でしたか。十字架上の遺体でした。イエスは決してその姿を修正しようとしたことも、ご自分を信じた者以外に再び姿を現すこともありませんでした。私たちはこの世の評判をどれほど気にしているでしょうか。パウロは言いました。

「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」(ガラテヤ 6:14)

先へ進みましょう。黙示録 13:8。

「地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。」

これは驚くべき言葉です。神がご自身のために選ばれた人々を除いて、つまり、世の初めから小羊のいのちの書に名前が書かれている人以外は、全人類が獣を拝むようになるのです。

次に、もう一人の非常に邪悪な人物が出て来ますの。第二の獣です。11 節。

「すると、私は地から上がってくる別の獣を見ました。彼は子羊のように二本の角を持ち、ドラゴンのように話しました。」

彼は小羊のように見えましたが、実は竜の声を持っていました。これは宗教的な人物であると思います。一般的には、偽預言者と呼ばれています。そしてその偽りの宗教は、偽メシアと手を組むでしょう。これはすでに起こっていることだとお伝えしたいのです。例えば、中国では、丁主教のもと、三自愛運動が無神論の共産主義と連携して、真のクリスチャンを迫害したと言われています。非常に似通ったことがロシアでも起こったようです。ロシア正教会の上層部はスターリンを全面的に支持したので、現在そのことについて釈明に困惑しているようです。

私は、政治的な支配者が宗教の重要性を理解し、自分の権力を支えるために偽りの形で宗教を利用するだろうと考えています。12 節。

「この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。」

詳しく話す時間はありませんが、偽の三位一体に注目してください。中世の時代の古代教会は、ラテン語を使い、Diabolos Sinios Dei「悪魔は神の猿まねである」と言っていました。彼はまったく新しいものを思いつくことはありません。彼にできることは、神がすでに行なったことの粗悪なコピーを作ることだけです。ですから、偽の三位一体があるのです。それは、「サタン、獣、偽預言者」です。それらはある意味で偽りの教会のイメージを作り上げます。

最後に、IIテサロニケ 2 章に戻りましょう。その鍵となる 3 節です。

「誰にも欺かれないようにしなさい。その日、主の来臨は、まず背教が起こり、罪の人が現れない限り来ることはありません。」

先程も言ったように、「背教」は、啓示された真理を意図的に拒絶するという意味です。今日の世界は背教に囲まれていると思います。何世紀にもわたって、邪悪で不道徳で貪欲なクリスチャンや教会の指導者がいましたが、彼らはクリスチャンの偉大な基本的真理を公然と否定することはありませんでした。しかし、それらの真理は彼らの権力を支える手段となってきました。しかし、20 世紀に入り、おそらくドイツから始まったと思いますが、教会の指導者や代表者たちが、キリスト教信仰の偉大な基本的真理であるイエスの神性、処女降誕、贖いの死、肉体の復活、再臨をすべて否定しています。彼らの多くは、キリスト教会で名誉と権威ある地位を占めています。イギリスでは、英国国教会の司教の3 分の 2 は、その声明に基本的に賛同しています。私は誰かを攻撃したいのではありません。これは今世紀の特徴であり、これまでは存在しなかったと思われます。私たちはすでに背教に直面していると思います。そして、教会は誤りに対する防波堤です。ですから、サタンは自分の正体がばれる前に、教会に侵入しなければならないのです。

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