これは、「私たちが直面する敵」というシリーズの第二回目です。前回は、サタンの王国の性質と構造と、その王国には2つの階層があることを見ました。天上と呼ばれる上の層は、神のおられる天ではなく、目に見える天でもない空中のどこかにあります。その層は、神に反逆した御使いたちで構成されています。下の層は、神と救い主なるメシア、そして、イエスの義の統治にゆだねていない人間で構成されています。そして、サタンの王国にいる人たちを表すキーワードは、「反抗、反逆」だと話しました。御使いであれ、人間であれ、彼らはみな、神に対して反逆しています。

また、ギリシャやローマ、その他あらゆる国の異教の世界の神々は、サタンの王国の御使いを様々な名で呼んで表現していることを見ました。異教の宗教と異教の社会で礼拝されているものはみな、サタンの使いです。人がそれらサタンの使いと接触しようとする方法の一般的な名称は「魔術」です。魔術は、堕落した人間の宗教であると言えるでしょう。魔術には無数の形態や儀式がありますが、共通しているのは、それが異なるサタンの霊的存在に接触する様々な方法であるということです。儀式には様々あり、そのほとんどの形が、性的なものであったり、残酷であったり、汚れていたりたりします。人間がサタンとその王国に取り入るために、代々行なってきたことは、実に考えるのも恐ろしいものです。

サタンの支配からほとんど逃れることができなかった民族グループの例として、アメリカ・インディアンについて少しお話ししました。興味深いことに、ナショナル・ジオグラフィック誌で読んだのですが、アメリカ・インディアンたちの「太陽の踊り」と呼ばれる主な儀式は、皮膚にかぎ状のものを引っ掛けて吊るし、皮膚を大きく引き裂くというものです。彼らは神を礼拝するためにそれを行うのです。

そのような礼拝の形態は、地球上に無数に存在します。原始的な性質の痕跡が残っている社会に行くと、言語ごとに異なる呼び名で呼ばれるある種の人物がいます。それは呪術医です。そのような社会の多くでは、最も力のある人物は呪術医なのです。

聖書の中にも驚くべき例があります。ピリポがサマリヤに下って行き、その町でイエスを宣べ伝えました。しかし、そこにはその町全体を支配する人がいました。彼の名はシモンです。魔術師であり、呪術を行う者でした。彼は魔術を使っていたので、その町全体が彼を恐れていたと書かれています。それは、ある意味においては特別な状況ではなく、異教の原始社会の典型的な姿と言えます。

つまり、反逆と魔術の間には直接のつながりがあるのです。私が言う反逆とは、神に対する反逆です。これは、第一サムエル 15:23 ではっきりと示されています。サウル王自身が反逆者となったあと、預言者サムエルからサウル王に語られた言葉です。サウル王は、預言者サムエルを通して神から与えられた特定の任務に従うことを拒否しました。ここでサムエルは、サウルの行いに対する神の評価を告げています。22 節から読みましょう。

「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、 そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」

ここでサムエルは二つの比較をしています。一つは、そむくことと占いの罪は同じだということ、もう一つは、従わないことと偶像礼拝の罪が同じであるということです。偶像礼拝について詳しくは説明しませんが、従わない人、かたくなな人が偶像礼拝者となってしまうことを指摘しておきます。かたくなな人は、自分の意見を偶像化するので、それが偶像礼拝の一つの形となるのです。今日の教会の中での私たちの態度を考えてみましょう。私たちはほとんどの場合、酔っ払いや公然と不道徳をする人々を受け入れないでしょう。しかし、教会の中にかたくなな人がどれほど多くいることでしょうか。神の目から見れば、かたくなな人は偶像礼拝者です。自分が持っている木製の偶像を教会に持って来て、ひれ伏して礼拝するような人はいないでしょうし、私たちはそのようなことを放っておきません。 しかし、残念なことに、私たちは多くのかたくなな人々を容認し、放置していることが多いのです。

もう一つの比較を見てみましょう。そむくことは占いの罪と同じだと言っています。これは非常に重要な教えです。占い(魔術)のルーツは反逆であり、反逆があるところには、魔術が関与していると予測できます。私はこのことを解放のミニストリーの中で学びました。例えば、魔術の霊からの解放を必要としている人はほとんどの場合、反逆からの解放も必要です。また逆に、反逆の霊に遭遇したときには、魔術の霊がないかどうかも確認したほうがいいでしょう。両者は密接に関係しています。

反逆がどのように起こるかについて、簡単に説明してみましょう。サウル王が神のことばの権威を拒絶したように、反逆は神の正当な権威を否定するのです。しかし、あなたは権威なしに長く生きることはできません。ですから、正当な権威を持たなければ、それは不法な権威にとって代えられてしまいます。また、もし不法な権威を持っているなら、不法な力に支えられることになってしまいます。反逆を支える不法な力とは、魔術の力です。そのため、不法な権威が行使されていると思われるところでは、魔術に対処する準備をしておいた方がいいでしょう。

1960 年代のアメリカで非常に明確な例があります。その世代は反逆的な世代でした。人々は、両親や教会、政府など、認められた形の権威のほとんどすべてに背を向け、反逆の世代となりました。私は彼らの多くに関わり、それを通してイエスに出会った人々の多くは現在も私の友人です。しかし、反逆に入って行った人は一人を除いて、すべての人がオカルトや悪霊的な超自然現象、魔術の世界に入って行きました。これが霊的体験の論理です。反逆に深く関わると、遅かれ早かれ、魔術の力を受けてしまうのです。

サウル王の例に戻りましょう。サウル王は捕らえたすべての動物を聖絶せよというサムエルの命令に従いませんでした。サウル王は神にささげるためだと言って、「最上の物」を取っておきました。神は言われました。「わたしはあなたのいけにえを喜ばない。なぜなら、それは不従順から来ているからだ。」サウル自身はイスラエルの王として、実際にイスラエルから魔女を取り除きました。しかし、死の直前、神からのことばを聞くことができずに自暴自棄になり、自ら魔女を求めたのです。それは偶発的なことではありませんでした。そのような結果になる原因があったのです。このことを強調させてください。「反逆があるところには必ず、遅かれ早かれ魔術が起こる。」もう一つのポイントは、あなたが魔術やサタン的超自然現象、オカルトなどのあらゆる形態のものに対処しようとするとき、オカルトだけを取り扱っても、その根源に対処したことにはならないです。その根源は反逆だからです。

では、魔術とはどのようなものか、そのイメージをお話しします。これは、神が大学院課程を取った時に神が与えてくださったものです。妻と私は一緒に入学しました。実際の経緯を簡単にお話しします。私たちが結婚して1年足らずの 1979 年、アメリカで開催されたカンファレンスに参加しました。基本テーマは家族関係でした。しかし、その最中に一人の若者が立ち上がりました。私は彼に会ったこともなく、誰なのかも知りませんでしたが、彼は驚くほど力強い預言をし、幸いなことにそれは録音されていたので、文字でも残されています。その預言の中で、神はこう言われました。それまでご自分が魔術に対して行なってきたすべてのことは、予備戦争にしか過ぎなかった。しかし、その 1979 年のその時点から、魔術との総力戦を宣言する、と。神がそう言われた理由は、魔術がご自分の終末軍に必要とする何百万人を縛っているからでして。そして、当時の私たちには全く理解できなかったことも告げました。「もし、あなたがこの戦いでわたし(神)に加わるなら、代々家族の中で引き継がれてきた呪いのもとにある人々に出会うだろう。しかし、あなたは恐れる必要はない。あなたは彼らを解き放つことができるのだから。」その時、それは妻と私だけに対する言葉でした。主が私たちに加わるように呼び掛けていることを理解し、私たちはそうしました。その後 10 年近くの間、私たちは何千人もの家族に代々引き継がれてきた呪いのもとにある人々に出会い、神の恵みによって彼らを解放する力が与えられました。このことは、その預言が神からのものであるという確信になりました。なぜなら、その預言には、私たちが全く知らなかったことに関することが含まれており、それが完全に成就したからです。

そのようにして、私は魔術とは何かを知るようになりました。実際、それ以前にも魔術に対処したことはありました。ある時点で、私は解放のミニストリーの先駆者のような存在であったと言えます。そして、当時の私は論争の的とされました。ある人々は私を敬愛し、ある人々は私を嫌いました。無関心な人はほとんどいませんでした。私が扱ったケースの多くが、解放を必要としている人に魔術の霊もあったからです。

当時、私は正統派のペンテコステ派でした。今もペンテコステ派ですが、それほど正統派ではないかもしれません。解放を必要とした人々は、牧師の娘、執事の妻、教会の賛美奉仕者などでした。つまり、解放が必要だとは思えない人々でした。私はそのことを深く心配するようになりました。私は、「神さま、私が間違ったことに入り込んでいないことを願っています。魔術とは何かを教えてください」と言いました。そして、神からの答えはこれだったと信じます。「魔術とは、聖霊でない霊を使って人々をコントロールし、自分が望むことを人々に行わせようとすることだ。」そして神は、当然のようにこう言いました。「誰かが霊を使っているなら、それは聖霊ではない。なぜなら、聖霊は神であって、一人として神を自分の思い通りに使うことはできないからだ。」最初の部分をもう一度言います。魔術とは本質的に、聖霊でない霊を使って人々をコントロールし、自分の思い通りにしようとするものです。

私は教会が魔術であふれている理由が分かりました。人に何かをしてもらいたいと思う人が多くいて、そのためにあらゆる手段を用いるからです。そして、ほとんどの人は、自分が何をしているのか気づいていません。

さて、魔術の3つの側面を取り上げましょう。第一に、「肉の行い」としての魔術で、多くの人々はこれに気づいていません。第二に、「悪霊の力」、第三に、教会の中での魔術の働きです。

まず、肉の行いを取り上げます。ガラテヤ5:19、20のリストを見てみましょう。様々な翻訳で異なる言葉が使われています。ある翻訳では「魔術」、別の翻訳では「まじない、心霊術」などです。魔術の3つの主要な枝は、「魔術、占い、まじない」という言葉で表されます。魔術やまじないなど、様々な翻訳がありますが、それらは同じ力に対する呼び名の違いに過ぎないと言えます。パウロは、ガラテヤ5:18、 20 で言っています。

「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術」

肉の行いのリストのちょうど真ん中に、偶像礼拝と魔術があります。つまり、それらは人間の肉的な堕落した性質の表現であり、それが「肉」、つまり堕落した人間の性質のやり方であると言えます。私たちの内にある堕落した性質は、人々をコントロールしたいと思うのです。人を自分の思い通りにしたいために不法な手段を使うことがよくあります。

この種の思惑には3つのキーワードがあるので、注意深く聞いてください。それらの思惑に遭遇するところには必ず魔術があるからです。あなたは今までそれに気づかなかったかもしれません。その3つのキーワードとは、「操り」、「脅迫」、「支配」です。最終的な目的は支配です。人々をコントロールし、自分の思い通りにすることです。「操り」と「脅迫」という2つのルートがあります。どちらのルートをたどるかは、状況や目的によって異なります。しかし、操りを使うにしろ、脅迫を使うにしろ、最終目的はコントロール、つまり支配なのです。

今話しているのは、自然の範囲でのもので、超自然的なものではありません。肉の行いとしての魔術は、実に社会のあらゆる領域で行われています。この話を聞いたあと、あなたは異なる角度から物事を見るようになるでしょう。夫や妻、祖母、義母など他の人を指摘する前に、あなたがまずすべきことは、鏡に映し出されるあなた自身をチェックすることです。

例をいくつか挙げましょう。例えば家庭です。人が好むと好まざるとにかかわらず、神は家庭に一定の秩序を定めておられます。夫は妻のかしらです。人々はそれを逆にすることもできますが、神はその秩序を変えていません。そして、神の秩序では、夫と妻の権威の下に両親の権威に従う子どもたちがいます。魔術は、神が与えたその秩序を脇に置かせようとして、操りや脅迫などを用いるのです。

まず子供について考えてみましょう。子供は巧妙な操り手です。年齢は関係ありません。5歳の子供でも巧妙な操り手になれます。例えば、母親がティーやコーヒーのためにゲストを招いているとします。そして、ビスケットやクッキーが用意されています。5歳の小さな子供は、ママがクッキーやビスケットを食べてほしくないことを知っています。しかし、ゲストがいるときは、母親が「いいえ」と言うのが非常に難しいことも知っています。だから、ゲストがいるときに彼女は入ってきて、「ママ、クッキーをもらってもいい?」と言います。すると、母親はどうするでしょうか?おそらく、彼女は譲歩します。彼女は操られてしまったのです。

最初に子どもについて話しましょう。子どもは人を操る達人です。幼くてもです。5歳の子どもでも操りの達人になれます。母親が家に来たお客さんとお茶やコーヒーを飲んでいるとしましょう。クッキーもあります。その家の5歳の子どもは、お母さんが自分にクッキーを食べさせたくないと知っています。しかし、お母さんは、客人の前ではダメと言いにくいことも知っています。ですから、客人が来たら、その場に入って行って、「ママ、クッキー食べてもいい?」と聞くのです。母親はどうするでしょうか。おそらく、クッキーを食べることを許すでしょう。母親は操られているのです。

何年も前、亡くなった先妻と私はペンテコステ派信者の家族の隣に住んでいました。その家には両親と3歳ぐらいの娘がいました。当時人々は土曜日の夜に食料品を買いに行っていました。隣の家族が着替えて食料品の買い出しに行くとき、その幼い女の子は天使のように楽しそうについて行きました。しかし、日曜日の朝、日曜学校に行こうとすると、その女の子は仰向けになって足をバタバタさせて叫び、両親を困らせました。その女の子は言葉には出しませんでしたが、両親が食料品店に行くことには異議を唱えず、神のことばを聞く場所に行くことを強く拒絶する力が彼女の中にあったのです。

あなたも理解し始めていますか。私の友人の伝道者は言いました。「ベビーベッドにいる生後6週間の小さな赤ちゃんのおむつが濡れています。それで赤ちゃんは泣きます。母親が来て、その赤ちゃんを抱き上げ、おむつを替えて抱きしめます。もちろん、赤ちゃんは抱っこされるのが大好きです。ですから、次に赤ちゃんが抱っこしてほしいと思った時には、おむつが濡れていなくても泣くのです。それは何でしょうか。操りです。このように、それは堕落した人間にとっては自然なことなのです。

それは子どもだけではありません。親も同じです。女性が用いる手段は通常、操りです。父親がする方法はおそらく脅迫です。どちらも目的は同じ、人をコントロールすることです。ですから、妻は自分の思い通りにならないとき、涙を流し、食べ物を焦がし、夫に惨めな思いをさせます。最後に夫はどうするでしょうか。譲歩します。夫の場合、操りは様々な方法が使われます。夫は非情な性格かもしれません。気性が荒く強い男であるかもしれません。自分の思い通りにならないと、暴力的になり、脅迫します。そして家族全員が父親を避けます。家族が一番避けたいことは、父の怒りが爆発することです。父親がしていることは何でしょう。家族への脅迫です。父親の目的は何ですか。自分の思い通りにすることです。

夫と妻には違いがあるのは当然です。神の命令は、二人が向き合ってそれを話し合い、祈り、神を求めることです。しかし、操りは決して本当の問題に向き合いません。操りは常に裏側に回ります。本当の問題が明るみに出ることは決してありません。何百万もの夫婦が、互いの違いを表に出さずに暮らしているのです。夫も妻も自分の望むものを得るために、相手の裏側に回り込もうとするのです。それが「操り」です。教会の中にも操りの例が非常に多くあります。私はペンテコステ派に詳しいほうなので、ペンテコステ派の教会を取り上げます。若い牧師がいるとしましょう。彼にとっては最初の牧師職です。教会員は 100 名ほどで、その牧師は少し緊張して臆病になっています。そして、2人の非常に霊的な女性信者がいます。霊的というより、超霊的です。彼女たちは教会の運営方法についてよく知っているので、それについて牧師と祈ったり話し合ったりせず、一人が異言で話し、もう一人が解き明かしをします。そして牧師に何をすべきかを告げるのです。あり得ないと思うかもしれませんが、実際にあるのです。それは「操り」です。

他の領域の多くにも操りがあります。仕事上では互いに操り合います。上司が秘書を操ることもあれば、秘書が自分の上司を操ることもあります。それに関して多くの時間を割くことはできませんが、私が話していることは、堕落した人間にとって自然なことなのです。これは、肉の行いとしての魔術であり、先程も言ったように、「操り、脅迫、支配」という 3 つの特徴があります。あなたがそれらのものに遭遇するとき、その背後には必ず魔術の力があるということです。

そのことに気づいたら、対処することが容易になります。魔術の最も一般的な手口は、罪悪感を抱かせることです。「私が病気の時、なぜお見舞いに来てくれなかったのか?私は寂しい思いをした」などのように言う人たちは、相手の事情や仕事を決して考慮しません。私が学んだことは、ある人が私に罪悪感を抱かせていると気づいたら、立ち止まって、「彼らに何が働いているか」と自問することです。私の聖書理解によれば、聖霊は私たちに罪悪感を抱かせることはありません。聖霊は罪、義、さばきを悟らせます。聖霊は具体的な事柄を指で示して、「あなたはこの間違いをした。これはあなたがしなければならないことです。悔い改めてそれを正しなさい」と言います。しかし、罪悪感というものは、決して終わることがありません。「私は十分にやったか。それとも、もっと何かすべきだったのか。間違ったことを言ってしまったのではないか。なぜ彼女は教会で私に話しかけてくれなくなったのか」などです。

魔術のもう一つの手口は、その人の意見と承認が非常に重要であると思わせようとすることです。「あなたがこれをしないなら、私はあなたを認めない」のように直接的に言うのではなく、ほのめかす言い方をします。そのような状況に直面したときにもまた、私はこのように自分に問いかけるようになりました。「その人に操られることを許すほど、その人に認められることが私にとって重要なのか。」たいていの場合、私の結論は、「それほど重要ではない」です。

では、先に進みましょう。ヤコブ 1:14 に関連していることです。権力、支配力、知識を欲する願望は、すべての人間に見られる強い特徴です。そして、サタンは私たちを支配する力を得るために、その欲求につけ込むのです。ヤコブはこう言っています。

「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。」

つまり、あなたの中には、権力、支配力、評価、知識への欲求があるのです。それは私たち全員の中にあり、私たちはそれを持って生まれてきました。しかし、サタンは私たちを自分の支配下に置くために、それを利用するのです。この国でオカルトに関わっている人の数は数えきれません。少なくとも75%はいるでしょう。サタンがオカルトを用いる動機は何でしょうか。権力欲、支配欲、知識欲です。人類が最初に陥った欲望は何でしたか。それについて考えたことがありますか。アダムが欲していたものは、一言で言うと何でしょうか。知識です。アダムが間違った方法で知識に手を伸ばした時、彼はサタンの捕虜となりました。数えきれないほど多くの人々が知識欲によってオカルトの中へ引き込まれます。死んだ自分の息子が天国にいるかどうかが心配で思い悩む人は、最終的にどうするでしょうか。降霊術の会に行きます。幸せな結婚ができるかを知りたい人はどうするでしょう。占い師のところへ行きます。それらの動機にサタンはつけ込み、利用するのです

では、霊的な力としての魔術を見てみましょう。私たちは今から超自然的なことについて話します。それは人間の能力を超えています。すべての超自然的なものが神から来るだけではないことを理解することが非常に重要です。その多くはサタンから来ています。人間に起こる超自然的な現象の源は、「神」か「サタン」の 2 つしかないと私は考えます。神から来ていない超自然的な力はすべて、サタンから来ています。前にも言いましたが、神の国は光の王国です。神の国にいる人は、自分がどこにいるかを知っています。一方、サタンの王国は暗闇の王国です。あなたを操っているもの、あなたをコントロールしているもの、あなたを動かしているものがわからないのです。

英語で表現すると、大きく分けて3つの枝に分かれます。他の言語では、多少異なる用語を使わなければならないかもしれません。それは、「黒魔術(呪いなどに用いる)」、「占い」、「白魔術(自分の益のために用いる)」です。それらの全体像を少し説明してみます。それらはサタンの超自然現象の領域全体をカバーしていると思います。

魔術は権力の中枢です。それが生み出すものは力で、魔力や呪いのようなものを通して働きます。魔術の最も強力な武器は、おそらく呪いでしょう。それは非常に古い習慣です。民数記 22 章を開くと、バラムは呪術師であったことがわかります。バラムは、神とサタンの両方の超自然の力に通じていたので、分類するのが最も難しい人物の一人でした。なぜなら、彼らは正しい時もあれば、間違っているときもあるからです。そのような人は、今日でもたくさんいます。神にだけ心を開いている人は常に正しく、サタンにだけ心を開いている人は常に間違っています。しかし、本当に扱いにくいのは、神に心を開いている時もあれば、サタンに心を開いている時もある人たちです。そのような人は、どの教会の中にもいます。彼らを取り扱う牧師には、洞察力と権威と勇気が必要とされます。

では、モアブの王バラクが呪術師バラムに言ったことを見てみましょう。民数記 22:10、11 で、バラムは実際にバラクからの提案を神に説明しています。バラムは神にこう言いました。

「モアブの王ツィポルの子バラクが、私のところに使いをよこしました。『今ここに、エジプトから出て来た民がいて、地の面をおおっている。いま来て、私のためにこの民をのろってくれ。そうしたら、たぶん私は彼らと戦って、追い出すことができよう。』」

これは、その時代の文化では標準的な慣習でした。王や他の人が戦いに行くのは、単に自然のレベルで戦うだけではなく、超自然のレベルでも戦うことが普通でした。ですから、彼らは相手を呪うために呪術師を呼ぶのです。紀元前 19 世紀にエジプトの王パロが宣告した呪いのリストがあり、その中で 66 の国々を呪っています。呪いに何の意味があるのでしょうか。戦いで倒すことができる場所へと相手を連れてくるのです。興味深いことに、ゴリアテがダビデに立ち向かったとき、ゴリアテは自分の神々の名によってダビデを呪いました。それは単に下品だっただけではありません。ゴリアテはこう断言したのです。「私の神々はあなたの神を負かすことができる。」このように、古代の戦いはある意味、単なる国々(民族)の間の戦いではなく、互いの国の神々の力を試すものと見なされてきたことが多いのです。たとえば、神はエジプトからイスラエルを導き出すとき、こう言っています。「エジプトのすべての神々にさばきを下そう。」(出 12:12)。人間の支配者ではなく、霊的支配者をもさばいたのです。ですから、バラムは良い呪いをする者として雇われたのです。それが彼の職業でした。

妻と私は数年前、イギリス南西部のバースを訪れました。ちょうどその頃、異教の神殿が発掘されていました。そして、その神殿の祭司の主な仕事の一つが、人々に呪いを書くことであることが発見されました。人々は自分では十分な呪いを書くことはできないと思っていたので、滅ぼしたいと思う人への恐ろしい呪いを書くことが祭司の役割だったのです。馬鹿げていると思うでしょうが、ある意味、それは効果があるのです。そこに何らかの現実性がなければ、人々は何千年も同じ方法を使ってこなかったでしょう。

次に、占いを見ていきましょう。運勢判断とも呼ばれるものです。これは魔術の知識の要素です。それが生み出すものは力ではなく、最初に人を罪に導いた「知識」です。使徒の働き 16 章に非常に明確に描かれています。使徒の働き 16:16 以降です。これは、パウロとシラスがピリピで最初に福音を宣べ伝えるために着いたときに起こったことです。

「私たちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。」

ギリシャ語では、実際には「ニシキヘビの霊を持った」、あるいは「ニシキヘビの霊」と言っています。つまり、蛇の霊です。蛇は常に異教社会において、特別な知識や知恵の源であると見なされてきました。アメリカのワシントンDCに非常に有名な女性占い師がおり、彼女は自伝の中で、一匹の蛇が彼女のベッドに入って来たときにその力を得たと言っています。

私は、使徒の働き 16 章の若い女奴隷が言ったことは、まったくの真実であるということを言いたいのです。彼女は自然な方法でそれを知ったのではなく、超自然的な方法によって知りました。彼女は単なる女奴隷でした。

「この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者であった。彼女はパウロと私たちのあとについて来て、『この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです』と叫び続けた。」(16-17 節)

驚きです。これはまったくの真実です。私は時に、現在の宣教において、この女性は教会の永久雇用会員とされるのではないかと言ったりします。彼女は、パウロとシラスが何者であるのかを認識した最初の人でした。しかし、パウロはそれが神の霊ではなく、占いの霊であることを知っていました。最終的にパウロは振り返って、イエスの御名によってその霊に出て行けと命じました。そして、その霊は出て行き、彼女はもはや占いをすることはできなくなりました。彼女の主人たちは、儲ける手段を失ったことに腹を立て、パウロとシラスを長官の前に連れて行きました。その後の話は知っていると思いますが、たった一人の女奴隷が占いの霊から解放されたことで、その町全体は大騒ぎになりました。この時、パウロは自然界の物理的なレベルでサタンの王国に対処しただけではありません。教会を攻撃する戦略が頓挫したために空中のサタンの王国が介入してきたことにも対処しました。驚くべきことに、パウロが行く先々のほぼすべての町で騒動が起こりました。のちに、第二コリントでパウロは言っています。「サタンさえ光の御使いに変装するのです。」それはまさに正しいと思います。比喩ではありません。パウロが行ったすべての町には、騒動を企てたサタンの使いがいました。では、なぜ私たちには騒動がないのでしょう。私たちは十分にサタンを煩わせていないのかもしれません。教会が本来あるべき姿になれば、もっと多くの騒動があると私は信じます。またリバイバルも多くあるでしょう。騒動なしに、どれだけのリバイバルが起こるでしょうか。ですから、リバイバルに見合う騒動があることを覚悟しましょう。

それから、白魔術があります。私が思うに、常にではありませんが、それらの薬やお守り、幸運をもたらすと言われている物を通して働くもので、すべてオカルトです。人々は自分に幸運をもたらしてくれる物を持ち歩きます。また、媚薬を通しても働きます。これは非常に一般的なことです。「あの人からの好意を得たいから、呪術師のところへ行って媚薬をもらおう。それを食事に入れたら、彼は私を好きになるはずだ。」そして、もちろん、ある程度それは効果があるのです。

妻と私が他のクリスチャンたちとザンビアにいたときのことです。私たちは、不妊症で子どもができない女性たちのために祈ってほしいと頼まれました。アフリカ人にとって不妊は実に悲劇なのです。およそ 400 人の女性が私たちの前に集まりました。私たちが祈る前に、誰かが彼女たちに質問をしました(その女性たちはみなクリスチャンでした)。「みなさんの中で不妊解消のために呪術師から薬をもらった人はどれぐらいいますか。」すると、2人を除いて全員が手を挙げました。このように、私たちが取り扱っていることは、稀で珍しいものではありません。

白魔術はまた、音楽を通しても働きます。ルシファーが天で音楽を担当していたことを覚えていますか。彼は音楽についてよく知っており、音楽が持つ力を知っていました。現代音楽の多くに見られる「アシッド・ロック」(ドラッグとの関わりが背景)と呼ばれる進化系ロックなどは単なる白魔術です。それを 1 時間聴いている若者を観察すると、目はうつろで現実との接点を失ってしまっています。

そしてもう一つの白魔術の主要な枝は、ドラッグです。ギリシャ語で魔術を意味する語はドラッグ(麻薬)から直接来ており、アシッド・ロックにつきもののドラッグ・カルチャー全体は、私たちの文化の中で働く魔術の明らかな例です。そしてそのほとんど全員が、イエスのもとに来るときにその力から解放される必要があります。事実、私自身も、悪霊への対処法を理解しないまま、そのような特定の社会階層の人々に働きかけることには無意味だと思うようになりました。

黙示録 9:21 節の一つの魔術の様子を少し見てみましょう。これは、神のさばきが現れて不法な人々に降りかかるという、人類の歴史における将来の場面が描かれていると思います。20 節と21 節です。

「これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。」

魔術という言葉は、ある翻訳では「ドラッグ(麻薬)」と訳されています。ドラッグと魔術が一緒になると、性的不道徳や暴力が起こります。現代文明における暴力の急増は、おもに魔術の仕業です。ですから、あなたがそれについて祈る時、その枝の部分だけではなく、その根の部分にも対処しなければなりません。

さて、このテーマの三番目の領域である、教会内での魔術について話しましょう。一部のクリスチャンにとっては、いったい何が起きているのか分からない領域です。ガラテヤ 3:1-5 を開きましょう。

「ああ愚かなガラテヤ人。...だれがあなたがたを迷わせたのですか。」

その事実を深く考えたことがありますか。彼らはカリスマ的なペンテコステ派のクリスチャンでした。彼らは主を知り、救われ、聖霊を受け、奇蹟を証ししていた人たちでしたが、彼らは迷わされたのです。迷わせるとは、標準ギリシャ語で「魔術をかける」という語です。興味深いことに、その語は今も現代ギリシャ語で使われています。vaskania という語は、現代ギリシャ語で「災いの目」という意味です。私がそれを知ることになったのは、数年前に主イエスに出会ったギリシャ正教の祭司が私のところに来て、「私のために祈ってください。私は、この vaskania から解放されたいのです」と言ったからです。それは、ここで使われているのと全く同じ語です。

「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。」

パウロは、魔術が働いていることをどうやって知ったのでしょう。その証拠は何だったのでしょう。非常に重要です。魔術が、十字架に架けられたイエス・キリストについて彼らが受けた啓示を覆い隠していたのです。それが、教会に対する魔術の最大の目的です。十字架のイエス・キリストの現実を隠すことです。

続きを読んで、何が起こったかを見てみましょう。

「ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。あなたがたがあれほどのことを経験したのは、むだだったのでしょうか。万が一にもそんなことはないでしょうが。とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行われた方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。」

「ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。あなたがたがあれほどのことを経験したのは、むだだったのでしょうか。万が一にもそんなことはないでしょうが。とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行われた方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。」

「というのは、律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。『律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。』」

つまり、パウロは、「律法を守ることによって義を達成するやり方に戻ってしまうなら、常にすべての律法を守らなければ、呪いのもとに置かれることを覚えておきなさい。なぜなら、イスラエルがカナンの地に入る時、最初にしなければならなかったことの一つが、常に律法全体を守らなければ、彼ら自身に呪いが臨むと宣言することだったからだ」と言っているのです。このように、律法の一部分を時々守っても意味がありません。律法を守ることで義と認められようとするなら、常にすべての律法を守らなければなりません。神の目から見て私たちは誰一人として、律法の行いによって義と認められることはありません。それはサタンの惑わしです。人間の高ぶりに訴える惑わしです。パウロが言っているように、アブラハムが行いによって義とされたのであったなら、彼は何か自慢できることがあったでしょう。しかし、神の前ではそうではありません。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」と言われています。要するに、私たちはみな、自慢できるものが欲しいのです。何らかの方法で他の人より少しでも義でありたいと思うのです。そして、自分が守っている一連のルールがあれば、何とかして自分を義だと思い込ませることができるのです。

何年も前、私はイギリス軍に所属していたときに主に出会い、主の証人となりました。私は仲間の兵士たちとは全く違う生き方をしていたので、多くの兵士が私に話しかけてきました。私は彼らに、「私は宗教的になったのではなく、救われたのです」と言って、救いについて彼らに話しました。すると、ほとんどの人が、自分が守っている規則のリストを私に教えてくました。一人ひとりが自分の生活に合わせたリストを持っていました。つまり、神の求める義に直面した人の最初の反応は、「私は律法を守ります」というものです。私が様々な場所で、「キリスト教は規則ではない」と言うと、クリスチャンたちは驚きます。しかし、それを変えてしまうなら、私たちは十字架のビジョンを失ってしまうのです。そして神の力を失ってしまいます。

さて、なぜサタンは十字架を曖昧にしたいのでしょうか。私の意見を述べさせてください。私自身、世界中のほとんどの地域を旅し、様々な背景を持ったクリスチャンに関わっていますが、教会には 2 つの主要なニーズがあると思います。第一に、イエスの十字架の中心性を本来の位置に回復することです。十字架こそが、他のすべての宗教とキリスト教を完全に区別するものだからです。他の宗教にはそのようなものはありません。十字架とその独自性を失ってしまうとき、私たちは一連の規則やルールによる生き方に戻ってしまいます。それが人間の心理です。心理学は何が間違っているかを教えてはくれますが、正しいことを行わせることはできません。正しいことを行わせる力は、十字架という源からしか得られません。

さて、なぜサタンは十字架を曖昧にしたいのでしょうか。私の意見を述べさせてください。私自身、世界中のほとんどの地域を旅し、様々な背景を持ったクリスチャンに関わっていますが、教会には 2つの主要なニーズがあると思います。第一に、イエスの十字架の中心性を本来の位置に回復することです。十字架こそが、他のすべての宗教とキリスト教を完全に区別するものだからです。他の宗教にはそのようなものはありません。十字架とその独自性を失ってしまうとき、私たちは一連の規則やルールによる生き方に戻ってしまいます。それが人間の心理です。心理学は何が間違っているかを教えてはくれますが、正しいことを行わせることはできません。正しいことを行わせる力は、十字架という源からしか得られません。

私はそのように分析しました。この分析を用いるなら、あなたが密接に関連している多くの事柄において、あなたの態度や視点が完全に変えられるでしょう。なぜなら、サタンは暗闇で活動することを好むからです。自分がしていること、どのようにしているかを知られたくないのです。今、このメッセージを語っていることで私は個人的に大きな攻撃に直面していますが、その理由は分かっています。サタンが明るみに出したくないものを明るみに出しているからです。肉の行いとしての自然界での魔術の性質でも、超自然界での魔術の性質でもです。そして、サタンが最終的に望むことは、魔術が教会の中で働いていることをクリスチャンに悟らせることです。

サタンが十字架を曖昧にしたい 3 つの理由を挙げましょう。一つ目は、十字架は神が贖った人々に対する神のすべての備えの唯一の土台だからです。それ以外に土台はありません。へブル 10:14 はこう言っています。

「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」

イエスの十字架での犠牲により、神は歴史のどの時代のどのような人間にも、必要なことをすべて成し遂げてくださいました。それはすべて十字架によってなされました。

私たちは十字架へと近づいていきます。私たちはきよめられ続けています。イエスが成されたことは完全で完成しています。しかし、私たちの十字架の適用は進歩的なものです。私を含めて、これを聞いている人の中で、十字架によって得られるすべてのものを手に入れた人はいないでしょう。しかし、私たちが聖化のプロセスを経て聖なる者とされ、神と一致し、神の視点で考え、神の道を歩むなら、私たちはますます多くのものを手に入れることができるでしょう。しかし、魔術が入り込むなら、魔術によって十字架が曖昧になり、王の子どもとして生きるべきなのに、物乞いや貧民のような生き方をするようになります。なぜなら、神が備えてくださったすべての恵みは、十字架によってのみ私たちにもたらされるからです。

サタンは実に抜け目がありません。サタンは何を攻撃すべきかを正確に知っています。十字架を曖昧にすることができるなら、教会を思うままにできることを知っているのです。

2つ目の理由は、十字架がサタンの完全な敗北の手段だったからです。すべての聖句を説明する時間はありませんが、イエスは十字架を通して完全に、そして永遠に撤回できない敗北をサタンに与えました。サタンはそれを変えることはできません。サタンができることは、その事実を私たちから隠し、私たちのために勝ち取られた勝利を私たちに気づかせず、勝利の中を歩まないようにさせることです。

3 つ目の理由は、十字架が真のクリスチャンとして生きるための唯一の力の源であるということです。山上の説教をいくらでも引用することができます。また様々な精神科医も、それこそ人が生きるべき道だと言うかもしれませんが、私たちがそのように生きることを可能にするのは、十字架のイエスの犠牲を知ることによってだけです。なぜなら、イエスの十字架は古い人、すなわち肉の性質を処理したからです。パウロは、「私たちの古い人はイエスとともに十字架につけられた」と言っています。彼はその少し後のガラテヤ人への手紙で、「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を様々の情欲や欲望とともに、十字架につけた」と言っています。あなたは自分の肉の性質を十字架につけることを学ぶまでは、肉の性質があなたを支配します。あなたはそれを治めることはできません。パウロはローマ 6 章で言っています。「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためである。」それが十字架の備え、恵みです。

以前もお話ししましたが、私は英国国教会の出身です。それを通して多くの素晴らしいことが私に起こったことを神に感謝します。しかし、ずいぶん昔、毎週日曜日の朝 11 時 15 分に一般告白という習慣があり、その中で言っていたことの一つに、「惨めで哀れな罪人である私たちをお赦しください」というのがありました。これを聞いておられる人の中でもそれに感謝する人もいるでしょう。私は周りの人々を見て、「確かにいい表現だ」と思いました。しかし、私は自分に問いかけました。「もし宗教が自分を惨めな罪人にするだけなら、何の意味もないのではないか。」そして私の最終的な結論は、「宗教がなくても罪人になれるし、そんなに惨めな思いをしなくてもいい」というものでした。ですから、私はその告白をしませんでした。もう一つ自分に問いかけたことは、「日曜日に自分の罪を告白しても、今週も出かけたら、同じ罪を犯すだろう。これからも犯すであろう罪の告白は、神に喜ばれることなのか」でした。私は不誠実だったのではなく、ただ無知だっただけです。私の中の古い反抗を死につけるための備え、それが十字架であることを知らなかったのです。

では、私が書いたメモを読み上げましょう。「魔術は、十字架から来る力の代わりに、肉的な努力と律法的な手段を用いる。10 個の規則を作っても、人々はそれを守らない。そこで、規則を20に増やすが、守る人はまだ少ないので、40 の規則を作る。しかし、いくら規則を作っても、人々を義人にすることはできない。」現在のユダヤ教には 613 の戒律があります。私の孫の一人は、非常に宗教色の強い正統派ユダヤ教のグループに属しており、彼らは、「私たちはその中の 32 の戒律を守っている」と言います。それは誰よりも多いそうです。実際、あらゆる規則を作っても、それらを守ることができません。律法に戻ることは、私たちの生活の中に魔術の影響を与えることになるのです。私は個人的に、ほとんどすべての主要な教派でそれが起こっていると思います。私への反論もあるでしょう。しかし、教会で神の生み出した大きな働きは、意義ある活発な力強いものでしたが、一世代か二世代の内に十字架のビジョンを失い、肉的な努力と規則、組織などのようなものに走ってしまったように思います。

エレミヤ 17:5 を引用して締めくくりましょう。

「主はこう仰せられる。『人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。』」

これが、魔術が教会にもたらす呪いです。私たちは神の超自然的な恵みと力をもはや信頼せず、自分たちの努力でできる最善のことを信頼してしまうのです。

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