今日は、I歴代誌 28:20 を宣言して始めましょう。ダビデがソロモンに宮を完成させることを指示したところです。 「あなた」となっている箇所を、「私たち」に言い換えて宣言しましょう。それが、宣言の機能の一つ、みことばを個人的なものとさせます。

「強く、雄々しく、事を成し遂げなさい。恐れてはならない。おののいてはならない。神である主、私たちの神が、 私たちとともにおられるのだから──。主は、私たちを見放さず、私たちを見捨てず、主の宮の奉仕のすべての仕事を完成させてくださる。」 アーメン!

では、へブル 6:1-2 にある 6 つの基礎の教理を続けましょう。私たちは最初の 3 つについて話してきました。死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いです。きよめ洗いの教えに関して、新約聖書が教えている 3 つ のバプテスマについて語りました。バプテスマのヨハネのバプテスマ、水によるクリスチャンのバプテスマ、聖霊のバプテスマです。

それら 6 つの基礎の教理の 4 つ目の手を置く儀式に入っていきましょう。このメッセージのタイトルを、「神の力を伝える」と表現しましょう。

多くの人が、手を置くことが基礎の教理に含まれていることに少し驚かれるかもしれません。なぜなら、最近のほとんどの教会では語られることが少ないからです。しかし、ちょっと考えてみると、それはとても論理的でなければならないものです。なぜなら、手を置くこと、神の力と権威を伝え移すことは、キリストのからだへのつながりをもたらすことだからです。それは、主任牧師とユースパスタ―をつなぎ、一つの世代から次の世代へとつないでいくものです。ですから、この「手を置く」という奉仕の機能は、キリストのからだのつながりというか、連続性を生み出すものです。伝統的に、それが使徒ペテロの日から現在まで守られてきたと主張している教会があります。私はその主張のことではなく、「手を置く」ことの背後の根拠が理論的であることを言っているのです。私たちは、世代から世代へと、またミニストリーからミニストリーへと引き継がれる方法が必要であり、その方法が、この手を置くという儀式として聖書に提供されています。

それは聖書の最初の書から見られ、神の民の歴史全体まで続いていることは興味深いです。神の民の歴史には不可欠な要素なのです。

それには、霊的な目的が確かに含まれているでしょう。第一に、誰かに手を置くことは、自然な人間の反応だということです。赤ちゃんに熱があったら、母親はほぼ理由もなく赤ちゃんの額に手を置くでしょう。あるいは、長い間会っていなかった 2 人は互いの肩に手を置くか、握手をするか、どちらにしても手によってつながります。手は、人と人が互いにつながりを作る主な方法の一つです。霊的文脈において、完成された特定の目的があることをお伝えします。

霊的文脈において、完成された特定の目的があることをお伝えします。第一に、伝えることです。聖書には、祝福、 権威、知恵、聖霊、霊的賜物、奉仕を伝えるために用いられた手を置く儀式が見られます。

第二に、委任です。キリストのからだにおける奉仕の場所を、ある人に委任する聖書的方法です。それ自体、神の任命を承認するものです。教会のことは投票で決めるものではないことを理解する必要があります。神は投票を求めておられません。多くの教会が役員や牧師のための投票、その他の役割のための投票をしますが、それは実は聖書的ではありません。任命をされる方は神です。イエスさまは弟子たちに言いました。「あなたがたが私を選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び...」私はすべての働きやミニストリー、教会での任命においてそれは真理であると信じます。ご自身のからだであるイエス・キリストが教会のすべてのかしらなので、人ではなく、神が選ぶのです。私は、イエスの権威によらない任命は全く妥当ではないと考えます。しかし、任命が人を特定のものにさせるのではなく、神がその人がそうであるべきと決めたことを認めるものだと思います。役員について話し合う教会のミーティングの中にあなたがいるなら、あなたの目的は、あなたが役員として誰になってもらいたいかを決めるのではなく、神が役員として選んだ人を決定するためであると思います。それは全く別の態度です

私たちは、どういうわけか、聖書や教会でわずかにしか見られない民主主義にむしばまれています。それは議論の的になり、その議論について話す時間もないので、これ以上深入りしません。

第二に、手を置くことが特定の任務や奉仕のために分けるために使われることを認識することです。

第三に、支持、推薦、あるいは、権威を与えるために用いられます。

第四に、整えるためで、霊的賜物や霊的権威、その他神が任命した働きを行なうためにその人に必要なものを与えるためです。

重要なことですので、復習しておきましょう。人々を任命するときに「手を置く」ことの機能は、承認するためですが、 神の選びの人を指名するのではなく、特定の働きのために人を遣わすためです。権威をもってその人を承認することです。その人に必要なすべての霊的権威や霊的賜物が整えられるように、用いられるものです。

いくつかの例を見てみましょう。一つ目は、旧約聖書からです。創世記 48:8-20 節までを開いて下さい。とても興味深い箇所です。ヨセフは父ヤコブに祝福してもらうために、二人の息子をヤコブのところに連れてきました。神ご自身の祝福の次に願う祝福は、父あるいは祖父からの祝福ではないかと私は思います。聖書を読むと、とても重要なことは、父の祝福を受けることであるのがわかります。 まず 8-11 節を読みます。

「イスラエルはヨセフの子らに気づいて言った。『これはだれか。』ヨセフは父に答えた。『神がここで私に授けてくださった子どもです。』すると父は、『彼らを私のところに連れて来なさい。私は彼らを祝福しよう』と言った。イスラエルの目は老齢のためにかすんでいて、見ることができなかった。それでヨセフが彼らを父のところに近寄らせると、 父は彼らに口づけし、彼らを抱いた。イスラエルはヨセフに言った。『私はあなたの顔が見られようとは思わなかったのに、今こうして、神はあなたの子どもをも私に見させてくださった。』」

私の涙を誘うものの一つが、神の忠実さです。それは悲しみではなく、神の忠実さを思うと、涙があふれてきます。 12 節。

「ヨセフはヤコブのひざから彼らを引き寄せて、顔を地につけて、伏し拝んだ。」

聖書の中の人物が両親や長老のために示している尊敬の態度に注目してください。13-14 節。

「それからヨセフはふたりを、エフライムは自分の右手に取ってイスラエルの左手に向かわせ、マナセは自分の左手に取ってイスラエルの右手に向かわせて、彼に近寄らせた。すると、イスラエルは、右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。マナセが長子であるのに、彼は手を交差して置いたのである。」

すると、イスラエルは、右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。マナセが長子であるのに、彼は手を交差して置いたのである。」

「それから、ヨセフを祝福して言った。『私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。すべてのわざわいから私を贖われた御使い・・・』」

ヤコブがわざわいから贖われたのは、どこで起こりましたか。ヤコブは、ペヌエルで御使いに会った時のことを言っているのです。続けて読みます。

「この子どもたちを祝福してください。私の名が先祖アブラハムとイサクの名とともに、彼らのうちにとなえ続けられますように。また彼らが地のまなかで、豊かにふえますように。」

名前を伝えることが、どれほど重要かお分かりになるでしょう。今日、多くのものがすたれていきますが、神のものは決してすたれることがありません。17 節-20 節

「ヨセフは父が右手をエフライムの頭の上に置いたのを見て、それはまちがっていると思い、父の手をつかんで、それをエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。ヨセフは父に言った。『父上。そうではありません。こちらが長子なのですから、あなたの右の手を、こちらの頭に置いてください。』しかし、父は拒んで言った。『わかっている。わが子よ。私にはわかっている。彼もまた一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々を満たすほど多くなるであろう。』そして彼はその日、彼らを祝福して言った。『あなたがたによって、イスラエルは祝福のことばを述べる。“神があなたをエフライムやマナセのようになさるように。”』こうして、彼はエフライムをマナセの先にした。」

それは非常に鮮明なシーンですね?ご覧の通り、それは非常に正確です。父の右手からの大きな祝福があることが理解されていました。しかし、それは非常にリアルで、何かの本当の伝達がありました。それは単なる形式的なものではありませんでした。儀式のためだけではなく、エフライムとマナセの二人の若者の人生において重要な取引でした。それは彼らの運命をその後決定づけるものでした。

ですから、「手を置く」ことが聖霊によるものであるとき、その意義と重要性を軽く考えないでください。

それでは、民数記27章を見てみましょう。モーセが自分に従う指導者を任命するように、主に申し出ている場面です。モーセは、自分が約束の地に入らないことを知っていましたが、神の民イスラエルのことを非常に心配していました。ですから、民数記 27:15 で主にこのように言っています。

「それでモーセは主に申し上げた。『すべての肉なるもののいのちの神、主よ。ひとりの人を会衆の上に定め...』」

主はすべての肉なるもののいのちの神であるということは、とても重要であると思います。すべての人の霊を知っておられる神です。

「すべての肉なるもののいのちの神、主よ。ひとりの人を会衆の上に定め、彼が、彼らに先立って出て行き、彼らに先立って入り、また彼らを連れ出し、彼らを入らせるようにしてください。主の会衆を、飼う者のいない羊のようにしないでください。」

聖書全体の始めから終わりまで、羊飼いのいない羊は散らされ、えじきとなると書かれています。聖書全体が繰り返しそのメッセージを語っています。状況が特別でない限り、みなさんひとり一人には、あなたのたましいを養い育てる人間の羊飼いがいるべきです。これは非常に、非常に、重要なことです。

さて、主はどのようにモーセに応答していますか。

「主はモーセに仰せられた。『あなたは神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを取り、あなたの手を彼の上に置け。彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、彼らの見ているところで彼を任命せよ。あなたは、自分の権威を彼に分け与え・・・』」

私はこの部分が好きです。モーセのすべての権威ではなく、いくらかを分け与えるのです。モーセは特別な権威を持っていました。ですから、ヨシュアに必要な、モーセの権威を分け与えなさいということです。続けて読みます。

「あなたは、自分の権威を彼に分け与え、イスラエル人の全会衆を彼に聞き従わせよ。彼は祭司エルアザルの前に立ち、エルアザルは彼のために主の前でウリムによるさばきを求めなければならない。ヨシュアと彼とともにいるイスラエルのすべての者、すなわち全会衆は、エルアザルの命令によって出、また、彼の命令によって、入らなければならない。

全ての会衆。

「モーセは主が命じた通りに行った。彼はヨシュアを連れてエレアザル祭司の前と全ての会衆の前に立たせた。そして彼は彼に手を置き、主がモーセの手によって命じた通りに彼を任命した。」

彼らが 40 年間従ってきたモーセから後継者へと、権威が分け与えられるのを全会衆が見なければなりませんでした。それは、すべての神の民の幸福のために重要な引き継ぎでした。

さらに、それは単なる儀式ではなく、ヨシュアに実際に起こったことです。申命記34:9 に興味深い記事があります。

「ヌンの子ヨシュアは、知恵の霊に満たされていた。モーセが彼の上に、かつて、その手を置いたからである。」

手を置くことによってヨシュアが受けたものは何でしたか。知恵の霊です。単なる形式や儀式ではなく、真の分与です。

旧約聖書のもう一つの例を見てみましょう。II列王記 13 章です。これは、エリシャの奉仕の終わりの場面です。エリシャは死んで葬られましたが、略奪隊がイスラエルに侵入し、ある人が別の人を埋葬しようとしていたときに略奪隊を見て驚き、その人は、その別人の遺体をエリシャの墓に投げ入れて去って行きました。その遺体がエリシャの骨に触れたとき、その人は生き返ったのです。神の力は実に様々で奇妙な方法で分け与えられます。II列王 13:14を読みましょう。

「エリシャが死の病をわずらっていたときのことである・・・」

これが私の言わんとしていることで、あなたの期待しているものではないでしょう。エリシャは病気で死にましたが、彼の骨は神の力で満たされ、死人がエリシャの骨に触れたとき、その死人は生き返りました。あなたは、それを説明することができません。私たちには説明できないことがあるのです。

神がなさることすべてに、いちいち説明を求めようとする人がいますので、このことを簡単に分かち合わせてください。何年か前、南アフリカで妻と私が、ある教会で奉仕をしていたとき、知り合いの若い牧師がスポーツをしていて腕を 4 か所骨折しました。彼が祈ってほしいと来たので、私はこう言いました。「ちょっと変だと思うかもしれけれど、神がそうするように示されたので、あなたの脚を見せてくれませんか。もし、あなたの片方の足が短いなら、神があなたに触れてくださって、その足は伸びます。」そしてさらにこう言いました。「神に感謝する時に十分に注意してください。」人は、本当の必要がある時、他の時にはしないような奇妙なことをしようとします。それで、彼はこの変なこと、つまり私が彼の短い方の脚を持つと、伸びたのです。神が彼に触れてくださったのです。彼は病院に行ってレントゲンを撮りました。これは私には説明できませんが、腕が 4 か所折れていましたが、そのうちの 3 か所は完全にいやされており、4 本目はなお骨折したままでした。主任牧師は私に、「どういうことか説明してください。」と聞きましたが、私には説明できません。彼は75%つまり、四分の三の信仰があったとも言えるでしょうが、納得できる説明ではありません。私は、神がなさることの一つ一つに説明を求める人々に飽き飽きしています。神がなさることの多くは説明ができないのです。それが神の領域であることを私は喜んでいます。

では、先ほどの話に戻りましょう。

「イスラエルの王ヨアシュは、彼のところに下って行き、彼の上に泣き伏して、『わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち』と叫んだ。」

これは、エリヤが馬車によって引き上げられる時(II列王記2:12)、エリシャが言ったことと同じことばです。そして、それには、実に私たちすべてのためのメッセージが含まれています。神を本当に知っている人は、国を守ることができ、その人は、軍よりも強いのです。そして、ヨアシュは神のような王ではありませんでしたが、彼はエリシャがイスラエルにとって重要であったことを認識していたのです。

「エリシャが王に、『弓と矢を取りなさい』と言ったので、彼は弓と矢をエリシャのところに持って行った。彼はイスラエルの王に、『弓に手をかけなさい』と言ったので、彼は手をかけた。すると、エリシャは自分の手を王の手の上にのせて、『東側の窓をあけなさい』と言ったので、彼がそれをあけると、エリシャはさらに言った。『矢を射なさい。』彼が矢を射ると、エリシャは言った。『主の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを打ち、これを絶ち滅ぼす。』」

そして、王は矢で 3 回打って、3 度アラムを打ち負かしたことが書いてあります。エリシャは、もっと打つべきだったと、 彼に怒っています。しかし、言いたいことは、エリシャは王が弓を手にしたとき、自分の手を王の手にのせて、弓に力を与えたことです。それは、霊の領域ですが、一人の人がもう一人の人に手を置くときに何か実際的なことが起こるということを表わしています。

では、「手を置く」ことについて、新約聖書が示している目的について考えてみましょう。まず、病人をいやすためです。イエスはマルコ 16:17-18 で弟子たちに命令を与えたとき、このように言っています。

「信じる人々には次のようなしるしが伴います・・・」

それらのしるしの 5 つ目は、

「・・・病人に手を置けば病人はいやされます。」

言い換えると、病人に手を置くことは、神の癒しの働きの方法です。

ヤコブ 5:14 にもう一つの儀式が書かれています。

「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。」

病人のために祈る、病人に手を置いて祈ることは似ていますが、油を塗って祈るとあります。みなさんもご存知だと思いますが、油は、常に聖霊の型です。油がいやしをもたらすのではなく、その儀式を通して病人のからだの中に聖霊を解き放つ象徴です。

さて、少しお聞きしましょう。単に手を置くことと、油を塗って手を置くことの違いは何でしょうか。これはとてもよく似ていますが、油を塗らずに手を置くことは、教会員ではない人のためであると言えます。しかし、教会員のためには、油を塗ることを含めます。また、新約聖書は通常すべての信者が教会につながるべきであるということで、「あなたがたクリスチャンの中に病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。」ということなのです。あなたが日曜日の朝教会へ行って、夕方別の教会に行くなら、あなたはどちらの教会の長老を呼びますか。また、もしあなたに招くべき長老がいないなら、病気の時はどうしますか。新約聖書は、様々な例外を除き、信者は教会の一員となり、リーダーシップに知られ、その人もリーダーシップを承認し、リーダーシップが彼に働きかけるようにすることを前提としています。

その他のことについて少しお話ししましょう。今日のテーマではありませんが、黙示録2-3章で 7 つのメッセージが7 つの教会に送られています。教会にだけ送られているのです。教会にいない人はそのメッセージをもらうことができません。神はそのことを強調してほしいと願っておられると私は感じます。みなさんの中には。山のやぎのように、群れから離れ、羊飼いのいない人もいるのではないでしょうか。それは危険なことです。人間の権威にあなた自身を従わせることは謙遜になることで、神はその謙遜さを祝福し、高慢を退けられます。あなたはどちらかを選ばなければなりません。

それを適用できない例外の状況があります。あなたがその規定の中に入れるなら、例外とはならないでください。

手を置く儀式の次の目的は、御霊の賜物を分け与えることです。まず使徒の働き8章に、ピリポがサマリヤに行ってキリストを宣べ伝え、しるしと奇跡を行ない、信じたその町の人がみなバプテスマを受けたという箇所です。彼らは救われたのです。なぜなら、イエスは、「信じてバプテスマを受ける者は救われる。」と言われました。しかし、使徒たちは何か欠けているものがあるとわかっていたので、あまり喜んではいませんでした。使徒の働き8:14-16です。

「さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。」

聖霊を受けていなくても救われることは可能です。聖霊はナイアガラの滝のように上からあふれるように下ってきます。

17 節です。

「ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。使徒たちが手を置くと御霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、『私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい』と言った。」

このように、使徒たちの手が置かれることによって、聖霊が与えられました。

そして次の章でサウロがダマスコへの途上でイエスに出会ったあと、目が見えなくなり、3 日間断食し、使徒でも預言者でもない、単に弟子にすぎないアナニヤが、主からの導きによりサウロのいた家に行き、彼のために手を置いて祈りました。すると、サウロは目が見えるようになり、聖霊を受け、バプテスマを受けました。手を置いて祈ることは、ただ特別な働きをする人々だけのものではないことを理解してください。神のみこころは、どのような人も、他の人のために手を置くために導かれます。

妻はオフィスに座っているとき、ある信じられない話を私に思い出させました。私たちがハワイのコナにいたとき、私はとても体調が悪く、なかなか回復しませんでした。私たちが大通りを歩いていると、一人の男性が私たちの方へ走ってきて、「私は病気なのです。祈ってくれませんか。」と言ったのです。私が「どうしたのですか。」と聞くと、彼は「感電したのです。」と答えました。彼は電気工で、感電したということです。彼の肩は麻痺していて、手を上にあげることができませんでした。ですから、私は躊躇しましたが、彼がしつこかったので、私たちはレストランの前の通りの真ん中で立ち止まって祈りました。妻が彼の肩に手を置きました

翌日、ユース・ウィズ・ア・ミッションのデボーションで、彼は自分の手を頭の上にあげていました。彼は手を置くということを通して奇跡を体験しました。

のちに、彼は私たちがアリゾナで奉仕していたときに会いに来て、病院に検査に行ったときのことを話してくれました。 医者は、「肩を検査したが、もう二度と頭の上まで腕を上げることはできないでしょう。」と言ったそうです。これは、手を置くことによって起こったことの単なる一例にすぎません。

再びエペソ書です。前に別の背景でここを見ました。パウロがエペソに着き、ある弟子たちに会いましたが、彼らはバプテスマのヨハネの弟子でした。パウロが福音を説明し、彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受け、パウロが手を置くと、彼らは異言を語り、預言したのです。ですから、手を置くことは、聖霊の力を分け与える、とても霊的な方法なのです。

実は、新約聖書には聖霊が与えられる5 つの主おもな例があり、とても興味深いです。そのうち 2 つのケースは、ペンテコステの日と、コルネリオの家でのもので、神から権威的に与えられたものでした。他の 3 つのケースは、タルソ人のサウロがいたサマリヤとエペソで起こり、手を置くことによって聖霊が与えられました。ですから、それは神の導きの方法です。私は文字通り三千人の人々に聖霊のバプテスマを授ける特権にあずかってきました。私の特定の強みは、人々が主を求めている時、信じるように導き、その人々が受け取ることです。私は人々に手を置くこともありますが、いつもではありません。また、神の恵みによって、私は何千人もの人々が主から直接聖霊を受けるのを見てきました。

先へ進みましょう。手を置くことの次の目的は、教会のしもべたち、つまり役員を任命することです。教会によっては、役員というギリシャ語が「しもべ」であることを知ったら、呼び方を変えてしまうのではないでしょうか。つまり、ある教会では、役員会は権威の多くを持っています。しかし、もしそれがしもべ会と呼ばれるとしたら、どうでしょうか。そう、私たちは、専門用語のいくつかを混同してしまったのです。

妻と私が、以前パキスタンの入国審査を通過した時のことです。そのパキスタン人の入国審査官に、「あなたの職業は何ですか。」と聞かれました。そこはイスラム教の国ですので、かなり注意する必要があると思っていました。考えた末、私は、「ミニスターです。」と答えました。それは、ほとんどの人が良く知らない用語なので、安全だろうと思ったのです。その後私はどこに行っても大変なもてなしを受けました。列の先頭に案内されるといったようなことです。後に私は、審査官は私がアメリカ政府の大臣だと思ったのだと気づきました。このように、ミニスターは、本来の意味である「しもべ」からかけ離れてしまっています。

もしあなたがミニスター、つまり牧師でいらっしゃるなら、あなたはしもべです。主のしもべであり、主の民のしもべなのです。

さて、使徒 6 章を見ると、教会は良い意味で問題が生じました。あまりにも早く教会が成長したので、必要の多い貧しい人や未亡人の世話ができなくなっていました。

新約聖書の教会についてもう一つお話しします。彼らは、常に未亡人(やもめ)の世話の責任を引き受けており、それは当然のこととしていました。今日の問題は、教会がその責任にちゃんと気づいていない多くの機能を、政府に任せてしまっていることです。しかし、責任が実行される方法がどうであれ、教会は貧しい人たちに対する責任があると私は信じています。

さて、信者たちは使徒たちのところへ来て、「物事がちゃんとできていなくて、未亡人たちがなおざりにされている。」と言いました。そこで使徒たちは、「わかりました。方法を考えましょう。」と言いました。それは、かなり深刻な状況でした。十二使徒は、弟子たち全員を集めて言いました。

「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」

使徒的な奉仕とは何でしょうか。祈りとみことばの奉仕です。それは運営管理的なものではありません。彼らは、運営管理には他の人たちを選び、使徒たちは自分たちの責任にもっぱら励むと言いました。ですから、彼らは、「あなたがたの中から・・・七人を選びなさい。」と言ったのです。その人たちは、御霊に満ちた人たちでなければなりませんでした。初代教会では、役員になるにも、聖霊に満たされた人でなければなりませんでした。

使徒たちは、経済の管理もしなければならなかったので、それは使徒たちの知恵によるものでした。会衆の中から人を選び、みながその人々を承認し、任命し、事務に当たらせました。会衆は、自分たちが選んだ人たちなので、後になって不満を言うことは決してありませんでした。神は何と知恵に満ちた方でしょうか。

聖書は、その人たちを使徒たちの前に立たせ、使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた、と言っています。使徒たちが彼らを任命しました。あなたはそれを役員と呼びたいかもしれませんが、そこでは役員という言葉は使われていません。むしろ、助け手と呼んだ方がいいと私は思います。使徒たちは、自分たちが忙しくなってきたので、助け手が必要だと言ったのです。

助け手の立場は、非常に重要です。その 7 人のうちの 2 人に起こったことを見ると興味深いです。ステパノは最初の殉教者となり、ピリポは神が認める伝道師となりました。ですから、みなさん、あなたがしもべの立場から始まるなら、 次の段階への足掛かりとなり得ることを覚えておいてください。事実、神は、はしごの一番下から始める人だけを後押しするので、あなたがしもべの立場から始まらないなら、神からの後押しは決してないでしょう。

手を置く次の目的は、使徒たちを派遣することです。新約聖書に、使徒は十二人しかいないと思っている方がいらっしゃるでしょうか。そうではありません。数えてみましたが、約 20 人が使徒と呼ばれていました。十二人の基盤となる使徒がおり、名前が出てくる他の使徒たちがいます。何人かを見てみましょう。

使徒の働き 13 章で、多くの面で教会のモデルとなったアンテオケの教会について語られています。実際、エルサレムの教会は、ある意味少し内部にフォーカスしすぎていたようです。それは。今日の私たちの教会でも大きな問題の一つで、ほとんどの教会があまりにも教会内のことにフォーカスしすぎていて、一度も福音を聞いたことのない人々に福音を宣べ伝えるという本来の仕事のための時間があまりにも少ないのです。しかし、アンテオケの人々は異なったビジョンを持っていたということはとても重要です。使徒の働き13:1から読みましょう。

「さて、アンテオケには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。」

預言者や教師というのは、使徒のために開かれた道です。

「彼らが主を礼拝し・・・」

主を礼拝することはとても重要です。それについては後でお話しします。礼拝は鍵となるものです。

「彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、『バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい』と言われた。」

聖霊が神のごとく語っています。「バルナバとサウロをわたしのために聖別しなさい。」聖霊がどのようにそう語ったと思いますか。どこかから声が聞こえたか、それとも5人のうちの一人を通して聖霊が語ったと思いますか。あなたが決めていいことですが、私は個人的には、それは預言的なことばであったのではないかと思います。

「そこで彼らは、断食と祈りをして・・・」

私は、断食と祈りをとても信じています。詳しく話す時間は今ありませんが、人々が断食と祈りを学ばない限り、教会の中での多くのことは起こらないのです。これは彼らの2度目の断食です。彼らは、メッセージを受け取った時にすでに断食していました。

「彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。」

彼らは 2 人を遣わしました。ある教会がするように、ユース・リーダーを選んだのではないことに注目してください。彼らは 2人のトップの人物を選びました。彼らは最高の人を遣わしたのです。ミニストリーのアウトリーチの促進のためには、下の人ではなく、上の人から選ぶのです。宣教師やその他いかなる召命であっても、神に選ばれたトップの人が遣わされるべきです。しかし、私たちは概して内部の組織を間違って強調し、自分たちのことで頭がいっぱいで、主のビジョンがほとんどありません。

このように言うことをお許しいただきたいのですが、聖霊の現代の流れにある多くの人々は、大昔の天文学者プトレマイオスのようです。私は天文学の知識はあまりありませんが、プトレマイオスは、太陽が地球の周りを公転する、いわゆる天動説を確信していました。その後コペルニクスは、「それは間違っている。逆である。」と唱えました。地球が太陽の周りを公転しているのだと。当然のごとく、教会はそのように言ったコペルニクスに死刑判決を下しましたが、彼は何とか死を免れました。教会は何故そんなに腹を立てたのでしょうか。なぜなら、それは教会の伝統に反するからでした。多くのクリスチャンがなおもその時代のような生き方をしていると言えるでしょう。教会は、今でも御子、父なる神が私たちの周りをまわっておられると信じているのです。その逆であることをまだ悟っていないのです。私たちが御子の周りを回っているのです

私たちの利益のためにイエスがおられるのではなく、イエスの栄光のために私たちはいるのです。私たちが歌う曲には、イエスが自分のためにしてくださったことに完全にフォーカスしている曲があります。それは素晴らしいのですが、 私たちがイエスのためにすることより重要なことではありません。それが強調したいことです。

とにかく、このアンテオケの教会は 2 人のトップの人物を遣わしました。彼らが遣わしたのは、預言者と教師でしたが、 次の章の使徒の働き 14 章を読むと、同じ 2 人についてこのように書いています。4 節です。

「ところが、町の人々は二派に分かれ、ある者はユダヤ人の側につき、ある者は使徒たちの側についた。」

そして 14 節にはこうあります。

「これを聞いた使徒たち、バルナバとパウロは・・・」

そう、彼らは使徒になっていました。どのようにでしょうか。聖霊の導きによって教会から遣わされることによってです。このように、使徒という言葉の意味は、「遣わされる者」です。あなたは、遣わされなければ、使徒ではありません。ですから、この二人は最初の十二弟子ではありませんでしたが、このパウロとバルナバは、今や使徒と呼ばれています。聖霊の任命により使徒となりました。彼らはどのようにして聖霊の声を聞いたのでしょう。祈り、断食し、神を礼拝していました。そして教会のリーダーシップがそのようにするとき、私たちは使徒たちが現れるのを見るのです。

さて、次に私たちが手を置くことを新約聖書で見るのは、長老たちの任命です。使徒の働き 14:23 です。

「また、(バルナバとパウロは)彼らのために教会ごとに長老たちを選び・・・」

まず、使徒たちが長老たちを任命しました。

そしてエペソの町で自分の後継者テモテへ手紙を書き、パウロはIテモテ 5:17 以降で、誰を長老として選ぶべきかを指示しています。

「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。」

さて、あなたが新約聖書を分析すると、「二重に尊敬を受ける」というのは、金銭的報酬のような意味です。聖書での尊敬という言葉は、単なる呼び名のようなものではなく、人々の必要を助けることによって尊敬されているという意味です。ですから、報酬の基準があり、みことばにフルタイムで奉仕している人は、その仕えている人々から費やしている時間に応じた報酬を受けるべきです。

パウロは長老たちの扱いについて続けています、19 節です。

「長老に対する訴えは、ふたりか三人の証人がなければ、受理してはいけません。」

これはとても重要なことです。長老に対する訴えは、最低二人の証人がなければ受けてはいけないのです。私はこれまでに、神の人が中傷される時、二人、三人の証人の要求なしに中傷する多くのケースを見てきました。奉仕者を攻撃するサタンのおもなやり方の一つが、彼らに対する間違った告発をすることなので、決してしてはならないことです。ここに防御法があります。長老に対する訴えは、ふたりか三人の証人がなければ、受理してはいけないのです。教会の多くのことがこの規則にのっとることによって変わっていくでしょう。

パウロは 21 節でこう続けています。

「私は、神とキリスト・イエスと選ばれた御使いたちとの前で、あなたにおごそかに命じます。これらのことを偏見なしに守り、何事もかたよらないで行いなさい。また、だれにでも軽々しく按手をしてはいけません。また、他人の罪にかかわりを持ってはいけません。自分を清く保ちなさい。」

また、他の人の罪に関わってはいけないと言っています。

もし、私やみなさんがふさわしくない長老を任命したなら、教会員と神の民を搾取し、その人の罪に関わることになるからです。

ですから、本当に気を付けないといけません。

私の教会は、常に模範的な教会というわけではありませんが、長老を任命するとき、実は最近 3 人の長老を任命したのですが、彼らは 2 日間にわたって質問に答えなければならなかったのです。すべてのことが考慮されなければなりませんでした。長老の任命を軽々しく行う教会は、結果的に多くの問題が起こってしまうことになると思います。

このように、手を置くことについて多くのことが学べます。それは小さなことではありません。しもべであれ、使徒であれ、長老であれ、これらのすべてのケースにおいて、手を置くことの目的は何でしょうか。それは、奉仕のために権威を分け与え、遣わし、推薦し、人を整えることです。

もう一つ、手を置くことについての機能があります。パウロは、ローマのクリスチャンにこう書き送りました。「私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。」しかし、パウロはその時ではなく、のちに行きました。IIテモテ 1:6 でテモテにこう書いています。

「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」

「私はあなたに、私の手を置くことによってあなたの中にある神の賜物をかき立てるように思い起こさせます。」

賜物がパウロの按手によってテモテに与えられました。ギリシャ語ではカリスマと言います。私の個人的な意見なので、あなたが同意するかどうかは自由ですが、私は、テモテに与えられた賜物(カリスマ)は、使徒的賜物であったと信じます。なぜなら、それは他の使徒にも見られるものだからです。

では、テモテの使徒的賜物を見てみましょう。テモテも使徒でした。ご存知なかったかもしれませんが、聖書からそれを見ていきましょう。Iテサロニケ 1:1 です。この手紙は、テサロニケの教会に宛ててパウロとシルワノ(シラスとも呼ばれている)とテモテの 3 人によって書かれました。その三人が著者です。パウロだけではありません。

そしてこの手紙の 2:6 で、この 3 人は言っています。

「また、キリストの使徒たちとして権威を主張することもできたのですが、私たちは、あなたがたからも、ほかの人々からも、人からの名誉を受けようとはしませんでした。」

パウロ、シラス、テモテの 3 人は、使徒でした。使徒の奉仕は、古臭いものではなく、エペソ4 章にもあるように、神は、私たちがみな、信仰の一致に達するために使徒を立てられるのです。偏らない考え方をする人はみな、信仰の一致にはまだ達していないということを認めなければなりません。ですから、使徒は必要で、牧師、伝道者、預言者、教師が、その信仰の一致が完全にされるまで必要とされているのです。

私は、何人が使徒であったと言いましたか。パウロ、バルナバ、シラス、テモテです。ですから、ペンテコステの日以降、4-5 人の使徒が任命されました。

テモテの使徒的賜物について少し考えてみましょう。私は、テモテは使徒と呼ばれたと言いました。彼はどのようにして使徒になりましたか。これはとても重要な質問だと思います。なぜなら、教会には使徒が必要だからです。思い出してください。黙示録で、イエスはエペソの教会をほめました。なぜなら、使徒と自称しているが、実はそうでない人たちをためして、その偽りを見抜いたからです。使徒だと自称する人々をみな受け入れてはいけません。彼らは試されなければならないのです。嘘をつくとどうなるでしょうか。火に投げ込まれます。これは非常に深刻なことです。使徒だと自称している人が実はそうでないなら、火の海に投げ込まれるのです。

では、この状況について見ていきましょう。使徒 16 章で、パウロがシラスと第二次宣教旅行に出発したところです。 1 節です。

「それからパウロはデルベに、次いでルステラに行った。そこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ婦人の子で、ギリシヤ人を父としていたが、ルステラとイコニオムとの兄弟たちの間で評判の良い人であった。」

教会の重要な立場につこうとする人に求められるものの一つは、その教会員たちからの評判が良いことです。もし、その教会の人たちに評判がよくないなら、外の人々がその人に何と言おうと重要ではありません。

何年も前、私たちがエルサレムにいた頃、スエーデンから一人の女性が私たちと一緒に働くために遣わされてきました。私の前の妻リディアは、とても聡明で、その女性に関する数多くの推薦の言葉に目を通しました。しかし、たった一つだけ欠けていたものがありました。彼女の母教会からの推薦がなかったのです。私たちは彼女を受け入れましたが、そのことをひどく後悔しました。彼女は多くの問題を起こしました。私はその経験から、教会からの評判が重要なことを学んだのです。あなたが人を選ぶとき、その人と一緒に生活している人々、一緒に働いてその人を良く知っている人たちの推薦が最も重要なのです。その人たちが推薦することができないなら、他の推薦は価値がないのです。

しかし、テモテは彼が奉仕していた教会の長老たちからの評判は良かったので、パウロは彼を呼んで、「一緒に行こう。」と言ったのです。テモテへの手紙を注意深く読んでいくと、パウロがテモテにこのように言っています。Iテモテ 4:14 です。

「長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。」

つまり、預言のことばが与えられ、テモテはパウロとシラスに同行したと言っているのです。その預言のことばとテモテの資質に基づいて、地域教会の長老たちはテモテに按手して送り出したのです。彼は使徒的賜物という聖霊の賜物(カリスマ)を受けました。私はそのように理解しています。

さて、すでに読みましたが、IIテモテ 1:6 でパウロがテモテに言った箇所と、バランスを取らなければなりません。

「それゆえ、私はあなたに、私の手を置くことによってあなたの中にある神の賜物を奮い起こすように思い起こさせます。」

その理解には様々あると思います。このルステラでの状況において、ほぼ確実に起こりうる方法は、預言が与えられ、十分に試され、その預言が、テモテがパウロとシラスに同行するように語り、長老たちが「私たちはテモテを推薦する」と言い、パウロが「私たちは彼を受け入れる」と言い、パウロと長老たちが按手し、テモテに使徒的賜物を与えたというものでしょう。

その預言が重要であったことに注目してください。預言とは、重要であるか、無駄であるかのどちらかです。Iテモ テ 1:18 でパウロはテモテにこう書いています。

「私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言に従って、私はあなたにこの命令をゆだねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。」

これこそ、預言の本来の目的で、敵対するものに立ち向かおうとしている人を励まし、その人が実に神に選ばれたのだと知るためです。このことは、私の著書にも少し書いており、ある働きをしようとしていた一人の人に私が預言をし、その人はあまりにも絶望してその働きをあきらめかけていたときにその本を読み、「私はあの預言によって進む。」と決心しました。彼は現在、多くの国々に影響を与えている奉仕者ですが、これは彼をこの働きに導いたほんの一例にすぎません。

聖霊によって与えられる預言がいかに重要であるか、お分かりになったと思います。実は、私は多くの預言にうんざりしており、私はそれをカリスマ的占いと呼んでいます。人々が来ると、手を置いて、「あなたはこれこれをする。」と言うのです。そうなることもあるかもしれませんが、ほとんどの場合、それは起こりません。預言と未来を占うことは、紙一重です。占い師は事実を告げることをご存知ですか。使徒 16 章でパウロとシラスがそこにいることを知った占い師の女です。ピリピの町の誰も知らなかったのに、その女は、パウロとシラスが救いの道を示すいと高き神のしもべであることを知っていました。しかし、その女はサタンのしもべでした。私はみなさんに警告しておきたいのです。

さて、私は危険性と予防法について簡単にお話ししましょう。今までお話しした中に 2 つの危険がありました。第一 に、不適切な人を推薦することで、それをすると、混乱が起こり、その混乱の責任をあなたが取らなければならなくなるからです。

二つ目に、霊的悪影響です。あなたが悪霊から人を解放するために手を置いて祈ることもあると思いますが、あなた自身を守るすべを知らなければならないのです。なぜなら、それは二方向に働くからです。あなたが神の霊を与えるか、その悪霊があなたに影響を及ぼすかです。私がまだ軍にいた頃、私たちのグループで起こったことですが、深刻な鬱の霊に苦しんでいる人に手を置いて祈りました。私たちは主の導きと言うよりは、ただ、そうしたのです。何が起こったでしょうか。私たち全員が鬱に攻撃されたのです。私たち自身を守っていませんでした。

ですから、あなたが誰かに手を置くときは、あなたに守りが必要です。これは祈りと謙遜です。聖霊に導かれてください。「神の御霊に導かれる人は誰でも、神の子どもです。」

イエスの血潮に守られてください。イエスの血潮のもとでそのように守られるかを知ってください。

イエスが弟子たちに言ったことを忘れないでください。「確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。」アーメン。

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