今日の宣言は、今からお話しするテーマと直接関連している箇所です。エペソ 2:8-10です。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことで はなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、 私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」 

前回のテーマの続きです。へブル 6 章 1 節と2節に挙げられている、クリスチャン信仰の土台となる 6つの重要な教理を見ていきます。要点を復習しましょう。死んだ行いからの悔い改め、神への信仰、 バプテスマの教理、手を置くこと、死からの復活、永遠のさばきです。前回の学びでは、「悔い改めから信仰へ」というテーマを取り扱いました。悔い改めについて、そして信仰について学びました。続けて 信仰について学んでいきますが、今回のテーマは、「信仰と行い」です。これは新約聖書でとてもよく用 いられている言葉ですが、その関係性について明確な理解をしていないクリスチャンが多くいます。

簡単に言えば、信仰とは、私たちが信じているもの、行いとは、私たちが行うことです。私たちが信じることと、行うこととの間の正しい関係性とはどのようなものでしょうか。

まず、福音について簡潔に説明しましょう。多くの人がその意味をはっきりと知っているかのように 「福音」という言葉を用いて語ります。実際は、「福音」について語る人の多くが、福音の本当の意味を 理解していません。パウロは、Iコリント 15:1-4で非常に明確に言っています。 まず1-2節です。

「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」

そして、パウロは福音を述べます。福音は三つのシンプルな歴史的事実で述べられており、複雑ではありません。

キリストが私たちの罪のために死なれたこと、葬られ、3日目によみがえられたこと、それらは、私 たちが握っておかなければならない3つの重要な事実です。

そして、証拠となる第一の権威は聖書です。イエスが復活された後にイエスを目撃した人々ではありません。パウロは、「聖書の示すとおりに」と2度言っています。そしてパウロは、イエスの復活を目撃 した様々な人々を列挙しています。しかし、信仰に関するすべての事柄における最終的な権威は聖書であることを心に留めておいてください。

パウロは続けて、私たちが信仰によってこれらのシンプルな事実を受け入れるなら、行いがなくても、 私たちが何かを成し遂げなくても、義が与えられると説明しています。

私たちは義とみなされます。私たちは何をするかによってではなく、何を信じるかによるのだと、パウロが言っていることを理解しな ければなりません。行いによるのではなく、信仰によるのです。またローマ4章では、アブラハムは信 仰によって義とされたと言っており、私たちはアブラハムから学ぶことができると語っています。4章 4節です。

「働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。」

もしあなたが誰かのために働いて報酬を受けるなら、それは恵みではなく、あなたの働きに対する義 務です。しかしパウロは、それは私たちが義を達成する方法ではないと言っています。働きによるのでも、自分の努力で得るものでもありません。

そして、パウロは最も驚くべきことばを続けています。もしあなたが聖書を読んで驚いたことがないなら、あなたは真剣に聖書を読んだことがないのかもしれません。なぜなら、聖書は最も驚くべき言葉で満ちているからです。5 節です。

「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」

では、自分の信仰が義とみなされたいなら、あなたは最初に何をしなければなりませんか。行いをや めることです。「行いには意味がありません。」行いによって義を得られると考えている限り、あなたは それを受け取ることができません。これは宗教的な人々にとって最も難しいことです。私たちには、神 の好意を得るために何かをしなければならない、という考えが習慣づいてしまっているからです。好意 は努力によって得られるものではありません。恵みも努力によって得られるものではありません。定義上、好意や恵みは努力では得られません。ですから、神に義とされたいのなら、最初にしなければなら ないことは、努力するのをやめることです。行いをやめることです。多くの人にとっては驚くべき言葉ですが、聖書は私たちが知っている以上に驚きの書物なのです。

信仰と行いの実際の関係性は何でしょうか。行いが重要でないというのではなく、順序が重要なの です。冒頭で引用したエペソ 2:8-10 節です。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」
私たちは、信仰があるという事実を自慢することはできません。信仰とは、神が与えてくださるもの だからです。信仰は自分で作り出せるものではありません。

そして、こう言っています。

「行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」

行いによって義とされたと信じている人々について語っている多くの場所で、パウロは、「誇ることがないように」と言っています。ご存知のように、行いによる宗教は人間の高慢を助長します。高慢は非常に大きい基本的な罪です。ですから神は、私たちが高慢になることなく義とされる方法を定められたのです。

宗教を複雑化した人々は、一般的にその宗教が難しければ難しいほど、高慢になってしまいます。彼らは、実際に厳しく困難な断食をしたり、いけにえをささげたりしています。このことが高慢さを助長 します。神は高慢を退けますが、謙遜な者に恵みを与えます。ですから神は、私たちの高慢を助長する ことなく神に義と認められる方法を考え出されたのです。

クリスチャンについて話しましょう。律法的で規則に厳しいクリスチャンは愛のない人々が多いこと に気づいていますか。あなたが愛を求めて彼らのところに行っても、得るものはほとんどありません。 事実、律法主義と愛は、多かれ少なかれ相反するものです。 ですから、私たちは高慢を助長するあらゆるものに対して常に注意しなければなりません。また、宗教は基本的に高慢を助長します。神の恵みのない宗教は、私たちの高慢を助長するのです。

しかし、行いが不要なわけではありません。行いには正しい順序があるのです。エペソ 2:10 は、それを最も明確に示しています。

「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。 神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」

ですから、神が私たちをキリストにあって新しく造ってくださいました。キリストにある者はだれで も、新しく造られた者であると聖書は言っています。神は新しい被造物のために、ふさわしい行いを備 えておられます。古い肉的な性質は神が備えておられる良い行いに歩むことができません。良い行いに 歩む前に、信仰によって新しく造られなければならないのです。そのようなわけで、良い行いは非常に 重要です。しかし、正しい順序でなければなりません。まず、信仰による新しい創造、次に、神が私たちのために備えてくださった良い行いです。

あなたがキリストにあって新しく造られた者となったのなら、神のためにすべきことを成し遂げよう とする必要はありません。神はすでに成し遂げられました。あなたがしなければならないことは、神が あらかじめ備えてくださっていたものを見出すことです。自分の人生のために自分の計画を立てようとするのではなく、神のご計画が何であるかを見出してください。多くの場合、神の計画は、私たちが期待しているものとはかなり異なるものです。

私自身の経験から簡単な例を挙げましょう。私は一人っ子で、兄弟がいませんでした。9歳から 25 歳 まで全寮制の学校に通いました。数人の女友達を除いて、女の子に出会うことはほとんどありませんで した。基本的に女の子は不思議な存在で、どのように接すればいいのかわかりませんでした。しかし、 私は神の導きで児童養護施設を持っていた女性と結婚し、結婚したその日に、私は8人の女の子の養父 となったのです。周りの人々は、まさかデレク・プリンスが、と思ったでしょう。私が自分の人生を計画していたら、そのような状況には決してならなかったと思います。しかしそれは、神が私に歩ませる ために備えてくださった良い行いでした。私は何度も失敗しましたが、基本的には神が備えてくださった良い行いの中を歩んできたことに充足感を覚えています。

では、少し定義について見ていきましょう。ここは、明確な考えを必要とするところです。実際、あ なたは常に明確な考えを必要としているはずです。では、恵みの性質について簡単に説明しましょう。「恵み」とは美しい言葉ですが、乱用されることが多い言葉です。恵みという言葉の本当の意味をまったく知らずに、その言葉を使っている人が多くいます。恵みの語根は、美しさです。それは、私たちが神を信じているがゆえに、神が私たちに与えてくださる美しさです。神はご自身の恵みで私たちを美しくしてくださるのです。

そして、パウロはローマ 11:6で核心となることを言っています。

「もし恵みによるのなら、もはや行いによるのではありません。そうでなければ、恵みはもはや恵みではありません。」

私の言葉で言うならば、行いによって恵みを得ることはできません。何かをして得ることができるものはすべて、恵みではありません。このことは私たちを謙遜にさせます。私たちは神の恵みに頼らなけ ればならず、恵みは行いによって得ることはできないのです。どのような行いによっても、神の恵みを 得ることはできません。しかし、恵みによって、私たちは信仰を通して救われました。あなたに信仰があるという事実に喜びを覚える時、パウロのこの言葉を思い出してください。

「それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」

あなたが信仰によって救われたのなら、誇ることのできるものは何もありません。最大の罪である高慢からあなたを守るために、神は賜物として恵みを与えてくださったのです。

信仰と行い、つまり、私たちが信じることと、私たちが行うこととの関係性について考えたいと思います。私の知る限り、私が話すことは新約聖書から直接引用しますが、多くの人にとっては驚きであり、 衝撃を受ける人も多いでしょう。私は、恵みによる新約聖書のシンプルな救いのメッセージを単に語ることが、ほとんどのクリスチャンにとっては驚きであることを発見しました。

私はある集会で、「もちろん、キリスト教は規則のかたまりではありません」と言いました。そして会衆を見ると、人々はショックを受けていました。「神は死んだ」と言うよりも、彼らにはショックだったのではないかと思うほどでした。彼らのキリスト教の概念は規則のかたまりだったのです。あなたも同じかもしれません。キリスト教は規則のかたまりではありません。あなたは規則によってキリスト教を達成することはできません。

ローマ 3:20 でパウロが言っていることを見てみましょう。ちなみに、ローマ人への手紙のテーマは 義です。ローマ人への手紙では、私たちはいかにして神の前に義となることができるかということが中心的に扱われています。何世紀も前に、ヨブは苦しみの中で叫びました。ヨブ記 9:2 節です。

「しかし、どうして人は自分の正しさを神に訴えることができようか。」

ヨブの宗教的な友人たちはみな、すべての人は神の前に義とされるという考えをあざ笑いました。しかし、神はヨブのその叫びを聞き、多くの年月を経てローマ人への手紙を通して、その「どうして人は 自分の正しさを神に訴えることができようか」という質問に答えています。それは、規則を守ることによってではありません。

ローマ 3:20 でパウロは言っています。

「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」

この聖句で使われている語で、原文のギリシャ語にはない語があります。私は 10 歳からギリシャ語を学んできたので、自信を持って言います。「律法」という語を2 回使っていますが、パウロが言ったのはこうです。

「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり救われないからです。律法によって生じるのは、 罪の意識です。」

あなたは、「では、律法の目的はいったい何ですか」と聞くでしょう。律法の目的は、あなたの問題を明らかにし、その問題が罪であることを示すための神の診断です。律法はあなたの問題の原因を究明し ますが、それを解決することはできません。それはただ恵みによってのみ解決されます。ですから、あなたが恵みを必要としている部分を律法に示してもらうこと、それが律法の目的です。

ヤコブは、自身の書簡の中でこう言っています。ヤコブ 2:10-11です。

「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。なぜなら、『姦淫してはならない』と言われた方は、『殺してはならない』とも言われたからです。そ こで、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となったのです。」

ヤコブは何を言っているのでしょうか。律法全体を守るか、律法を守らないかのどちらかだということです。律法の 99%を守っても、律法を守っていることにはなりません。律法は一連の体系だからです。

ところで、誰一人として律法を 99%守ることはできません。正統派のユダヤ教徒は 613 の戒めを守ら なければならないと言います。しかし、個人的には 32 以上の戒めは守っていないと認めています。今日、 地上にいる人の中で、モーセの律法すべてを守っている人はいません。一人の人を除いて、誰も守ったことがありません。イエスだけです。イエスは地上におられた時に当時の宗教的な人々に言いました。「あなたがたの内の誰が私を罪に定めるのですか。」彼らは答えることができませんでした。イエスだけが律 法を完全に守った唯一のお方です。あなたにも、私にも、できません。

私はイギリス陸軍にいたときに救われ、救われたことについて人々に話し始めたとき、彼らはみな、 救いについてではなく、宗教の観点から考え始めました。一般的に、人は自分が守っている小さな規則 のリストを引き出してこようとするのです。それがその人の義なのです。それは特別に自分の状況に見 合うように作られています。何か間違ったことをしていたら、そのことは自分の規則のリストには含めません。私はこれが人間の考え方だと気づきました。私は規則を守ることで義であると。いいえ、そうではありません。あなたが規則を全部守れば、そうかもしれませんが、あなたも、また誰一人として守っていません。ですから、「私はたくさんの律法を守っている。それで十分だ」と言うことはできません。 律法は一つのシステムに過ぎないからです。守っているか、守っていないかです。もしあなたがすべて の律法を守ることができたなら、神はあなたを義と見なしてくださるでしょう。しかし、あなたにはで きません。ですから、あなたには努力して得ることのできない「恵み」という選択肢しか残されていないのです。

すでに述べましたが、もう一度ローマ3:20 を振り返りましょう。

「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。」

一連の規則を守ることによって神に義と認められようとしてはいけません。なぜなら、あなたは失敗するからです。あなたの規則が正しいものであるなら、それをすべて守ることはできません。あなたの規則が間違ったものであるなら、その間違った規則を守ることによって義とされることはありません。お分かりですか。

先へ進みましょう。次にお話しすることにショックを受けるでしょう。それは、律法と恵みは矛盾するということです。両方から益を得ることはできません。どちらか一方です。ローマ 6:14 にこう書かれています。

「罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」

つまり、どちらか一方なのです。律法の下にあること、あるいは恵みの下にあることができますが、 同時に両方の下にあることはできません。もしあなたが律法の下にあるなら、あなたは恵みの下にはな く、また、あなたが恵みの下にあるなら、あなたは律法の下にはありません。

パウロが暗示していることは、非常に広範囲に及んでいます。彼は、あなたが律法の下にではなく、恵みの下にあるので、罪があなたを支配することはないと言っています。つまり、律法の下にいるなら、 罪があなたを支配するということです。罪の支配から逃れる唯一の方法は、律法を守ろうとすることを やめて、神の恵みにあずかることです。私はあなたがショックを受けるかもしれないと言いましたね。 すでに少しショックを受けている人もいるでしょう。

ローマ 8:14 でパウロは言っています。

「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」

本当の神の子どもとはだれですか。常に聖霊に導かれている人です。それは規則を守ることに対する、 もう一つの選択肢です。規則を守るか、聖霊に導かれるかのどちらかです。両方はできません。

それを鮮明に表すたとえを紹介しましょう。聖書学校を卒業したばかりの一人の若者がいたとします。彼は神学の学位を取得し、丈夫で健康でした。 ある日、ある目的地に行く必要がありました。神は彼に言いました。「さあ、どちらかを選びなさい。地図 を使うか、個人的な案内人を使うか。」その若者は言いました。「私は頭がいいし、神学の学位も取りまし た。地図も読めますから、地図にします。案内人はいりません。」彼が出発したときは太陽が輝き、鳥たち が歌っていましたが、3 日後くらいに、闇が覆いました。真夜中の森の中、彼は途方にくれ、東西南北も まったくわかりませんでした。やさしい声が彼に言います。「お手伝いしましょうか。」それは誰だと思い ますか。個人的な案内人、聖霊です。そして彼は言いました。「聖霊さま、あなたが必要なのです!」聖霊 はその状態から彼を連れ出し、共に再び道を歩き出しました。

しばらくして彼は独り言を言います。「私はばかげていた。あれぐらいのこと、助けなんかなくてもなんとかできたはずだ。パニックになることはなかったんだ。」彼が見回してみると、案内人はもうそこにはい ませんでした。一人きりでした。彼は言いました。「一人でできるさ。」

さらに 3 日後、彼は沼地の真ん中にいました。一歩踏み出すごとに深みにはまり、這い出ることができ ません。やさしい声が彼に語りかけます。「あなたは今、私が必要ではないですか。」「ああ、聖霊さま、どうか助けてください。あなただけが、私をここから助け出すことができます。」そして彼は聖霊に導かれて、 一緒に目的地に向かって歩き続けました。そして彼は、案内人である聖霊に言いました。「私はとても素晴 らしい地図を持っています。この地図を一緒に使いましょう。」すると、案内人は言いました。「ありがとう、でも地図は必要ありません。私は道を知っています。ちなみに、その地図を作ったのは私です。」

お分かりですか。自分の力では無理だと気づくまでに、どれほど時間がかかることでしょう。それは私たちの良い行いではなく、規則を守ることでもなく、恵みの霊、聖霊によるのです。常に聖霊に導かれる人は、神の子どもです。

そしてガラテヤ5章で、パウロはこのテーマに戻っています。それは新約聖書の大きなテーマの一つです。このテーマを本当に理解したことがない人は、薄暗い状態にいます。多くのクリスチャンが、律法 と恵みの中間のような薄暗い状態の中におり、恵みと律法の区別ができず、どうすれば神の恵みを得ることができるのか、わからないのです。ガラテヤ 5:18 でパウロは言っています。

「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。」

先述のように、パウロは、聖霊に導かれる人はだれでも、神の子どもであると言いました。ですから、 あなたは選択しなければなりません。聖霊に導かれて神の子どものように生きるのか、それとも、聖霊 に背を向けて律法を守ろうとするか、です。2つを組み合わせることはできません。これがあなたにお 伝えしたいことです。ここが、人々が薄暗さの中に入ってしまう点なのです。半分は恵みに信頼し、半分は自分が守っている自分の規則に信頼しているからです。

規則を守ることが悪いことだと言っているのではありません。規則を守ることがあなたを義とするので はない、と言っているのです。もう一度言います。規則を守ることが、あなたを義とするのではありません。

ほとんどのクリスチャンは教会や教団に属し、そこには規則があるでしょう。何らかの団体に属しているのであれば、その規則を守るべきです。規則が守れないのなら、そこに属するべきではありません。 しかし、規則を守ることがあなたを義としてくれるのではありません。ほとんどの宗教的団体には独自 の規則があるので、実際、それがキリストのからだの分裂の主な原因となっています。カトリックも、 バプテスト派も、ペンテコステも、その他すべての教派にそれぞれの規則があります。これらのグルー プのほとんどの人がその規則を守ることで義とされると考えています。そして、異なる規則を守ってい る人々を見て、「彼らは私たちの規則を守っていないから、本当は義人ではない」と言うのです。律法主 義が何をするか知っていますか。それはキリストのからだを分裂させます。

バプテスト派は、自分たちの聖書的な規則を守る自由があります。ペンテコステ派も同様です。カトリックも聖書的です。しかし、いずれも規則を守ることによって義とされるのではないことを忘れないでください。信仰によって義とされるのです。

問題は、規則にこだわるなら、信仰を見失う恐れがあり、再び薄暗い中に身を置くことになってしまうということです。あるいは、地図に頼っていたあの若者のように、結局は泥沼にはまってしまうかもしれません。泥沼にはまった経験をした人もいるでしょう。実際にその泥沼から抜け出して聖霊が必要だと気づいたので、今ここにいるという人もいるでしょう。

ここでもう一つのショッキングなことを言います。パウロが最初に言っていなかったら、私はあえてそ れを言わなかったでしょう。それはローマ 7 章にあります。ローマ人への手紙は実に素晴らしい書簡です。私はクリスチャンになる前は論理学の教授でした。私は論理的なことに興味があり、論理学は素晴らしいと考えています。それはコンピュータのようなものです。コンピュータに正しい情報を送ると、 正しい結果を得ることができます。しかし、間違った情報を送ると、間違った結果を得ることになりま す。論理は答えを与えることはなく、ただ結論が矛盾しないかどうかを知ることができるだけです。ですから、私が今までに読んだ本の中で、聖書は最も論理的な本だと言うことができます。聖書を信じて いるからといって、知的な面で劣っているとは思いません。それが私の個人的な考え方です。あなたも、知的な面で劣っていると感じないでほしいのです。あなたを原理主義者のように決めつける人もいるか もしれません。原理主義者であることが何なのでしょうか。実際それは、あなたに敵対する人々の感情 を呼び起こすためにそう呼ぶのです。原理主義者だと決めつける人々は、原理主義が何であるかを定義 していません。人々は他の人を悪く言うためにたくさんの言葉を使いますが、それを定義できないこと が多いのです。原理主義者と呼ばれることを恐れないでください。次に誰かがあなたをそう呼ぶなら、こう言ってください。「原理主義者とはどういう意味ですか。」

では、ローマ7章のパウロのショッキングな言葉です。先に進むと、さらにショッキングなことがあり ます。ローマ 7:4 以降です。

「私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ば れて、神のために実を結ぶようになるためです。」

パウロは、あなたが宗教的なユダヤ人であるなら、あなたは律法と結婚したのだと言っています。そして、律法から解かれたあなたが、その律法は死んだことを理解しない限り、他の誰かと結婚することは姦淫、すなわち霊的姦淫であると言っています。しかし、イエスの十字架の死によって、律法は死んだのです。

これは、ほとんどのユダヤ人にとって現実的な問題です。彼らは律法を守ろうとしていないと感じて おり(実際ほとんど律法を守らず)、彼らは夫に対して不誠実な者となっています。律法はキリストによって死んだので、彼らは他の人、すなわち、よみがえられたメシアと結ばれることができるという啓示 が必要です。キリストを通して彼らも私たちも実を結ぶことができるのです。一つとされて初めて、実 がもたらされます。私たちが結ばれているものが、もたらされる実を決定づけます。しかし、キリストと結ばれているなら、私たちは御霊の実を結ぶでしょう。

続けてパウロは言っています。

「私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。」

これは驚くべき宣言です。律法によって罪の欲情が生じるのです。つまりパウロは、律法が罪深い欲情をかき立てると言っているのです。そのことを受け入れることができますか。 別の聖句を挙げましょう。

第一コリント 15:56 です。これは息をのむような聖句の一つです。

「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」

パウロはローマ7章で、律法は良いものであり、何の問題もないと言っています。問題は私たちにあるのです。律法は外側から働きかける、とも言うことができるでしょう。あなたは、「よし、これをして、 あれはしないぞ」と言います。そのようにすることは、自分の能力に頼っているのです。それが問題なのです。なぜなら、正しいことを行い、間違っていることを避ける能力をあなたは持っていないからです。それでも、私たちの本質的な肉の思いは、自分自身を信頼し、神にゆだねたくないのです。

エデンの園での誘惑に戻りましょう。サタンはどのような動機を用いましたか。「あなたは神のように なるのです。」神に似たものとなることに何の問題もありません。何が問題だったのでしょうか。神によ り頼むのではなく、善悪の知識により頼んで、神のようになろうとしたことです。それは人間の根本的 な問題であり、宗教的な人々の根本的な問題なのです。神のようになりたいと思っていますが、神によ り頼みたくないのです。罪の本質は、神により頼むことを拒絶することです。それが罪の本質なのです。 罪とは、あなたが犯した何らかの罪深い行為ではなく、あなたの人生から神の恵みを締め出してしまう 自己依存の態度です。そして、神が私たちを取り扱う際に最も難しいことは、この独善的な態度だと思います。「私は自分でできる。神は必要ない」という態度です。

これは一つの意見に過ぎませんが、私の知る限り、神から自立したかった被造物は 2 種類しかいませ ん。一つは、サタンの反逆に加わった堕落した御使いたちで、もう一つは人類です。この宇宙には、神から自立することを望むものは他に存在しません。鳥には自立願望がなく、魚も星たちも、神に喜んで 神により頼んでいます。しかし、私たちは堕落と肉の性質のゆえに、この問題を受け継いでおり、神に 信頼することを嫌います。「私は自分でやってきた。神なんて必要ない」と言えるようになりたいのです。

みなさん、あなたには本当に神が必要です。神は必要ないと思うときが、一番神を必要としているの です。あなた自身のクリスチャンとしての経験を分析してみれば、あなたが遭遇してきたすべての問題 は、神なしにやろうとしたことや、神の恵みにゆだねることを拒否したことから生じたものであることに気づくでしょう。

以前、妻のルースが病院で手術を待っていたときのことです。彼女はとても弱っており、聖書を読み たがっていましたが、読むことができませんでした。そこはカトリック系の病院で、70 歳ぐらいのシス ター(修道女)が新患を見て回っており、彼女は妻が持っていた聖書に気づきました。そのシスターは、「何かしてほしいことがありますか」と尋ねました。妻は「はい、聖書を読んでいただけませんか」と 答えました。「どの箇所を読みましょうか。」「ピリピ 2 章をお願いします。」シスターは、「まあ、その箇 所は私が修道女として献身した時の聖句です」と言いました。それが彼女たちの出会いでした。

それから、そのシスターはある出来事を分かち合いました。彼女はある修養会に参加したときに修道 士から語られたメッセージを妻に分かち合ってくれました。それは私にとっても実に大きな祝福でした。 その内容はこのようなものです。

「尊敬を受けないこと、自立しないこと、安全でないこと、自分が主導権を握らないように願います、と祈りなさい。」

あなたは、そのように祈りますか。少し時間がかかりますよね。私は少し時間がかかりました。尊敬 されないこと、これは私にはあまり問題ありません。自立しないこと ― 私は自立が間違いであるこ とに気づきました。しかし残りの 2 つは私にはかなり困難です。私は本当に安全でないことを望むこと ができるのか。確かに私の安全は主にあります。しかし、どの箇所に、主導権を握らないようにと書い ているのでしょうか。それは私には一番難しいことです。私は本当に主導権を握らないでいたいと願うことができるのだろうか。言い換えれば、私は本当に神に主導権を握ってもらいたいと願っているだろうか、です。そこが核心です。神が主導権を握っておられる時、それが恵みなのです。

妻を通してそのシスターが私の考え方に一石を投じてくれたことに感謝しています。人間の基本的な 問題は、自分が主導権を握りたい、安全でありたい、自立したい(ゆだねたくない)ことです。罪の本質は、愛に満ちた全知全能の神によって造られた宇宙にいながら、依存せず自立したいと思うことです。 自分はそんな問題を抱えたことはないと言える人はいません。なぜなら、常に神により頼み、神の支配に任せることに満足している人はいないからです。しかし、それが本当の信仰の歩みなのです。恵みに歩むことです。数時間でそれを達成することはできません。事実、私は 50 年以上かかっても、そこに到達していません。しかし、以前よりは近づいています。そのことはみなさんの励ましになるでしょう。

先に進みましょう。律法は罪をかき立てます。なぜでしょうか。罪は、「私はできる、自分を信じて進め。これらの規則を守っていれば大丈夫だ」と言って、自己依存、独りよがりの罠に陥れてしまうので す。それは律法に騙される方法です。律法に悪いところは何もありません。パウロは同じ章で律法は良 いもの、正しいもの、聖なるものであり、何も悪いところはないと言っています。問題は私たちにあり ます。誰もが自分の肉的な性質の中に、自立したいという願望を抱いているのです。

ほとんどの方は赤ちゃんを観察したことがあるでしょう。私は、この自立への願望が 2 歳くらいで頂点に達することに気づきました。この小さくてかわいい 2 歳児に「こっちへ来てごらん」と言うと、反対を向いて行ってしまいます。そのような経験はありませんか。それは、古い肉の性質が私たちの内に現れているからです。律法はその問題を明るみに出す神の診断です。

医者に行って、「胃が痛むのですが」と言うと、医者はただ薬を出すだけではなく、痛みの原因を見つけようとするでしょう。つまり、薬を処方する前に診察を受けます。それが、神が私たちを取り扱う方法です。神は私たちの問題を診断するまでは解決策を提供してくれません。その時、私たちはどれほど解決策を必要としているかを知るのです。

ローマ 10:4 を見てみましょう。

「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」

あなたがイエス・キリストを信じているのなら、律法は終わったということです。あらゆる意味での律法の終わりではなく、義のための律法の終わりです。神に義とされる手段としての律法を、キリストは終わらせました。キリストが死なれた時、それが律法の終わりでした。死からよみがえられたとき、キリストは律法を守ることによらない、神に義とされる新しい方法を提供してくださいました。ですから、キリストは義のための律法の終わりです。キリストは神のことばの一部としての律法や、イスラエルの歴史の一部としての律法、神が人々を取り扱う方法の一例としての律法を終わらせたのではありません。律法はなおも存在します。しかし、十字架上でのキリストの死は、義を達成する手段としての律法についに終止符を打ったのです。

では、ガラテヤのクリスチャンの例を少し見てみましょう。ガラテヤ人への手紙は興味深い書簡です。あなたが神学的な考え方の人だとして、パウロがガラテヤ人を取り扱った問題とは何かと尋ねられたら、律法主義だと答えるでしょう。それはこの問題のいわゆる神学的な側面です。パウロが教会に宛てて書いた書簡のほとんどは、教会の中にあるすべての良いことについての神への感謝で始まっています。父の妻と同居していた男がいたり、主の晩餐で酔っぱらう人がいたりしたコリント人への教会でさえ、パウロは神の恵みに対する神への感謝を熱い表現で始めています。しかし、パウロがガラテヤ人を取り扱 ったときは、神の恵みへの感謝の言葉を書く余裕もないほど怒りが爆発しています。ガラテヤ人の問題は何だったのでしょう。酒に酔うことでも、姦淫でもありません。では何でしょう。律法主義です。パウロは姦淫や酒に酔うこと以上に、律法主義が健全な信仰に対する深刻な脅威と見なしたのです。

神が姦淫や酒に酔うことを容認していると言っているわけではありません。それらは非常に巧妙な律法主義よりも取り扱うのが簡単な問題だと言っているのです。律法主義は見た目には良さそうで、正しいと感じるので、そこから解放されることはとても難しいのです。しかし、パウロはガラテヤ 1:6 でこう言っています。

「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。」

このように、パウロは良いことを一つも言っていません。「こんなにすぐにあなたがたが移っていくのに驚いている」とだけ言いました。何に移って行ったのでしょうか。規則を守り、それによって義とされると信じるという律法主義に移って行ったのです。

ガラテヤ 3 章 1 節で、パウロはこのテーマに戻っています。

「ああ愚かなガラテヤ人。...だれがあなたがたを迷わせたのですか。」

私は何年か前にこの箇所を読んでいる時、ふと、ペンテコステ派やカリスマ派のクリスチャンが惑わされやすいのは、疑問を抱かないことに原因があると気づきました。その気づきは、私が牧会していた教会で起こった状況の説明につながり、私の思いの中の大きな問題の解決になりました。詳しくは語りませんが、信徒全体が、前任の牧師と離婚して教会役員の一人と再婚した女性に惑わされていたのです。 その女性は依然として人々を霊的に支配していました。ですから、あなたのために言わせてください。 もし、あなたが理解できない何らかの問題を抱えているなら、その原因はこの問題であるかもしれません。人々は惑わされています。パウロはこの言葉の意味をとても分かりやすく用いています。実は、「惑わす」は、ギリシャ語で「目を打つ」です。彼らは目を打たれ、彼らを惑わす目の支配下に置かれているのです。

カリスマ派になった元ギリシャ正統派の祭司が数年前に私のところにやって来ました。彼は私に、「私は惑わされている。誰かが私に邪悪な目を向けているので祈ってほしい」と言いました。彼は非常にまじめな人で聖書にも精通しています。このことに時間を費やしたくありませんが、このような可能性もあるという事実を分かち合いたいのです。事実、そのようなことは他にもあると思います。

「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。」

パウロは、「私は、あなたがたに十字架のメッセージを伝えました。イエスが私たちの罪のために十字架につけられたとはっきり伝えました。どうしてあなたがたは、それから離れて他の基準の義に行くことができるのですか」と言っているのです。

「ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。」

あなたが聖霊のバプテスマを受けたのは、規則を守ったからでしょうか。それとも、信仰をもってメッセージを聞き、受け取ったからでしょうか。

質問させてください。みなさんの中で、規則を守った結果、聖霊のバプテスマを受けた人はいますか。誰もいません。そのことを忘れないでください。私たちは規則を守ることで救われたのではなく、規則 を守ることで聖霊のバプテスマを受けたのでもありません。パウロが言うように、私たちは信仰をもって聞いたので、救いと聖霊を受けたのです。信仰をもってメッセージを聞き、それを信じ受け入れたのです。

そのあと、パウロは言っています。

「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」

そのようになることは愚かなことです。あなたが義の道を歩み始めるために聖霊を必要としたのなら、どうして聖霊にゆだねることをやめることができるのでしょうか。どうやってあなた自身のつまらない 規則に頼ることができるのでしょうか。しかし、これは非常に現実的なことです。

続けて10 節を見てみましょう。

「というのは、律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。『律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。』」

律法を守ることで正しい者になろうとするなら、常に律法全体法を守らなければなりません。そして律法を守ろうとするけれど、常に律法全体を守っていないなら、「この律法のことばを常に守らない者はのろわれる」と宣告されているのろいの下に置かれるのです。

ペンテコステ派やカリスマ派の信者がのろいのもとに置かれる可能性はあるのでしょうか。可能性はかなり高いと思います。実際、私自身の経験でそのことを知っています。詳しくは語りませんが、私は、 誰かの主導によるのではなく、主権者なる聖霊に導かれた教会のムーブメントに関わっていました。神は、私がよく知る3 人の説教者たちに加わらせてくださいました。私たちは御霊によって始めましたが、1 年もたたないうちに肉に終わってしまいました。結果は悲惨なものでした。ですから、私はそれが現実的だとわかるのです。私がその経験者です。神は恵みにより、そこから救い出してくれました。私が聖書を読んで信じ、自分が置かれていた状況を理解したからだと思います。しかし、それは遠い昔のことではなく、今日でも起こっているのです。御霊で始まった人々が自分たちの肉的な性質によって完全とされようとして、のろいのもとに来るのです。

私自身のことを思い返すと、多くの教会がのろいのもとにあると言えるかもしれません。 

もう一箇所、エレミヤ 17:5を見てみましょう。

「主はこう仰せられる。『人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。』」

「心が主から離れる」と言っているということは、以前は主との交わりがあったことは明らかです。 しかし、人間や自分に信頼するようになり、その人の心は主から離れてしまったのです。

私は、キリスト教会と呼ばれている多くの教会にそのようなことが起こっていると思います。特定の名前を挙げるつもりはありませんが、かなり多くの教派やムーブメントが神の恵みによって、神の霊の主権的な働きによって生まれました。彼らはそこから離れるべきではありませんでした。しかし、今日神の恵みにおいて継続しているものはどれくらいあるでしょうか。とても少ないと思います。彼らはエレミヤ 17:5で宣告されているのろいのもとに自分たちを連れて来たのです。

「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。」

私の経験から説明しましょう。妻と私はエルサレムの家を売ることを決めて、不動産業者に行くと、彼らはこう言いました。「これは素晴らしい家ですから、すぐに高値で売れると思います。」しかし、14 か月間も売れなかったのです。私たちにはその理由がわかりませんでした。しかし、妻と私がエルサレムの教会の礼拝に出席していたとき、牧師がこう言いました。「悪霊からの解放を必要としている人のために祈ります。」そのように言う牧師はほとんどいませんが、その牧師はそう言ったのです。そのような彼を気に入っていたので、妻と私は彼の手伝いをしようと思って参加したのです。その日、解放を必要としていた人は、のろいのもとにあったアフリカからの宣教師でした。説明は省きますが、そののろいは、アフリカ人の司教によって宣言されたものでした。彼は瀕死の状態でした。私たちは祈り、彼はいくつもの悪霊から解放されました。そのあと私たちは、彼の人生に対する態度全体を取り扱い始めました。私は彼にこう言いました。「あなたは自分自身をあまりにも信頼しすぎているようですね。神の恵みにより頼んでいない。実を言うと、私にもその問題を抱えていたことがあるのです。」そのようなことを 言うつもりはなかったのですが、口から出てきたのです。「私は家を売るときに、自分の力に信頼していたので、その問題があったのです。」妻は、率直にものを言う人なので、人々の前で私に「じゃあ、あなたはのろいのもとにあるのですね」と言いました。私は「その通りだ」と答え、それを告白し、悔い改めて、私ものろいから解放されました。私たちはその集会から引っ越しした新しいアパートに帰ると、 1階で不動産業者と出会いました。彼は、「あなたの家を買いたいと言う人が何人かいるので、見せてもいいですか」と言いました。そして2週間以内に家は売れたのです。お分かりになりますか。私がのろいから解放されたその瞬間に、神は私たちのために動くことができたのです。 

先に進みましょう。この話題について、いくつかの一般的見解を言いたいと思います。

そして肯定的 な方向に進めなければなりません。繰り返しますが、律法は私たち自身の能力に関係なく、外側から働 きます。恵みは超自然的な能力を与えるために内側から働きます。私たちは、恵みによってのみ、それを行うことができるのです。

レビ記 11:44と第一ペテロ 1:6 に「聖でありなさい」という命令があります。これは神からの命令 です。しかし、レビ記11章を読むと、食べて良い物と食べてはいけない物についての細かい規定の最 後にその命令が来ています。あなたが聖であろうとするなら、これらすべての規定を守らなければなら ないということです。しかし、第一ペテロ 1:16 には、この規定には全く触れられていません。伝えたいメッセージは「聖であること」です。それはイエスからのメッセージです。「わたしの聖さがあなたが たのうちに生きるように。」まったく異なります。もはや私たちの努力に頼るのではなく、自分でできな いことを、神とイエスの恵みにより頼むのです。あなたはどちらかを選ばなければなりません。

さて、その肯定的な側面を少し考えてみましょう。ローマ 8:3-4を開いてみましょう。

「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを...」

これまで学んできたように、律法には何の問題もありません。私たちの無力さのゆえです。

「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。 神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」

これのどこが肯定的なのでしょうか。

「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」

これは難問です。義が律法に要求することは何でしょうか。そのようなことを考えたことがありますか。短い単語でお答えしましょう。愛です。愛こそが、律法の要求です。いくつかの聖句から示しましょう。

マタイ 22 章でイエスは律法学者に質問されています。律法の思いはこのようなものです。35 節です。

「そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。『先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。』」

具体的な質問に、イエスは即座に、具体的に答えておられます。

「そこで、イエスは彼に言われた。『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』 という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」

鍵となる言葉は何ですか。愛です。神への愛、隣人への愛です。

そしてイエスは、「律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです」と言われました。

さて、もし私が暑いと感じて上着を脱いでハンガーに掛けることにします。ハンガーは服を掛ける前になければなりません。言うなれば、これらの命令は、律法全体と預言書が掛かっているハンガーです。つまり、あなたがすべての律法と預言書を読むとき、そこには神を愛しなさい、隣人を愛しなさい、と書かれているのです。それこそが、律法の要求です。

ローマ 13:8でパウロは言っています、

「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。」

私には借金がありませんが、返済することのできない負債が一つあります。それは、クリスチャンの友人たちを愛することと、人々を愛することです。私にはその負債を抱えており、その負債はいつまでも続くものです。

パウロは続けています。

「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』ということばの中に要約されているからです。 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」

非常に明確です。

そして、ガラテヤ 5:14 です。

ローマ人とガラテヤ人がどのように寄り添っているかに驚かされます。
「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」

少し戻ってガラテヤ 5:6 です。

「キリスト・イエスにあっては、割礼も無割礼も何の役にも立たず、ただ愛によって働く信仰だけが重要です。」

信仰はどのように働きますか。愛によってです。

ヤコブの手紙にこう書かれています。

「行いのない信仰は死んでいるのです。」

信仰は愛によって働くので、「愛のない信仰は死んでいる」のです。これは衝撃的な言葉ですが、真実です。あなたは信仰を持っていると主張することができますが、あなたの人生に愛がなければ、それは死んだ信仰なのです。

Iテモテ 1:5、6を読んでみましょう。

「この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。 ある人たちはこの目当てを見失い、わき道にそれて無益な議論に走り...」

新アメリカ標準訳聖書は「私たちの教えの目的は愛である」と言っています。それを読んだとき、私は自分に言いました。本当に私の教えの目的はそれなのか?私は本当に愛する人々を育てることを目指しているのか?私の教えを受けた人々の中で考えたとき、私はあまり自信がありませんでした。なぜなら、私は本質的に教師であり、教師は知識を伝えるからです。知識が何をするか知っていますか?それは人を膨らませ、誇り高くさせます。私は、誇り高い人々を生み出さないように、私の力の限りを尽くして教えるように努めることを学びました。しかし、私が育てた人々を振り返ると、「ああ、私はあまり良い仕事をしなかった」と言わざるを得ません。私たちの教えの目的は愛です。

それから、パウロは、目当てを見失い、わき道にそれて無益な議論に走ると言っています。

私たちが知っている教会について少し考えてみましょう。教会でどれくらい無益な議論がなされてい るでしょうか。愛を生み出さないメッセージや教え、活動はどれぐらいあるでしょうか。それらはすべ て無駄な努力です。まったく効果がありません。あなたが何らかの奉仕に携わっているなら、あなたの 動機は何かをよく探ってみてください。何を生み出そうとしていますか。そして、もしあなたが愛を生 み出すことを目指しているなら、それを実際に生み出していますか。もしあなたが愛を生み出すことを 目指していないのなら、あなたが語ることはすべて中身のない言葉に過ぎません。

律法は恐れによって私たちを動機づけますが、イエスは愛によって私たちに動機づけます。イエスは、 「あなたがたが私を愛するなら、私の戒めを守るはずです」と言われました。恐れは結果を生みません。 恐れによって人々に動機づけをしている多くの宗教があり、彼らは最も恐ろしい結果を生み出していす。キリスト教だと主張しているものも含めてです。

最後に、これを言わせてください。愛による従順は進歩的です。あなたは愛において完全ではありま せん。私もそうです。しかし、それは私が義とされていないという意味ではありません。なぜなら、私 たちがゴールに達するまで、私たちの信仰は義とされるからです。あなたがそのことを信じ続けるなら、 あなたの信仰は義とされます。このことは、最後の晩餐でイエスがペテロに言われたことばによって見 事に表れています。イエスは、「ペテロ、あなたはわたしを三度知らないと言います。」ペテロは言いま した。「私は決して知らないなどとは申しません。」そしてイエスは言われました。「わたしは、あなたの 信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」本当に重要なことは何なのでしょうか。私た ちの信仰がなくならないことです。私たちは多くの間違いを犯してしまうかもしれません。罪を犯してしまうかもしれません。私たちはまだ到達してないし、完全でもありません。しかし、私たちが信じ続けるなら、私たちの信仰は私たちがたどり着くまで義と見なされるのです。

最後に、私の好きなヤコブの手紙の一節で締めくくりたいと思います。ヤコブ 1:25 です。

「ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」

完全な律法、自由な律法とは何でしょうか。そう、愛です。あなたが本当に愛するなら、あなたは完全に自由な人です。それは、あなたの願うことをいつもすることができるからです。あなたはいつも人々を愛することができます。人々があなたを軽蔑したり、迫害したり、たとえ殺そうとしても、彼らにはあなたがその人たちを愛することをやめさせることはできません。愛を動機とする人は、世界で完全に自由な人だけです。アーメン!

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