岩の上に建てる

デレク・プリンス
*Last Updated: 2026年3月
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私たちは経験から、神の力を状況に解き放つための最も効果的な方法は、信仰をもって神の言葉を宣言することだと学びました。実際、私は何度も人々に言ってきましたが、言うことに飽きることはありません…ルースも私も、この宣言の武器を使うことを学ばなかったら、今日ここに生きているかどうか疑わしいです。私たちはそれぞれ異なる時期に、重い病気を経験しました。実際、私は何かを感染させられたか、致命的なものである何かが私に取り付いていました。しかし、今日ここにいるのは、医者のおかげと神のおかげ、そして聖書の力のおかげで、私は生きていて元気で、主に仕えています。
今朝は、イザヤ書55章10節から11節の箇所を宣言します。これは、私たちが扱うこの特定のシリーズに非常に適した内容です。
「雨が天から降り、雪が降るように、地に水を与え、芽を出させ、種をまく者には種を、食べる者にはパンを与えるために、戻ることはありません。同様に、私の口から出る私の言葉もそうであり、無駄に私のもとに戻ることはなく、私が望むことを成し遂げ、私が送った目的において繁栄するでしょう。」
アーメン。
聖書は良い教え方の手本であり、その中には様々な教え方の原則が見られます。その一つは、人々がすでに知っている内容から始めて、未知の内容へと導くというものです。決して未知の事柄から始めることはせず、必ず人々の知っている事柄から未知の事柄へと深めていくのです。聖書がよく使う方法の一つは、身近で分かりやすい日常生活の経験を取り上げて、それらを霊的な事柄に応用することです。 聖書の中にはそのような例がたくさんあります。種を蒔く農夫や、地引き網で魚を捕まえる漁師について、また武器を身に付ける兵士についてなどです。あるときは、結婚式を待つ花嫁について、全く結婚に関係のない文脈の中で話しています。これらは、ほんの一例にすぎません。
その中でも、私が注目したい身近な活動は、「建物を建てる」ことです。 これは、クリスチャン生活を描写するために聖書の中で頻繁に使われている例えです。
まずは、ユダの手紙を開きましょう。これは、私たち信者に向けた励ましの言葉です。
しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。神の愛のうちに自分自身を保ち、 (ユダ 20、21)
聖書はここで、私たちに「最も聖なる信仰の上に自分自身を築き上げなさい」と言っています。これは建築の比喩が用いられている一つの例です。私たちには自分自身を築き上げる責任があるのです。
そして、エペソ人への手紙2章では、主にある聖なる宮について語られています。
このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。 (エペソ 2:21、22)
クリスチャンの共同体として、私たちは神の住まわれる場所として、御霊によってともに築き上げられるのです。
さらに、イエスを「生ける石」と表現して、ペテロはこう言っています。
主〔イエス〕のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。 (Iペテロ 2:4、5)
ここでは、私たち一人ひとりが、主の住まわれる聖なる神殿をともに築き上げる生ける石に例えられています。
最後に、使徒の働き20章からもう一つの例を見てみましょう。これは、パウロがエペソの長老たちに語った別れの言葉です。エペソは、パウロの働きが最も大きな影響を与えた場所の一つであり、彼はその長老たちを特別に愛していました。使徒の働き20章で、パウロは彼らに別れを告げ、彼らがこの地上において私を見ることは二度とないと言いました。それは、彼ら全員の心に深く刻まれた瞬間でした。これこそ、パウロが彼らに残したかった最後の励ましの言葉です。
今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。 (使徒の働き 20:32)
パウロは、私たちを築き上げるための第一の手段は、神の恵みのことば、 すなわち聖書だと教えています。聖書は私たちを築き上げ、イエス・キリストへの信仰によって主のために選び分けられた者たちの中に御国を受け継がせることができる、と言っています。
私は建築家ではありませんが、一つだけ知っていることがあります。それは、レンガや石材、コンクリートや木材などのどんな素材で造られるにしろ、恒久的な建物にとって最重要なのは「土台」だということです。聖書は特にこのことを取り扱っており、これは、私たち一人ひとりにとって非常に大切な事柄です。
土台が、その上に建てられる建物の限界(重さにおいても、大きさにおいても)を決めます。「土台が限界を決める」というのは、クリスチャン人生でも同じです。あなたは、土台の許容量を超えた豊かなクリスチャン人生を築き上げることはできません。これは重要な問題です。あなたの土台は何でしょうか。あなたは正しい土台を据えているでしょうか。適切で完全な土台は一つしかありません。それはイエス・キリストです。パウロはコリントのクリスチャンたちに宛てて、二つのたとえを用いました。彼は農業のたとえを使い、さらに建物のたとえを使っています。
私たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。誰も、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。 (Iコリント 3:9-11)
パウロは、クリスチャンの生活にはただ一つの基盤があり、それはイエス自身であると言っています。そして、その基盤の上に築かれていないものは、時の試練や試練に耐えることができません。ですから、私たち一人ひとりが自分の人生が何に基づいているのかを評価することが非常に重要です。私たちは本当に主イエス・キリストの上に築かれているのでしょうか?私たちは、イエスとの個人的な関係と個人的な知識を持っており、それによって彼に個人的に関わることができるのでしょうか?
パウロは、イエスだけが唯一のクリスチャン人生の土台であると言っています。その土台の上に建てられていないものは、時の試練と苦難の試練に耐えることができません。ですから、私たちは一人ひとりが自分の人生が何の上に建てられているのかを吟味することはとても大切です。私たちは本当に主イエス・キリストの上に建てられているでしょうか。私たちはこの方と個人的な関係を持ち、この方を個人的に知っているでしょうか。
イエスに土台を据えているかという質問は非常に重要です。ですから、どのようにしてイエスという土台を私たちの人生に据えることができるのかについて、少し詳しくお話ししたいと思います。あなたの霊的な状態や経験を振り返ってみて、イエスとあなたの関係が正しいものであるかどうかを吟味してみてください。まずは、マタイの福音書16章にある、基本的な教えから始めましょう。イエスは弟子たちに話しています。
さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに 「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。
〔ここでイエスは個人的に問いかけました〕
「しかし、彼は彼らに言った、『では、あなたたちは私を誰だと言いますか?』すると、シモン・ペテロが答えて言った、『あなたはキリスト(メシア)、生ける神の子です。』」
それはペテロの人生において、そしてキリスト教全体の歴史において重要な瞬間でした。
すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。」 (マタイ 16:13-18)
これはペテロにとって、そしてキリスト教の歴史において決定的な瞬間でした。イエスはこのペテロとの出会いを通して、私たちがイエス・キリストご自身に土台を据える方法を確立されたのです。
ペテロは教会の土台であるとよく言われます。もしそうなら、教会はたいへん不安定な建物になってしまうでしょう。なぜなら、この直後にイエスはペテロを叱って、「下がれ、サタン」と言われたからです。さらに後に、ペテロは主を三度否定しました(ヨハネ18:15-17、25-27)。復活の後でさえ、ペテロが同胞のユダヤ人たちを恐れて福音の真理に妥協したことについて、パウロは叱責しなければなりませんでした(ガラテヤ2:11-16 参照)。私としては、教会がペテロの上に建てられたのではないことを感謝しています。(ましてや、私の上でなくて良かった!)
この箇所は、聖書の言語であるギリシア語ではとても明白です。「あなたはペテロ(ペトロス)です。わたしはこの岩(ペトラ)の上に、わたしの教会を建てます」(マタイ16:18)。「ペトロス」は、ギリシア語で「石」またはは「岩石」という意味で、それ以上の意味はありません。それは誰かを石打ちにするときに使われたような拾い上げることのできる大きさの石です。一方、「ペトラ」は、岩盤から伸びた粗い岩のことです。崖のように大きなものを表現するのに用いられることが多い言葉なのです。ここで大切なのは、それが岩盤の一部であることです。この岩盤とは何でしょうか。それは、ペテロがちょうど経験していたことです。聖霊によってのみ明らかにされる、イエスがどういうお方かという認識です。父なる神が聖霊によって啓示されるのでなければ、誰もイエスが本当は何者なのかを知ることはできません。
これが『ペトラ』、クリスチャン信仰の基礎となる岩盤なのです。それはイエスとの個人的な出会い、そして個人的な啓示なのです。大工の子としてではなく、歴史上の人物としてでもなく、創造されたのでない永遠におられる神の御子としてイエスを知ることなのです。この岩の上に建てられるためには、この経験に至らなければなりません。私たちも、ペテロのような体験をする必要があるのです。
私が幾度となく人々に言ってきたのは、「たとえあなたが教会に加わっても、宗教的な儀式を経験しても、祈りの言葉を唱えても、なお変えられないことはあり得ます。しかし、真にイエスに出会うなら、あなたは変えられます。イエスに出会って何も変わらない人はいません」ということです。 私たちは自分自身に問う必要があります。「私は人生を変えるような主イエス・キリストとの個人的な出会いを経験したことがあるだろうか」と。
ペテロのイエスとの出会いを4つの段階に分けて考えてみましょう。一つ目は、「直面」です。イエスとペテロが直接向き合った時でした。二人の間には、仲介者も、祭司も、だれもいませんでした。個人的に、直接イエスと対面したのです。私たちの体験もこのようであるべきです。イエスは別の箇所で言われました。「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます」(ヨハネ10:9)。神の国に入る道はただ一つ、この門を通してだけです。この門は教会ではありません。教理でもありません。それはイエスです。「わたしは門です。」
第二に、この直面に続いて「啓示」がありました。父なる神が聖霊によっ て与えられた啓示です。イエスは言いました。「このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく」(マタイの福音書16:17)。生まれつきの感覚では、この真理に到達することはできません。啓示が必要なのです。これは必要不可欠です。個人的な啓示なしには、神の永遠の御子としてのイエスを知ることはだれもできません。どれだけ神学を学んでも、聖書学校に行ったとしても、教職者になったとしても、個人的な啓示がなければ、イエスを知ることができないのです。この啓示は父なる神から御子イエス・キリストを通してのみ与えられます。
あなたは、イエスとの個人的な出会いを経験しましたか。私は経験しました。第二次世界大戦中に真夜中の兵舎で私はイエスに出会いました。 私は教理など一切知らず、教会用語も全く知りませんでした。自分のことを「救われた」、「新しく生まれた」と表現することも知りませんでした。それらは後で学びました。しかし、私は根本的に、そして永遠に変えられたのです。私はそれによって完璧になったわけではありませんし、今でも完璧ではありません。しかし、私はより良い方向へと変えられたのです。
三つ目の段階は、聖霊が私たちに示されることを「認め、受け入れる」ことです。私たちは「はい、信じます。受け取ります」と言う必要があります。 私たちは何らかの応答をしなければなりません。それは自動的なものではなく、私たちの内側で何かが起こる必要があります。
そして、四つ目は、イエスへの「信仰を公に告白する」ことです。これが、 イエスがペテロから引き出したものです。「あなたはキリスト〔メシア〕です」(マタイ16:16)。ペテロはこれを公にしました。人々が「隠れクリスチ ャン」について話すのを聞くことがあります。特に信仰の表明が死を意味するような国においては、そのような「隠れクリスチャン」がいることは私も 認めます。しかし、いつまでも隠れクリスチャンのままでいることは、だれもできません。イエスがこう言ったからです。
マタイによる福音書10章32節から33節でイエスが言ったことをお読みします。
ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。 (マタイ 10:32、33)
イエスの特徴の一つは、私たちに三つ目の選択肢を与えないことです。二つの選択肢しかありません。認めるか、否定するかです。私たちが然るべき状況でイエスを認めないのなら、それは否定したことになります。したがって、私たちはみな、どこかの時点で私たちの主イエス・キリストへの信仰を公に告白しなければならないのです。これは多くの人にとって、極めて重要な瞬間です。
信者になった後、私が軍隊で気づいたことは、出会った最初の瞬間から全員に自分の信じていることを伝えるのが一番いいということです。そうすれば、後になってから、「まだ言ってなかったけど、実は...」と言わなくて済むからです。そこで、私は兵舎で毎晩あることをしていました。それは単なる宗教的な行為ではなく、どこにいても、私は自分のベッドのそばにひざまずいて祈ることでした。それは、周りの人々に自分がどのような人間かを示すものとなりました。この方が私にとってずっと簡単だったのです。私は、言葉を濁したり、自分が信じていることをすぐに言わなかったりしたために、後から本当のことを打ち明けることが余計に難しくなってしまったクリスチャンたちを見たことがあります。
私はこの習慣を勧めたいと思います。私たちは街角で福音を語ったり、先生であったりする必要はありません。主婦や生徒であるかもしれません。しかし、どんな立場であっても、私たちが神の子であるイエスを信じていることを人々に知らせるべきです。この出会いの基本的な4段階を復習しましょう。これが、自分の人生にイエスという土台を据える方法です。
第一段階:イエスとの直面があった。
第二段階:父なる神が聖霊によって与えられた啓示があった。
第三段階:その啓示をペテロは認めて受け入れ、応答した。
第四段階:彼は公の信仰告白をした。
ここで、「そのような啓示は今日もあり得るのか」という疑問が生じます。 私やあなたも、ペテロや他の弟子たちのように、個人的なイエスとの出会いを体験することができるのでしょうか。二つの重要なことを理解する必要があります。第一に、イエスがペテロに明かしたことは、ご自分が「大工の子」であるということではありません。ペテロはそのことは知っていました。そうではなく、イエスが明かしたのは、ご自分が「永遠の神の御子」であるということです。ヘブル人への手紙 13章8節で、聖書はこう言っています。
イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。
キリストは変わっておられません。そして、これからも変わることがありま せん。言語や文化、服装は問題ではありません。重要なのは、永遠に変わらないイエスというお方なのです。ペテロは、このことに直面したのです。おそらく、生まれて初めてだったでしょう。ペテロは確かにイエスが何者かという啓示を受けたのです。
第二に、この啓示は聖霊によって与えられました。聖書は、聖霊を「とこ しえの御霊」と呼んでいます。時間や流行、歴史、習慣、言語が変わって も、聖霊は変わることがありません。
これら二つの理由から、私たちもペテロと同じように直接的で個人的なイエスの啓示を体験することができるのです。もう一度言います。それは、第一に、啓示されたお方が永遠の神の御子だからです。第二に、それを啓示したのは永遠の霊だからです。
次に、実際的な課題を見ていきましょう。それは「土台を据えた後、その 上にどのように建物を建てていくか」です。この学びの冒頭で紹介した例えは、すべて建物についてであったことを思い出してください。私たちが次に取り掛かるべき重要かつ実際的な課題は、この土台の上にどのように建てるかということです。 この問いに答えるために、イエスの話された有名な例え話を見てみましょう。賢い人と愚かな人についての例え話です。二人はそれぞれ家を建てましたが、その建て方は異なっていました。
ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩 〔ペトラ=岩盤〕の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」 (マタイ 7:24-27)
まず重要なのは、どちらの家も同じ試練に遭ったことです。試練に遭わずに済む家はありませんでした。一方の家を襲ったのと同じ嵐が、もう一方の家にも襲いかかったのです。クリスチャン人生は嵐に遭わない人生ではありません。私たちは嵐を経験します。神は、私たちに嵐に遭わないと保証されたことはありません。事実、パウロとバルナバは初代教会に向かって言っています。「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」(使徒14:22)。もし、私たちが患難のない道を歩んでいるとしたら、それが神の国に至る道であるかどうか疑問であると、パウロは言ったのです。
私たちがなぜ患難を通るのかを説明するのは、この学びの範疇ではありません。しかし、私の言うことを信じてください。患難の中には確かに神の目的があります。今、患難を通っている人がいるなら、諦めないでください。神はあなたを乗り越えさせてくださいます。のちになって振り返ってみると、神が他の方法では学ぶことのできなかったことをあなたに教え、あなたと向き合っておられたことに気づくでしょう。私は自分の経験からそのことを学びました。
賢い人は二つの方法で家を建てます。イエスの言葉、聖書の言葉を聞くこと、そしてそれを行うことです。私たちはどのように土台の上に建てればよいかも、これと全く同じです。聖書の語っていることを聞き、実行することです。私たちは、ただ聞くだけの人になってはいけません。聖書はそのような人々に何の約束も与えていません。聞いて行う人のための約束しかないのです。これは実際的なことです。聖書の教え、イエスの教えを自分の生活に当てはめることです。私たちがみことばを実行し始めると、神は、私たちが真理を適用する必要のある新しい分野を開き続けてくださいます。
私はクリスチャンとなってもう50年以上経ちますが、神は絶えずみことばを適用する新しい方法を示し続けてくださっています。私の人生の中で、それらを適用すべき新たな領域を示し続けておられるのです。私の建物はまだ完成していません。今も建設中です。しかし、何度も数々の嵐を無事乗り越えて来られたことを神に感謝します。
イエスは、非常によく似たもう一つの例え話をしましたが、そこには重要 なことが追加されています。
なぜあなたがたは、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。 (ルカの福音書 6:46)
これは大切な問いかけです。イエスに従わないのなら、「主よ」と呼ぶことは無意味です。「主」という称号は、従うべき存在を表すものだからです。イエスは私たちの生き方を変えない、口先だけの告白をすることを警告しているのです。イエスは続けて言います。
それから彼はこのたとえ話を続けます。
わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人がみな、どんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ、岩〔ペトラ=岩盤〕の上に土台を据えて、家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せても、しっかり建てられていたので、びくともしませんでした。しかし、聞いても行わない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家はすぐに倒れてしまい、その壊れ方はひどいものでした。 (48-49 節)
マタイの福音書にはない重要な詳細が、ルカの福音書では加えられています。どれだけの人が気付いたでしょうか。岩盤に達するためには、深く掘らなければなかなかった、と言われているのです。岩盤の上に建てるためには、多くのものを取り除く必要がありました。これは私たちの多くにも当てはまることです。私を含め、名ばかりのキリスト教文化で育った人たちは、岩盤に達するまでに多くの障害や様々な影響を取り除かなければなりません。また、キリスト教の影響を受けていない文化の中で育った人も、多くのものを取り除く必要があります。何を取り除くかは人によって異なりますが、ここで、私たちが取り除くべき障害物を5つ挙げます。
全ての伝統が悪いわけではありません。良いものもあります。全ての伝統を捨て去りなさいというのではありません。しかし、イエスは当時の人々に言われました。「あなたがたは、自分たちの言い伝え〔英語では「伝統」〕のために神のことばを無にしてしまいました」(マタイ15:6)。たとえ、伝統を信じて行動したとしても、それらがみことばと合致しているとは限りません。私が思うに、イエスは今日のユダヤ人たちにも全く同じことを言うでしょう。「あなたがたは、自分たちの言い伝え〔英語では「伝統」〕のために神のことばを無にしてしまいました」と。しかし、これはユダヤ人だけに当てはまることではありません。キリスト教の背景を持つ多くの人にも言えることです。みことばにそぐわない伝統や振る舞い方や言動を私たちは受け継いでいます。
ですから、これらを慎重に吟味しなければなりません。
私たちが取り除くべき2つ目の障害は、偏見です。一度も偏見を持ったことがないという人は、おそらくいないでしょう。偏見といっても、様々な種類があります。例えば、「人種的偏見(差別)」です。残念ながら、今日の世界は人種差別で満ちています。例えば、南アフリカ共和国のような国では、人種差別によって特定の人々が教会から除外されてしまったことがあります。(しかし、その後、素晴らしい変化があったことも付け足しておきます。)なんと恐ろしいことでしょう。しかし、人種差別があるのは、南アフリカだけではありません。アメリカ合衆国は人種差別に満ちていましたし、今でも多くの場所でそれは残っています。
私はイギリス系の血筋なので、イギリス人も偏見を持っていることを知っています。私はそれらの差別の中で育ちました。そのため、その差別を取り除くためには、深く掘り下げる必要がありました。また、私たち家族はインドで過ごした時期があります。私の親も祖父もみな、インドでイギリス軍に従軍していました。私がまだ12歳くらいの頃、昼食を食べながら、「インド人をご飯に招待してみない?」と言ったことがありました。その言葉に家族は凍りつきました。その時、「みんなはなぜこんな反応をするのだろう?」と不思議に思ったことを今でも覚えています。後になって、それが偏見によるものだと分かりました。どのような人種的背景で育った人であっても、人種的偏見に全くとらわれていない人はほとんどいません。
また、「教派間の偏見」というものがあります。私たちの多くは、特定の教派に対して否定的な反応をすることがあります。私の最初の妻リディア(すでに天に召された)は、デンマーク人でした。彼女はデンマークのルーテル教会で育ったのですが、その教団としては前代未聞のことをしてしまいました。クリスチャンとしての洗礼を受けたのです。(デンマークでは、嬰児洗礼を施すので、こういう人のことを「二度目の洗礼者」と呼びます。)彼女は、デンマークの州立学校で教師をしていたので、洗礼後も教師を続けてもいいかどうか、議会に出頭しなければならなかったのです。それで、リディアは最期までルーテル教会に対して偏見を持ち続けていました。私は、彼女のしたことを肯定しません。それは、彼女の弱さだったと思います。
私も、特定の教派に属している人について聞くと、会ったこともないその人たちに対して良い印象を持たなくなってしまうことがあります。「彼らはきっとこんな風で、この部分が間違っているんだ」などと決めつけてしまうのです。しかし、実際に会ってみるまでは、できるだけその人たちを裁くべきではないということを、私は経験から学びました。私が「間違っている」と思っている教派の中で、私が知る中で最も「正しい」人々に出会ったことがあります。また、「正しい」と思っている教派の中で、間違った考えを持っている人に会ったこともあります。ですから、私たちは教派間の偏見に屈してはならないのです。
また、「社会的な偏見」もあります。私も、自分でも気付かないうちに社会的な偏見を持って育った人間の良い例です。私は、世界の他の人々の暮らしについて無知でした。私はイギリスのイートン校で学び、その後ケンブリッジ大学に行きました。それから、イギリス軍に入隊し、自分が今まで付き合ったことのない、いろいろな人たちと一緒になりました。その時、自分のイギリス人についての知識がいかに偏ったものであるかに気付きました。私はこの経験を主に感謝しています。軍隊で過ごした5年半は、私を多くの社会的な偏見から抜け出させてくれました。将校の家系だった私は、その階層であることに慣れていました。しかし、別の階層になったからこそ知ることのできたことがあります。それは、同じ階層にいる人を見る時は、自分と同じに見えます。しかし、下の階層から見ると、その階層の人が違って見えるということです。私は、主の助けをいただきながら、この視点にはいつも敏感であるように気を付けています。
他にも、個人的な偏見というものもあります。大声で喋る人が嫌いな人がいたり、赤毛の髪をした人が好きでない人がいたりします。私たちは様々な種類の愚かな偏見を持っているものです。私はりんごを丸かじりする人に対して偏見があります。偏見をなくそうと努力はしていますが、りんごをかじるあの音が苦手なので、まだ心のどこかに残っています。
私たちが除くべき三つ目の障害は、「先入観」です。例えば、ある人々はイエスについて完全に間違った見方をしています。優しくて、温和で大人しく、クリスマスパーティーにやってくるようなイエス。これは、本当のイエスの姿ではありません。彼はこのようなイメージとはかけ離れた方でした。 破天荒で、私たちの偏見や先入観を吹き飛ばしてしまうような方だったのです。
この他にも、私たちの周りには様々な先入観があります。例えば 、クリス チャンになることについての先入観です。私は小さい頃こう思っていました。「もし僕がクリスチャンになったら、残りの人生はさぞかし惨めなもの になるだろう。」パット・ブーンのように、私も「地上で70年間惨めな人生 を送ってまで、天国に行きたくはない」と思っていたのです。だから私はク リスチャンになるという選択肢を完全に排除していました。イエスと出会うまでは。
4つ目の障害は、非常に危険なものです。「不信仰」です。私が人々を教えるときに、まず皆に不信仰を捨てさせることから始めることが時々あります。私たちの多くは未だに様々な領域で不信仰によって悩まされているからです。私たちの心は、信仰に対してあまり開かれていないのです。
最後の一つは、「反抗心」です。私はこれが一番深刻だと思います。私たちは「自分は反抗者ではない!」と言うかもしれません。しかし、私たちは現に反抗者なのです。そして、そのことに気づいていない人は、これからも反抗者のままです。アダムの子孫は皆、内に反抗心をもって生まれてくるのです。私たちはその反抗心を見つけ出して対処しなければなりません。そして、反抗者に対する神の解決策はただ一つです。それは、死刑です。神は反抗者を教会に送ることはしません。彼に黄金律を教えたり、みことばを暗記させたりしません。彼を死に渡されるのです。しかし、ここに神の恵みがあります。この死刑は、2000年前イエスが十字架に死なれたときに、すでに執行されたのです。「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた」(ローマ6:6)。私たちは、自分の内にあるこの反抗的な心を見つけ、自ら死刑に差し出す必要があるのです。
ここで、聖書について話したいと思います。これはクリスチャン生活において、他の何にも増して大切だからです。私たちの聖書に対する態度はどのようなものでしょうか。それはイエスが持っていた態度と同じでしょうか。ヨハネの福音書の一節を読みたいと思います。イエスは言いました。
神のことばを受けた人々を神々と呼んだのなら、聖書が廃棄されることはあり得ないのだから... (ヨハネ10:35)
これは重要な一節です。イエスはここで聖書の二つの称号を用いています。それは、「神のことば」そして「聖書」(あるいは「聖典」)です。彼が聖書を「神のことば」と呼ぶとき、それは人ではなく神から出たものであることを意味します。人という経路を通して来たかもしれませんが、それは神から出た言葉なのです。
そして、「聖書」というのは限定的な表現です。これは、書物に書き記された物を意味します。神が言ったことで、書き記されていないこともたくさんあります。しかし、神の主権によって、書き記される必要があるとみなされたものが聖書に書かれているのです。これが、文字によって書かれた「聖書」です。
このことに関して、イエスは一つの単純で包括的な宣言をされました。「聖書が廃棄されることはあり得ない。」私たちがどれだけ聖書の霊性や権威について論じようとも、イエスはすでに結論を出しています。それは「廃棄されない」です。絶対的権威を持っています。その中にあるものは全て正確に成し遂げられるのです。聖書に反対したり、聖書を否定したりするのは自由ですが、それを私たちが廃棄することはできません。もし私たちがそれを否定するなら、最終的には私たちの方が滅ぼされてしまうでしょう。聖書が廃棄されることはあり得ないのです。
「高等批評」と呼ばれる研究をしている人々がいます。それは、聖書をあらゆるバカげた空想話と結びつけて、最終的には何の力もない虚しい本にしてしまうものです。
悪魔が私たちの人生の中でしたいことが一つあるとするなら、それは聖書の権威に対する私たちの信仰を失わせることでしょう。
しかし、もし私たちがイエスの姿に倣うなら、私たちが言うべきことは一つです。「聖書が廃棄されることはあり得ない。」
聖書が神のことばであるだけでなく、イエス自身も神のことばです。これはヨハネの福音書の二ヶ所に書いてあります。
初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 (ヨハネの福音書 1:1)
それはイエスを指しています。彼は言葉であり、彼は言葉です。
ヨハネの福音書 1章14節にはこう書かれています:
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネの福音書 1:14)
これらはイエスのことを言っています。彼は「ことば」であったし、今も「ことば」です。イエスが生まれ、ことばは「人」となりました。しかし、その前から、イエスは「ことば」でした。彼は永遠に神のことばなのです。
イエスが戻って来られるとき、どのように来られるのでしょうか。彼は何と呼ばれるのでしょうか。イエスが天国から栄光のうちに出て、地上で彼の 王国を設立するために来られるときの描写がここにあります。
また私は、天が開かれているのを見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている方は『確かで真実な方』と呼ばれ、義をもってさばき、戦いをされる。その目は燃える炎のようであり、その頭には多くの王冠があり、ご自分のほかはだれも知らない名が記されていた。その方は血に染まった衣をまとい、その名は『神のことば』と呼ばれていた。 (ヨハネの黙示録 19:11-13)
とても興味深いことが書かれています。イエスが最初に来られたときも、彼は「ことば」であり、再び来られるときも、彼は「ことば」だというのです。 彼は昔からずっとことばであり、今もことばであり、将来もことばなのです。
ここからとても重要な真理を導き出すことができます。それは、イエスと聖書との間には完全な一致がある、ということです。ですから、私たちが聖書に対してとる態度は、イエスに対する態度だと言えるのです。私たちは、イエスを信じて、聖書を信じないことはできません。この事実を理解できていますか。イエスは神のことば、人となった「ことば」なのです。聖書は、書き記された書物の中の「ことば」です。私たちが聖書に対してとる態度は、イエスに対する態度と同じであるべきです。この双方には完全な一致があるからです。
ここで、重要な5つの事実を検証したいと思います。それは神のことばと私たちとの関係についての事実であり、ヨハネの福音書のわずか3節の中に書かれています。イエスはこのとき、彼の弟子たちに別れを告げています。自分はこれから去って行き、彼らは一時的に取り残されると告げたのです。弟子たちにとっては、とてもショックなことで、この告知に圧倒されました。しかし、そのような中でイエスは素晴らしい啓示を与えています。 それは、私たち信じる者にとって聖書がどのようなものか、ということです。 彼は言いました。
あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。 (ヨハネの福音書 14:19)
イエスは、イエスを認めない「世」と、ご自分の弟子たちとを区別されました。この世は彼を見なくなるが、弟子たちはご自分を見ると言いました。
そこで、ユダが非常に適切な質問をしました。
イスカリオテでないほうのユダがイエスに言った。「主よ。私たちにはご自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、どうしてですか。」 (ヨハネの福音書 14:22)
次のイエスの答えには、大切な真理が詰まっています。
イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」 (ヨハネの福音書 14:23)
このイエスの答えから、5つの極めて重要な事実を導き出したいと思います。まず、第一に、イエスはご自分を弟子たちに現すと言われました。世にではなく、弟子たちにです。世と弟子たちを区別するしるしは何でしょうか。それは、神のことばを守ることです。真の弟子たちは神のことばを守ります。教団教派などによって区別されるのではありません。神のことばとの関わり方によって区別されるのです。これが、私たちを真の弟子にするかどうかを決定づけるものです。神のことばとの関係によって、弟子であるか、世の者であるかが区別されるのです。
どの教会でも、私たちは全てこの二つの分類のいずれかに属しています。もし私たちが弟子であるなら、私たちは神のことばを守ります。神のことばを守っていないなら、私たちはイエスの主権の下にない「世」に属しているのです。
二つ目の真理は、イエスが、「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります」と言ったことです。つまり、神のことばを守るかどうかが、弟子たちの神への愛を確かめる究極のテストなのです。愛こそが従順の動機なのです。私たちクリスチャンを突き動かすものが恐れではないことを理解することはとても大切です。私たちは愛に動機づけられます。律法は、「これをするなら、あなたは罰せられる」と、ある意味で恐れという動機を使うのです。しかし、これはうまくいきません。私は多くの子どもたちを育ててきました。その中で次のことに気づきました。親であるあなたの支配下にあるうちは、恐れを使うこともできますが、いったん離れてしまうと、彼らは変わってしまいます。いつまでも忠実であり続けるための唯一の動機は、「愛」なのです。神とイエスは知恵をもって、恐れではなく愛の上に関係を築かれたのです。神のことばを守ることが、弟子たちの神に対する愛の究極のテストです。愛が従順の動機となるのです。
さらにイエスは言いました。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、」ここに、もう一 つの素晴らしい事実があります。神のことばを守ることによって、父なる神 は、私たちを特別な愛をもって愛してくださるのです。もちろん、神は全世 界を愛しています。しかし、神は彼のことばを守るイエスの真の弟子たちに対して、程度も種類も全く違った愛を持っておられるのです。
ユダの質問を振り返ってみましょう。「主よ。私たちにはご自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、どうしてですか。」イエスの答え はこうでした。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。」では、キリストはどのように私たちにご自身を現すのでしょうか。「みことば」を通してです。私たちは、みことばを守ることを通して、イエスをより深く知るようになるのです。私たちは、素晴らしい霊的な体験をすることがあるかもしれません。第三の天に引き上げられるような体験をするかもしれません。しかし、それは多くの人には起こりませんし、神が、またイエスがご自身を現す基本的な方法ではありません。基本的な方法は、神のことばを守ることを通してです。
最後に、この驚くべき言葉を見てみましょう。「だれでもわたしを愛する人は...わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」聖書の中で、神について複数形の代名詞が使われているのは非常に少ないのですが、ここはその一つです。イエスは、「わたしたち(わたしとわたしの父)は、その人のところに来て、その人とともに住みます」と言いました。これは息をのむような言葉です。父なる神と子なる神が私たちのところに来て、ともに住みたい、という驚くべき啓示なのです。私たちをご自分たちの住まいとしたいのです。しかし、それはどのようにして起こるのでしょうか。ことばを通してです。私たちがことばを愛していないなら、また私たちがことばに従わないなら、神は私たちと共に住んでくださいません。
最後に、一つのことを言わせてください。これから言うことは、とても真剣な話です。私たちは、神のことばを愛する以上に、神を愛することはありません。つまり、私たちが神をどれだけ愛しているか、また神が私たちの人生に占める割合を知りたいと思うなら、知ることができます。あれこれ推測する必要はありません。ただ自分自身にこう問いかけるだけです。「私はどれくらい聖書を愛しているのか」、「私の中で聖書はどれだけの位置を占めているか」と。何故なら、それがあなたの神に対する愛の大さであり、あなたの人生の中で神が占めている割合だからです。
聖書に関するこれらの5つの事実は非常に重大なので、ここに要約したいと思います。非常に多くのクリスチャンがぼんやりした状態の中にいます。何が光で何が闇かはっきりわからないのです。彼らは、「こうであって欲しい」と願ったり、期待したりしますが、確信がありません。それは、彼らが神のことばを自分の中であるべき場所に置いていないからです。
神のことばを守ることが、真の弟子をこの世から区別する。
神のことばを守ることが、神に対する弟子たちの愛の究極のテストである。そして、恐れではなく、愛こそが私たちの従順の動機である。
神のことばを守ることが、弟子たちに対する神の愛を起こさせる究極の原因となる。神は弟子たちを特別に愛される。神は全世界を愛しているが、弟子たちのために特別な愛を持っておられる。しかし、神が弟子として愛しておられるのは、神のことばを守る者たちである。私たちが神からの特別に深い愛を受けたいなら、彼のことばを守らなければならない。
神のことばが守られ、従われることを通して、キリストは私たちにご自身を現す。「どのようにして私たちにはご自分を現し、世には現されないのですか」という質問に対するイエスの答えは、「もしあなたがわたしを愛するなら、わたしのことばを守ります。そうしてわたしは自分自身を現します。」
最後に、神の言葉を通して、父と子は私たちのうちに住むためにやって来られる。これを考えるたびに、私は圧倒されて息が止まりそうになります。父なる神と子なる神が私たちと一緒に住むことを望んでおられるのです。しかし、それが実現するのは、私たちが神のことばを守るときだけです。
祈りましょう。
天の父よ。あなたのことば、神のことばである聖書を感謝します。この確かで権威ある、誤りのない言葉は、私たちの足のともしび、道の光です。私たちを、あなたのことばを愛する者へと変えてください。あなたの恵みによって、あなたのことばである聖書を私たちの人生の正しい位置に置き、主イエスの真の弟子となることができるように助けてください。
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