前回の学びは、別の言葉(異言)で話すという超自然的しるしを伴う聖霊のバプテスマについてでした。神の目的の中で、聖霊のバプテスマは単なる入り口に過ぎないと私は考えます。過去のペンテコステのムーブメントでは、それがゴールなのか、入り口なのかという議論がなされてきました。そして、「私は救われ、水のバプテスマを受け、聖霊のバプテスマを受けた。異言で話している。私はすべてを得た」 と主張するペンテコステ派がいくつかありました。残念ながら、それは間違いで、「すべてを得た、到達した」と考えていた人たちは消えてしまいました。バプテスマはゴールではなく、入り口です。終点ではなく、超自然的な力の中を生きる人生の始まりです。通常、ほとんどの人の経験において、聖霊のバプテスマは、御霊の超自然的な賜物や他の多くの超自然的な経験への入り口であると私は信じます。自然の領域だけで充実したクリスチャン生活を送ることは不可能だと思います。クリスチャン生活は超自然で満ちています。使徒の働きは 28章ありますが、そのすべての章に超自然的な出来事の記述があります。使徒の働きの書は、主が教会に意図しておられる、教会のあるべき姿の唯一の公的記録なのです。

ですから、バプテスマに続いて、このセッションと次のセッションで超自然的な御霊の賜物を取り扱いたいと思います。まず、第一コリント12:8-10にあるリストから読みましょう。そこには9つの賜物が書かれています。

「ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。」

聖書学者の間では、一般的にそれらの 9 つの賜物を 3 つのグループに分けています。これは教理ではなく、利便性のためです。この学びで扱う賜物に焦点を当てる前に、そのことを簡単に説明します。

啓示の賜物は3つあります。「知恵のことば」、「知識のことば」、そして「霊を見分ける力」です。これらは啓示の賜物です。

また、力の賜物も 3 つあります。「信仰」、「奇跡」、そして「癒やし」です。

残りの3つの賜物は、人間の声帯を通して働く、声の賜物です。とても興味深いことに、舌はからだの中で問題となる器官であるため、常に問題を引き起こす賜物は、声の賜物です。声の賜物とは、「異言」、「解き明かし」、「預言」です。

この学びでは、その3つの声の賜物だけを扱います。聖霊のバプテスマのしるし、すなわち、新しい言葉で語ることについては、すでにお話ししました。実は、それは異言の賜物ではありません。異言は、『舌のようなもの』、『多くの舌』と呼ばれています。つまり、それは単にもう一つの言語を話すだけではありません。聖霊のバプテスマを受けたすべての信者は、いつでも別の言語で主と個人的に語るための神による権利と賜物があると、私は信じます。パウロはIコリント14章でそれについて言っています。「異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです...異言を話す者は自分の徳を高め...」つまり、異言を話す3つの機能、3つの理由があります。一つ目、神に話す。これは特権です。あなたは、異言で話すことは特権であることに同意しますか。霊と霊で、生ける神と直接話すのです。二つ目、あなたの小さな頭では理解できない奥義を話す。そして3つ目、あなた自身の徳を高める、建て上げるためです。多くの人がこう尋ねるでしょう。「異言で話すことに何の意味があるのか。」明確な答えは3つです。神と直接話す、奥義を話す、自分自身を建て上げる。他の理由がなければ、それで十分でしょう。

異言の賜物の種類は、それ以上にあると思います。その種類とは、様々な異言の用い方のことです。別の異言の種類は、集会の中で未知の言葉を大きな声で話し、何らかの解き明かしがなされるものです。もう一つの異言の使い方は未信者に対するしるしです。これは非常にまれで、ほとんどのカリスマ派は、それを受け入れていません。しかし、神の民がともにいる時、あるいは神の民が祈っている時、ある信者が自分では知らない言葉を話し、その場にいる未信者がその言葉を理解できることがあります。それは未信者に対するしるしです。

何年も前の話ですが、今は私の義理の息子となっている若者がロンドンの街頭集会に連れて来られました。彼はウエールズ出身でした。ウエールズ人は自分たちの言語を誇りにしています。その伝道集会で、私は福音のメッセージを語り終え、応答を求めようとしていたときに、そこにいた一人の年配の紳士が異言で話し出しました。私は腹が立ちました。彼は私のメッセージを台無しにしていると思いました。そのあとのことはよく覚えていませんが、先述の連れて来られた若者が私の娘をつついて、「どうして、あのおじいさんは僕の罪をみんなの前で話すんだい?」と言ったそうです。ウエールズ語を全く知らないその紳士がなぜウエールズ語を話すことができたかを彼に説明するのに10分もかかりました。

何年も前、アメリカのシアトルの聖ルカ聖公会に、病院の入院患者を訪問している女性がいました。彼女は一人の男性患者に英語で話しかけましたが、彼は英語がわからなかったので応答しませんでした。彼はベッドに横たわっており、熱心なカリスマ派だった彼女は異言で話しました。すると、彼の表情が明るくなり、彼女に答え、少し会話をしました。その男性はとても励まされました。彼女は自分が話している言葉が何なのかを知りませんでした。彼女はのちに、それが彼の母国語であるカナリア諸島のスペイン語であると知りました。

私の友人は、少し前にロシアにいました。彼女は地下鉄でロシア人男性の隣に座りましたが、彼はとても悲しそうで落ち込んでいるようでした。彼女は「何か彼のためにしてあげたい」と思いました。それで彼女がただ主に信頼して口を開くと、彼女は学んだこともないロシア語で話し始めたのです。

それらは例外で、普通のことではありませんが、それも未信者に対するしるしの一つです。

また、異言で話すことには多くの異なったかたちがあります。自分が異言で話しているときに、非常に怒っているようだと感じたことがありますか。信じられないぐらい激流のように出てくるのです。それは、あなたが悪の力に向き合っている時であると私は信じます。あなたはどう祈ったらいいのか、何を言えばいいのかわからないのですが、聖霊が人々を通して現れるのです。

そして、礼拝のためだけの異言があります。それは単に神とのコミュニケーションです。つまり、異言は非常に豊かな領域なのです。

異言についてはここまでにして、他の2つの声の賜物である解き明かしと預言に進みましょう。まず、定義から始めなくてはなりません。解き明かしの賜物は、異言の賜物とは切り離すことができません。しかし、誰かが聖霊によって未知の言葉を話している場合、解き明かしの賜物は、知的理解を通してではなく、聖霊の洞察によってその本人や他の人が知らない言葉で語られたものを、みなが知っている言葉で話すことができるのです。それは解き明かしであって、正確な翻訳ではありません。興味深いことですが、外国で通訳者を介して話したことのある方にはわかると思いますが、通訳者は一人ひとり異なります。それぞれ特定の単語を用い、多くの単語を使う人もいれば、あまり多くの単語を使わない人もいます。以前、カナダ人がケニアに行った時、その国で最も優れた通訳者の一人を通して話していました。彼が短い文を話すと、その通訳者は2分ぐらい話しました。そのカナダ人は、「私はそんなにたくさん話しましたか」と通訳者に聞きました。そこで通訳者はこう言いました。「いいえ。でもあなたが言ったことを彼らに理解してもらうために、あれだけのことを言わなければならなかったのです。」それが解釈です。文章を伝えるということなのです。解き明かしとは、知らない言語で語られたことを、そこにいる人々がわかる言葉で伝えることです。

私がよく知っているイギリスの兄弟が、今アメリカにいるのですが、彼はロンドンの中心でペンテコステの集会が行われていた初期の頃のことを教えてくれました。その時、誰かが異言で発言し、解釈を待っていたのですが、解釈が来たのはコックニーの男性からでした。コックニーが何か知っている人はどれくらいいますか?理論的には、ロンドンの「ボー・ベル」の音が聞こえる範囲内で生まれた人のことです。私はコックニーを真似することはできません、それは私の能力を超えています。しかし、解釈はこうでした—アメリカの皆さんには理解できないかもしれませんが、「ちょっと待って、私の人々、ちょっと待って。」さて、「ちょっと待って」は「半分の瞬間」という意味です。言い換えれば、ちょっと待って、そんなに急がないでください。ご覧の通り、それが解釈でした。コックニーの解釈として特徴的です。ですので、この解釈の領域にはかなりの柔軟性があるということです。

しかし、知られていない言語で以前に言われたことの意味を、知られている言語で伝えています。

予預言は、さらにもう一歩進みます。預言とは、聖霊によって与えられたことを、人々が知っている言語で話すことです。それは人間の理解から来るものではなく、聖霊によって超自然的に与えられます。解き明かしと預言の違いとは、解き明かしは、知らない言葉を語ることに続いて、その発話に関連したものであるのに対し、預言は、知られている言語で語ることです。神の民が集うところでは、ほとんどの場合、異言に続いて語られるのは、解き明かしではなく、預言です。ある意味、その異言は神の民の注意を促し、続いて起こる預言のための道備えなのです。

今からしばらくの時間、みなさんを解き明かしと預言の練習に導きたいと思います。集会の規模の大小は問題ではありません。重要なことは、人々が神のことばを信じ、それに基づいて行動しようとすることです。その体験の中を歩みたいと願うなら、あなたは神との個人的なコミュニケーションの新しい領域に入って行くでしょう。

前の学びで、あなたの場所を見出すことについて話しました。神からの召命を求めるチャレンジを受けた方もいると思います。これは、神があなたをいるべき場所へ導き始める方法の一つです。神が解き明かしを通して与えてくださる人生の導きのことばを受け取る時、人々の目が感謝の涙であふれるのを私は見てきました。それは、彼らにとって神をさらに現実的にさせました。また、霊的生活全体をさらに現実的にさせました。

賜物を一般的に用いるために、まず、みことばの励ましを紹介したいと思います。これは、第一ステップです。最初の聖句は、Iコリント12:7と11です。パウロが言っている9つの御霊の賜物のリストを紹介します。

「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。」

賜物は御霊の現れであることに注目して下さい。あなたのうちに住む御霊は目に見えず、人間の感覚によって知ることはできません。しかし、賜物は人間の感覚にインパクトを与えます。それは、あなたの中にある聖霊を人間の感覚と結びつけます。それは個人に与えられるのですが、すべての人の益のために与えられるものです。つまり、もし神があなたに預言を与えているのに、人に分かち合うことに臆病になるなら、あなた自身を欺くだけではなく、キリストのからだである教会の人々をも欺くことになるのです。つまり、あなたに管理責任があり、自分の気分次第で自分のために用いるものではありません。あなたの責任です。神はあなたを通して隣人に語りたいのかもしれません。神は会衆全体に語りたいと思われるかもしれません。神は説教者に語りかけたいのかもしれません。ですから、「気が進まなければ、やらない」という態度を取らないでください。それは無責任なことです。賜物は、すべての人の益のために一人ひとりに与えられるのです。みなの益のためです。

繰り返しますが、それは一人ひとりに与えられています。同じ章の 11 節です。

「しかし、同じ霊がこれらすべてのことを行い、彼の意志に従って各々に個別に分配します。」

「おのおのにそれぞれの賜物」とあります。パウロは、一人ひとりの信者が御霊の現れを受ける権利があるという考えを持っていました。しかし、一人ひとりにどのように現れるかを決定するのは御霊です。そして、その章の最後の31節です。

そして、その章の最後の 31 節です。

「最も良い賜物を熱心に求めなさい。しかし、私はあなたにより優れた道を示します…」

以前言ったことをもう一度言いましょう。賜物はおもちゃではなく、道具です。道具は仕事をするために必要なものです。そして、もしあなたが神の備えを拒絶し、その仕事をしないのなら、あなたがしなかった働きについて、神から責任を問われるでしょう。

「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。」

そして、14 章 1 節です。

「愛を追い求めなさい...」

多くの人がそこで止まってしまいますが、続きがあります。

「また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」

愛を追い求めなさいとか、御霊の賜物を求めなさいとも言っていません。どちらか一つではなく、愛を追い求め、御霊の賜物を求めなさい、特に預言を求めなさいと言っているのです。あなたは今、預言を求めていますか。そうでなければ、みことばに従っていないことになります。

そして、26 節。

「兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。」

神の民が集まるとき、単に受け取るために来るのではなく、分け与える何かを持って一人ひとりが来るべきです。私たちが分け与えることのできる主な方法の一つは、御霊の賜物によるものです。それが神の平等性です。ある人は天性の賜物があり、知的で知識があり、明確に発言でき、恥ずかしいと思わず立ち上がり、時に長く話し過ぎることもあります。しかし、ほとんどの人は内気で、「私に何ができるでしょうか」と言います。実際、神はあなたに超自然的な能力を与えられています。パウロは、神は最も必要としている部分にその能力を与えたと言っています。あなたの教会に、一人は医者、もう一人は清掃の仕事をしている女性がいるとします。平均的な教会では、医者は教会の役員になり、清掃婦は教会でただ席に座っているだけです。誰もが、そこが彼女の居場所だと思っています。しかし、聖霊が働かれる教会では、医者は教会役員のままですが、清掃婦は預言者になります。それが神の知恵であり、神の正義です。超自然を拒絶すると、自分の限界の中に自分自身を縛りつけることになります。

さて、皆さんの注意を引くために、それら2つのことを逆の順序で言いました。三つ目のアウトラインは私にとって2つ目です。解き明かしについてです。解き明かしの賜物の練習に導きたいと思います。準備はいいですか。あなたの決断次第です。聖書は私たちが解き明かしをすることを励ましています。Iコリント14:5です。

「私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいますが...」

「みな」とは何人でしょうか。全員です。しかし、それで終わりではありません。それは最初の部分に過ぎません。

「私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいますが、それよりも、あなたがたが預言することを望みます。もし異言を話す者がその解き明かしをして教会の徳を高めるのでないなら、異言を語る者よりも、預言する者のほうがまさっています。」

この章のカギとなる言葉は、「徳を高める」であることを理解して下さい。すべてのことは個人や教会を建て上げるためのものです。パウロは異言で話すことは素晴らしいが、それは自分自身を高めるだけであると言っています。しかし、あなたが預言をするなら、あなたは教会を高め、会衆全体を高めているのです。そして、もしあなたが異言を話し、解き明かしがあるなら、それは預言と同じくらい素晴らしいものであると、パウロは言っています。

そして、同じ章の 12-13 節。

「あなたがたの場合も同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから...」

あなたは御霊の賜物を熱心に求めていますか。もしそうなら、次のことが当てはまります。

「教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。こういうわけですから、異言を語る者は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。」

さて、聖書が何かのために祈ることを教えているなら、聖書は私たちに賜物を持つ熱心さを求めていると、私は純粋に信じます。聖書が神のみこころではないことのために祈るように言っているとは考えられません。それは私には、まったく非論理的です。では、聖書は異言で語る者は何をしなさいと言っていますか。解き明かしのために祈りなさい、です。ですから、あなたが異言で語るなら、次にできることは、解き明かしのために祈ることです。

では、アウトラインの最後に進みましょう。祈りの 2 つの原則です。最初に、Iヨハネ 5:14-15 です。

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」

問題は、私たちが神のみこころにかなう願いをしているかどうかです。もしそうであれば、神は私たちの願いを聞いてくださいます。そして、神が聞いてくださると私たちが知っているなら、私たちが願うことは何でもかなえられると知ることができます。問題は、神のみこころを祈っているかどうかです。みこころであれば、神はその願いを聞いてくださること、それをかなえてくださることを知っています

異言を話し、解き明かしのために祈るようにと神が言っているなら、つまり、それは神のみこころが解き明かしであるということを示しています。そうでなければ、神はそうしなさいと言わないでしょう。

そして、受けるときについてです。これはとても重要です。マルコ 11:24 です。

「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」

あなたはいつ受けたのですか。そう、祈った時です。繰り返しますが、もしあなたが神のみこころを祈っているなら、神は聞き、かなえてくださることを私たちは知っています。

では、一般的な確信を実践しましょう。前の学びで読みましたが、イエスはあなたがパンを下さいと言ったなら、石をもらうことはないと言われました。魚を下さいと言ったら、蛇をもらうことはありません。卵を願ったら、サソリをもらうことはありません。あなたが良いものを願ったら、悪いものをもらうことはありません。隣の人にそれを言ってください。「あなたが良いものを願ったら、悪いものをもらうことはありません。」

あとは行動するだけです。準備はいいですか。私が始める合図をしたら、一人ひとりが主に向かい、周りを気にせず異言で話してください。いいですか。あなたの意志がスイッチであることを忘れないでください。あなたがスイッチを入れ、あなたがスイッチを切ります。5分間は何も話さないでください。なぜなら、あなたは頭の中で、「どうやって解き明かすことができるのだろうか」などと色々と考えてしまうからです。最初は1、2分の沈黙から始めますので、話し出さないでください。それは異言を話すときの大きな間違いです。話して、止める。いいですか。解き明かしの賜物を用いる人は、時に異言で話すとき、「さあ、解き明かし始めよう」と思って異言を語り、少しずつ解き明かしをします。そのようにしてはいけません。話して、止める。次にあなたがすべきことは何ですか。こう言うのです。「今、主イエスの御名によって解き明かしを私に与えてください。」いいですか。次に行うことは、解き明かすことです。あなたはそれを受けたと信じるのです。受けたと信じるなら、それをどうするのですか。用いるのです。異言で話し続けないでください。それはバプテスマのつまずきです。バプテスマで起こる問題は、人々が自分の言語で話し続けることで、異言で話せなくなってしまうことです。なぜなら、2つの言語を同時に話すことはできないからです。今はその逆です。あなたは異言で、神があなたに語ってほしいことをすべて話したとあなたが感じるところまで話します。神はとても忍耐と恵みに満ちたお方です。つまり、神はあなたの信仰の尺度を超えたことをさせようとはしません。ですから、あなたはそこまできたら、それ以上異言で話さず、「主イエスの御名によって、私に解き明かしを与えてください」と言います。そして深呼吸をして、解き明かしをします。いいですか。

私の経験から言うと、人数が多くても問題ありません。一人ひとりが個人的に神と向き合うからです。おそらく200名ぐらいが今ここにいるでしょうが、神には問題ではありません。あなたは直接、神とつながるのです。

話すときは隣の人の邪魔にならないように、あまり大声で話さず、自分で聞こえる程度の声で話してください。声を発してください。それをしばらく行い、少し止めて確かめます。

興味深いことをお話ししましょう。通常、解き明かしをするとき、2つのうちのどちらかの形を取ります。賛美と礼拝、もしくは神があなたの唇を用いてあなたのためにメッセージを語るかのどちらかです。私がこれを最初に始めたときの割合は、賛美と礼拝が60%で、神がその人に語っていることが40%でした。しかし、今はその逆になっています。それは、神が神の民に話したいことが60%以上に、賛美・礼拝が40%になるようにと願っているということを示していると思います。何を得るかはあなたが決めることではありません。それは聖霊が決めることです。何を受け取っても感謝してください。それは光栄なことです。準備はいいですか。

今、あなたは異言で話し、止めてこう言います。「イエスの御名によって、解き明かしを与えてください。」 いいですね。

(少しの時間)今、異言で話し終えているはずです。ある人はすでに解き明かしを受け取っています。あと1、2分時間を与えましょう。 (少しの時間) では、確認してみましょう。何人ぐらいが解き明かしを受け取りましたか。手を挙げてください。少し手を挙げたままにしておいてください。これはかなり良いしるしです。9 割近くの人が受けましたね。手を下ろしてください。では、賛美・礼拝を受け取った人は何人いますか。神があなたの唇を用いて語ってくださったという人は何人いますか。見てください! これが、神が教会になされる本当のしるしです。喜びを感じている人はどれくらいいますか。主からの励ましのことばをもらった人は何人ぐらいいますか。 導きをもらった人は? 素晴らしいです!

受け取らなかった人たちは、取り残されたと感じないでください。あなたもこの人々と同じようにすればいいのです。神には、えこひいきがありません。もう一度やりましょう。解き明かしの最後の練習です。異言で話し、止めて、神に解き明かしを求める。いいですか。あまり多くの時間は取りません。時間を取ればとるほど、やる気がなくなるでしょう。思い切って行なってください。

では、確かめてみましょう。先ほど受け取らなかったけれど、今受け取った人はどれくらいいますか。手を挙げてください。一人いますね。他には?もう一人いますね。ハレルヤ。その後ろの女性も受け取りましたね。素晴らしい。アーメン!

さて、ステップ 3 は、とてもシンプルです。預言です。預言することを勧めているみことばをもう一度見てみましょう。Iコリント 14:1 です。一緒に読みましょう。

「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」

隣に誰かいるなら、それを読んであげてください。聖書は互いに励まし合うことができると言っています。次に、Iコリント 14:23-25 です。これは教会全体が一つの場所に集まる、教会の集会の描写です。 パウロは言っています。

「みなが異言を話すとしたら、初心の者とか信者でない者とかが入って来たとき、彼らはあなたがたを、気が狂っていると言わないでしょうか。」

もし集会に来た全員が異言で話すなら(そのような教会もありますが)、信者でない人たちはその人々を気が狂っていると言うでしょう。パウロはこう言います。

「しかし、もしみなが預言をするなら...」

注目してください。パウロはみなが預言できると想定しています。

「しかし、もしみなが預言をするなら、信者でない者や初心の者が入って来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなにさばかれ、心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。」

多くのペンテコステ派の問題点は、到達すべきところまで行かなかったことです。彼らは異言を話しましたが、それ以上は進みませんでした。そして、多くの人々がペンテコステ派の集会に入って行って、こう言ったのです。「彼らは気が狂っている、近づきたくない。」問題は神の備えにではなく、その備えを用いなかった神の民にありました。私たちがすべきことは、異言を話すところから続けて預言に進むことです。私たちが当然知り得ない人々の事柄についてのことばをその人々に与えることです。そうです、彼らの心の秘密が明らかになるのです。

あと2つのみことばがあります。14 章 31 節。

「あなたがたは、みながかわるがわる預言できるのであって、すべての人が学ぶことができ、すべての人が勧めを受けることができるのです。」

何人が預言できるのですか。全員です。今の聖句を隣の人に読んでください。

さて、これは私たちが行なっていることです。パウロは学びの時間を持つことができると言っており、 それは教会全体の集会ではなく、学びのための集会です。今私たちが持っているような集会です。すべての人が学ぶことができ、預言できるのです。そして、確かに皆が励まされるのです。

もう一つのみことばは、39 節です。

「それゆえ、私の兄弟たち。預言することを熱心に求めなさい。異言を話すことも禁じてはいけません。」

「預言することを熱心に求めなさい。」神がこの願いをみなさんの心に置いてくださるように祈ります。 傲慢な思いで求めるのでも、神の恵みにつけ込んでいるのでもなく、神が言われることをしているのです。 一人一人、個人的にみな預言できます。互いにではありません。それについてはあとで学びます。しかし、 今から行うことは練習です。多くの人々の前で始める前に、個人的な状況で練習することは良いことです。

では、まず祈りましょう。今からしようとしていることは何ですか。異言で話すのではありません。預言です。あなたもできると信じますか。アーメン。

「父よ、聖霊を通して、今この場所に私たちと共にいてくださる祝福を感謝します。聖霊さま、あなたを歓迎します。聖霊さまが神の個人的な住まいとして地上におられることを知っています。あなたをほめたたえます。あなたは主であり、今ここに主としておられます。主よ、あなたの民が預言することを熱心に求めるところまで導いてくださいました。主よ、イエスの御名によって、預言の賜物を通して彼らを解き放ってください。あなたの栄光のために。イエスの御名によって。アーメン。」

自分に聞こえるぐらいの声で話すのが適切です。音の壁を破るものがあります。

(会衆の預言:省略)

「おお、私の子供たちよ、私はあなたたちを集めて癒すために呼びました。私はあなたたちを集めました、私はあなたたちを愛しています、私の子供たちよ。私はあなたたちを世界中のすべての国に送り出し、私の言葉を教えさせます。私はあなたたちを愛しています、私の子供たちよ。私に休みなさい。私の言葉を教えなさい。私を世界中に知らしめなさい。私はあなたたちを愛しています、私の子供たちよ。私に休みなさい。私はあなたたちを愛しています、私の子供たちよ。」

アーメン。さて、それは偶然の一致でしたね?でも、それがあなたの主との個人的な出会いを妨げてはいけません。それは私たち全員への励ましの言葉でした。神に感謝します。しかし、私は皆さん一人一人が個別に解放されることを望んでいます。

神は私に、キリスト・イエスにある者には罪がないことを伝えるように促しています。もしあなたが罪の意識の下にいるなら、それを受け入れないでください。

(会衆から与えられた予言ですが、テープでは聞こえませんでした。)

神を賛美します。あなたはそれをどの言語で得ましたか?本当に?あなたの母国語は何ですか?じゃあ、フランス語で何かを得てみてはどうですか?いいえ、本当に。あなたの母国語はそれを特別なものにします—私はかつてフランス語で予言をしていました。第二次世界大戦中にフランスの船乗りと一緒にいたとき、私はフランス語で最も美しい予言を得ました。ご存知の通り、バラエティはたくさんあります。束縛されないでください。

何人くらいの人が預言をもらいましたか。ちょっと手を挙げてください。すばらしい。

では、受け取らなかった方々、もう一度やってみましょう。落胆しないでください。ただ主に向かって言いましょう。「主よ、助けてください。私が縛られているなら、解き放ってください。」恐れに縛られている人、恥ずかしさに縛られている人がいるかもしれません。しかし、それに妨げられないでください。「父よ、この時間にあなたがなしてくださったことを感謝します。恐れや恥ずかしさ、またほかの力に縛られている人々を今解放し、彼らに素晴らしい預言の賜物を与えてくださるように祈ります。イエス の御名によって。アーメン。」

まだ他に素晴らしいことばがありますか。私たちはすでに素晴らしい言葉を受け取りましたね。また、預言の賜物が与えられるとき、多くの異なる人々からの預言であるのにもかかわらず、その中に共通のテーマがあるという傾向に気づきます。そのテーマとは、神の私たちに対する愛、私たちを神に引き寄せたいという神の願い、そして神の大使として私たちを全世界に遣したいという神の美しい願いです。私の心はそれにアーメンと言っています。ですから、恥ずかしがらず、主の前で待ち望んでください。

(会衆からの声:)

「これは主を崇めるためのものですが、あなたとルースのためでもあります。受け取っていただけるなら。」

ええ、私たちは幸せです。

「わかりました。主があなたにインドに行くための扉を開いています…」

親愛なる主よ!笑ってしまってごめんなさい、でも私たちはずっとインドを避けようとしてきました!エルサレムに私たちにとても近いユダヤ人の信者がいて、彼は私たちがインドに行くようにと必死に祈っています。だから、それは本当に予言ではなく、知識の言葉ですが、とても良いことです。ありがとうございます。それが私に必要なすべてです!

それでは、他に人々に伝えたい言葉がある方はいらっしゃいますか?そして、覚えておいてください、それはあなた自身の利益のためではなく、皆の利益のためです。はい、立ち上がって、はっきりと話してください。

「おお、私の子供たちよ、私はあなたたちをどれほど深く思い慕っていることでしょう。私の心はあなたたちのために動かされています。私はあなたたちが私の足元に近づくことを望んでいます。私のもとに近づき、私があなたたちを思い慕うように、あなたたちも私を思い慕ってほしいのです。私はあなたたちを切に求めています。近くに来て、座り、私と静かに交わりましょう。私はあなたたちを愛しています。」

アーメン。さて、一つの危険は、私たちが予言を聞いて「それは素晴らしかった」と言いながら、何もしないことです。わかりますか?そして、結局予言は無効になってしまいます。それは何百ものペンテコステ派の教会やカリスマ派の教会で起こっています。主は具体的に語られ、「私のもとに近づき、私の足元で静かに待つように」と言われました。理解できますか?ですから、多くの人々にとって、神がどのようにあなたの、いわゆる余暇の時間を過ごしてほしいかについての指示があります。理解していますか?それを主の御前で過ごしてください。

それがあなたのためだと感じた場合、何人がそれに従いますか?良いですね。では、神を賛美しましょう。

さて、もう少し見てみましょう。私たちは美しい言葉をいただきました。皆さんはどう思いますか?また、予言的な賜物が与えられるとき、さまざまな人々からも一般的なテーマがあることに気づくでしょう。ここでのテーマは、私たちに対する神の愛、私たちを神のもとに引き寄せたいという神の願い、そして私たちを全世界に神の大使として送り出したいという神の願いです。これは美しいことです。私の心はそれに「アーメン」と言っています。ですので、主の前で待ちましょう。恥ずかしがらず、遠慮しないでください。もし神があなたに何かを与えていると感じるなら—心臓がドキドキしているなら、それはおそらくあなたです。まず手を挙げて、立ち上がってください。次にあなたをお呼びしますね。さあ、こちらの女性、立ち上がってください。

(女性の話す声が聞こえなかった。)

アーメン。ありがとう。

「私は主なる神、あなたの神です。私は決してあなたを見捨てません。私は永遠にあなたを愛しています(理解できない部分)。」

アーメン。テーマは神の愛と励ましです。そうです、立ち上がり、振り向き、人々に話しかけてください。

「これは私の世界です。そして、あなたが出て行くとき、私の保護があなたの前にあります。だから、あなたは何も恐れる理由はありません。」

アーメン、受けたもののいくつかは疑いなく有効ですが、不完全な預言です。例えば初めて泳ぐときには、10 メートルも泳げません。つまり、これはプロセスであり、進歩するものです。御霊の賜物を用いる練習で完全に用いることができる人はほとんどいませんが、練習せずに完全に用いることを待つ人は、決して用いることができません。

ありがとう、兄弟。感謝します。他に誰かいますか?まずは妻から、その後は後ろの女性にします。私のマイクを共有したいですか?つけられるなら、外すこともできますよ。

「私はあなたの疑念と恐れを見つめてきました。しかし、私はあなたの私への愛も見つめてきました。そして、今、私はあなたの疑念と恐れを取り除き、どんな状況においてもあなたと共にいることを保証したいのです。私は決してあなたを見捨てず、決してあなたを置き去りにすることはありません。実際、私はあなたの前に私の天使たちを送ります。彼らは道を整え、あなたが入るときには、ただ入って果実を集めるだけでよいのです。豊かな収穫が待っています。そして、私はあなたを労働者として、収穫者として装備しています。だから、あなたの疑念と恐れを脇に置き、それを私の足元に置きなさい」と主は言います。「そうすれば、私はあなたに私の喜びと平和と力を与えます。」

では、主が言われることを行いましょう。預言を聞くことなく、「興味がない」と言わないでください。 私は、「素晴らしい集会だった。4 つの預言があったね」と言って、人々が集会を後にするペンテコステ派とカリスマ派の教会にいました。私が「預言は何と言っていましたか」と聞くと、「覚えていません」と答えるのです。神が言われることを実行しないなら、神が語ることに意味はあるのでしょうか。

さて、主は私の妻を通してこう語りました。疑いや恐れを持っている多くの人がおり、それらを脇に置きなさいと。今ここで、疑いや恐れにとらわれている人たちのために祈ります。そのような人は手を挙げてください。その人たちのために祈ります。なんと多いことでしょう。このままでは教会はどうやって世界に出て行くのでしょうか。みなさんを祈りで導きますので、私の後について祈ってください。「主イエスさま、あなたを信頼します。あなたは私のためにいのちを捨てるほどに、私を愛してくださいました。あなたは私の救い主、私の贖い主です。私はいつも、とこしえまでもあなたのものです。私のいのちはあなたの御手の中にあります。誰もあなたの手から私を奪うことはできません。主イエスさま、私は恐れと疑い、不信仰を捨てます。主イエスの御名によって今、それらのものから私を解放してください。あなたの大胆さ、励まし、力を私に与えてください。聖なる御霊によって祈ります。信仰によって私は手を挙げ、あなたから受け取ります。アーメン。」

「イエスさま、あなたの大胆さと信仰の霊を今、この人々の上に降り注いでください。イエスの御名によって、彼らに注いでください。イエスの御名によって。アーメン。」

では、受け取ってください。すぐに手を下ろさず、受け取る者となってください。感謝をささげ始めてください。勇気を振り絞り、首のかせを自分で振り落して下さい。知的な推論や生まれつきの思い、自分の小さな能力の鎖から自分自身を解き放ってください。あなたには偉大で素晴らしい神がおられます。主に賛美のささげ物をしましょう。主よ、感謝します。アーメン。

今、私の妻の後ろの二列目にいるこの姉妹、何かありましたね。立ち上がってください。

(テープの女性の声が聞こえなかった。)

ありがとう。母国語が英語でないときに、本当の勇気が必要だと思います。それに感謝します。ありがとう。

繰り返しになりますが、それは完全な預言ではなく、始まりに過ぎません。いったん始めたら後戻りしないでください。私は預言を受ける時、たいていは最初の一文だけです。「このあと何を言おうか」と考えても、それ以上は得られません。なぜなら、信仰がなければ神を喜ばせることはできないからです。しかし、その最初の一文を主に委ねれば、残りは続いてくるのです。

他にも誰かいますか、はい。あそこに左腕を上げている若い男性がいます。そうです。私はあなたを最初に見ました。自分を高く上げてください。あなたは女性です!どうしてわかるでしょうか?聞こえますか?

「あなたは地球の美しさ、私の花嫁、私の目の中のリンゴです。私のあなたへの理由と計画は、世界が私の愛と賛美の輝きを感じることです。あなたの声で命を与え、(不明瞭)。他の人がどう思うかを恐れないでください。私の言葉を語り、私の言葉に従ってください(不明瞭)。」

アーメン。神を賛美します。さて、それは完了しました。神に感謝します。それはあなたが予言したのは初めてではありませんよね?長い間ですね。あなたは自分の賜物を錆びさせてしまったのです、わかりますか?もう二度とそんなことが起こらないように、主に告げる必要がありますね。わかりましたか?

もう一人いきましょう。この若者を選びます。あなたは若い男性ですね、私はそれを確信しています!

(テープのスピーカーの声が聞こえなかった、あまりにも多くが理解できなかった。)

アーメン、ありがとう。それはあなたがそのようなことをしたのは初めてですか?おめでとうございます。さあ、止めないでください。テーマがどれほど一貫しているか見てください。神の愛、私たちへの彼の思いやり、私たちが心配や恐れから解放され、大胆であることを望んでいるということです。

アーメン。立ち上がって主に賛美をささげましょう。主よ、感謝します。あなたの素晴らしい御名をほめたたえます。主イエスさま、ありがとうございます。あなたの御名を賛美します。ハレルヤ。栄光は主に! 感謝します、主よ。アーメン。

神の祝福がありますように。また約5分後にお会いしましょう。

アーメン、ありがとう。それはあなたがそのようなことをしたのは初めてですか?さて、おめでとうございます。さあ、止めないでください。テーマがどれほど一貫しているか見てください。神の愛、私たちへの彼の配慮、彼が私たちを心配や恐れから解放し、大胆であってほしいと思っていること。

アーメン。今、私たちは立ち上がって主に賛美の捧げ物をしましょう。ありがとうございます、主よ。あなたの素晴らしい名を賛美します、主よ。ありがとうございます、主イエス。あなたの名に栄光を。アレルヤ、神に栄光を。ありがとうございます、主よ。アーメン。

神の祝福がありますように。私たちは約5分後に再会すると思います。

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