終末

デレク・プリンス
*Last Updated: 2026年3月
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まず宣言しましょう。教会の礼拝でよく用いられる有名なみことばです。ユダへの手紙の最後の 2 節です。
「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。」
考えてみてください。神はご自身の栄光の御前に、傷のない者として私たちを立たせることができるのです。何という素晴らしい神に私たちは仕えているのでしょう。
さて、これまで基礎の教理の最初の 4 つを学びました。少し復習しましょう。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、バプテスマについての教え、そして手を置く儀式です。
今朝のメッセージは「神の力を伝える」というタイトルで、手を置くことの重要性について具体的に取り上げました。皆さんの中には、手を置くことが教会の働きや生活においてどれほど重要な役割を果たしているかを知って驚いた方もいることでしょう。
あと 2 つの教えがあります。死者の復活と永遠のさばきです。しかし、その前に、「終末」というテーマでお話ししたいと思います。というのは、残り2つの学びは、永遠のことを理解しなければならないからです。これは重要なことで、私たちは現在の人生にだけフォーカスすべきではありません。今日のクリスチャンは、今の人生で神が自分のために何をしてくださるかということしか考えていません。しかし、それは、神が私たちのために持っておられるもののほんの一部にしかすぎないのです。
黙示録 10 章を読みたいと思います。哲学者としての背景から、私は特定の考えに縛られることがあるので、注意深くお話ししなければならないと思っています。黙示録 10:5-6 で御使いが語っているところです。
「それから、私の見た海と地との上に立つ御使いは、右手を天に上げて、永遠に生き、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方をさして、誓った。『もはや時が延ばされることはない。』」
「もはや時が延ばされることはない。」という訳は正しいのですが、聖書が実際に言っているのは、「もう時間は残されていない。」です。私たちはみな、遅かれ早かれ、自分の人生に時間がなくなる時が来ます。ある人がこう言いました。「すべての時計の背後に人間の心臓という時計があり、その心臓が止まる時、すべての時計の針も止まる。」と。私たちひとり一人は個人的に、時間という領域から新しい領域である、永遠の領域の中へと移るのです。
永遠とは、ただ長い時間というだけではなく、私たちがほとんど理解できない、まったく異なる領域であることを忘れないでください。
私は、「神が造った神秘」ということばに感謝しています。なぜなら、時というものは神秘的だからです。これは私が哲学者として 50 年以上前に深く関わったものですが、聖書は非常に明確に「時」について書いています。物理学者が言うには、ある科学者たちが光の半分の速度で移動する宇宙船に乗ることができるとして、遠くの惑星や星に2週間旅して戻ってくると、実際の地球の時間では 2 世代にも及ぶだろうということです。彼らが戻ってきた時、自分のひ孫に会うだろうと。まるで浦島太郎のようです。びっくりしますよね。時間というのは、神秘的です。
もう一つ、時間についてお話ししましょう。私たちの時間の理解は、人間の観点によります。たとえば、科学者は、「ある谷に積み重なった石や、小さな堆積物があると、それは 100 万年ぐらい経過していると考えられる。」と言うかもしれません。しかし、私は 100 万倍速く起こったと考えます。もしかすると、たった 1 年もしれません。根拠に違いはありません。言い換えれば、ある個人の観点がインプットによって、その時間を決めているということです。それは神秘と言えるでしょう。しかし、私たちは、いつか時間を超えて永遠に移るということを忘れないでください。
パウロはIIコリント 4:17 で言っています。
「今の時の軽い患難は・・・」
パウロが通った患難を考えてみてください。彼は軽い患難だと言っています。あなたは何について心配していますか。 あなたの困難は、パウロの困難と比べることができるでしょうか。
「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」
あなたが抑圧の中にある時、いつもこの聖句を思い出してください。それは、あなたのうちに働いて、測り知れない。 重い永遠の栄光をもたらします。ヘブル語で「重い」という単語と「栄光」という単語は本質的には同じです。ですから、 パウロはヘブル語でユダヤ人として考え、神が私たちに用意してくださっている栄光の重みについて語っているのです。
18 節。
「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。」
患難は、あなたが永遠に目を留め続けているなら、あなたの人生に良い働きをもたらすということを覚えておいてください。もし、永遠から目を離し、ただあなたの問題にだけフォーカスし、自分を不憫に思い始めたなら、あなたの患 難は一切良いものをもたらしません。患難は私たちのために働くのです。18 節の続きです。
「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」
パウロは、私たちの前に 2 つの領域、すなわち、物理的・物質的で一時的な目に見える領域と、霊的で永遠の、目 に見えない領域の違いを表わしています。時の流れの中にある今の人生で私たちが出会うすべてのことは、一時的です。私たちは永遠である何かに向かっています。
それを念頭に置くことは重要です。私は最近、あるデボーション用の小さな本を読み、妻と私は非常にシンプルな言葉を分かち合っています。それには、私たちは堕落した世界に住んでいるとあります。それは事実だと私も思いま す。客観的、率直に言うと、世界には幸福よりも悲惨なことの方が多く、平和よりも争いの方が多く、また、健康より病の方が多くあります。美しい世界の絵を描くのはやめましょう。そうではないからです。私たちは完全に損なわれ、崩壊し、罪に満ちた堕落した世界に住んでいます。それが私たちのいるところです。私たちの最終的な目的地がこの世界ではないことを神に感謝します。
パウロがIコリント 15:19 で次のように言っていることは、私にとって実にインパクトがあります。多くのクリスチャンがそのようであると感じているからです。
「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」
少し考えてみましょう。もし、あなたがキリストに期待していることがすべてこの人生におけることだとしたら、一番哀れな者です。しかし、私は今の人生に起こることに完全に翻弄されている多くのクリスチャンに会いました。彼らのキリスト教の概念は、新約聖書の姿とは全く異質の、この世で神から受けることなのです。終わりの時、そして私たちひとり一人の人生に永遠が始まりを考えるように聖霊によって促されることは、非常に健全なことです。
へブル 13:14 はこう書いています。
「私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。」
これはあなたにとって真理ですか。あなたの永住地はどこでしょうか。この世でしょうか。それともこの世は単に一時的であると気づいているでしょうか。私たちはただ、通り過ぎるだけです。私たちの変わらない目的地は永遠にあります。もしあなたが、時間と永遠が見えるだけなら、あなたは不幸でいらいらする人になってしまうでしょう。いつも不平を言っているでしょう。「私の思うようにいかない、神は私の祈りに答えてくれない。」などです。その理由は、あなたの見方が間違っているからです。あなたは永遠という視点で見なければなりません。
私は、この結論に至りました。神は、最も長い時間のために永遠の最も小さな部分を犠牲にはされません。なぜなら、時間はいつまでも続くものではなく、永遠がいつまでも続くのです。みなさんにお聞きしますが、あなたは永遠のためにどれほどあなたの人生を建て上げていますか。聖書は、神は箴言で知恵を通して、尊い宝物を私たちに与えてくださっています。私は、尊い宝物とは、何であるかと長い時間考えました。銀行にあるお金でもなく、株や資産でもなく、かっこいい車でもなく、住む家やプールのことでもありません。それらはまったく尊い宝物ではありません。では、 尊い宝物とは何なのでしょうか。イエスは言われました。
「あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。」
それが富を朽ちないものとすることです。イエスは言われました。
「福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。」
百倍とは、1 万%です。いったいどれほどのビジネスマンが 1 万%の業績を拒否するでしょうか。
もう一つ、重要なことがあります。私たちの賜物は、私たちのこの世での命が終われば消え去ります。私たちの霊的賜物、預言、奇蹟、知識のことばはすべて消え去ります。それらには終わりがあります。私たちはそれを持っていくことができず、それらはこの世だけのもの、時間的なものです。しかし、私たちが持っていくことができるものがあります。何でしょうか。私たちの人格です。人格はいつまでも残ります。私たちの人格の中にあるものが、私たちが永遠にどうあるのかを決定づけます。それは残るもので、尊い宝物、きよさの建て上げ、強さ、敬虔なクリスチャンの人格です。
では、今日のテーマに戻りましょう。聖書的預言を理解することは大変重要です。残念なことに、あまりにも多くの人が、偽りや見かけ倒し、薄っぺらな預言の解きあかしにうんざりし、信じることができなくなってしまっているのです。あなたにそのようなことが起こらないようにしたいものです。良いものをあなたから締め出すような間違った用い方をしないでください。たとえば、私はかなり長く生きてきていますが、あらゆる霊的賜物が間違って用いられているのを見てきました。しかし、それによって私は聖霊の賜物を軽んじるようにはさせることはなく、どのように賜物を用いるかについてさらに注意を払うようにさせただけです。聖書的預言の真理も同様です。私たちはそれが必要であり、それなくしては、私たちは暗闇でつまずいてしまいます。どのように適用するかに注意する必要があるのです。
IIペテロ 2:19-21 を開けましょう。
「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。」
「預言のみことば」とは、書かれた預言、すなわち聖書の預言です。それは私たちの生活の中に埋め込まれているものですが、今は預言の賜物について話しているのではなく、さらに確かな、書かれたみことばである聖書の預言について言っています。
「暗い所を照らすともしびとして・・・」
あなたは預言的なみことばを軽視する立場にはありません。なぜなら、それは暗闇で輝く光で、あなたがたは十分に注目するようにとペテロは言っているからです。今日私たちが住む世界は、疑いなく暗闇です。さらに言うと、ますます暗くなってきています。私たちには暗闇で私たちを導く光が必要です。神が与えてくださるその光は、みことばの預言的啓示です。
あなたは素晴らしい救いを受け、素晴らしいクリスチャンになることができながらも、預言の光を用いないために、暗闇を歩むこともあり得るのです。暗闇を歩むなら、あなたは遭遇する必要のないものにつまずき、どこへ行こうとしているのかがわからず、あなたの周りで起こっていることがよく理解できないのです。それは、預言のことばの真理をとらえることに失敗するからです。このことは大変重要です。
そして、ペテロは私たちが注意しなければならないことについて言っています。
「夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、それに目を留めているとよいのです。」
これは、イエスが来られたことを言っているのではありません。私たちの心に夜明けの太陽が輝く直前の、明けの明星を個人的に経験するという内なるものです。それは何でしょうか。イエスが戻って来られると告げているのです。わくわくします。
あなたが、もし主の再臨に興奮したことがないなら、再臨はあなたにとって、ほとんど意味のないものです。それは、人間のためだけの望みなのです。他の何ものも、人類が切望する必要を経験することはできません。はかない望みだと言う人々がいますが、私はそうは思いません。まったく現実的なものだと信じます。事実、政治家が人類の問題を解決することを期待するのは、まったく非現実的であると思っています。政治家たちは、長年試みましたが、その混乱は前よりもひどくなっているように私は思います。人類の問題に、人間的解決を期待することは非現実的だと思います。それはヒューマニズムを教えることで、ヒューマニズムは今日の世界の大部分に働く反キリスト者の力です。
ですから、私たちは預言が必要なのです。その確信を持っていますか。ペテロは、預言は人から生じたのではなく、神から来たものであると続けています。
さて、聖書的預言を理解するための 2 つのカギを簡単に紹介しましょう。私にとって、この問題に入り込んでしまうと抜け出すのが困難だと思います。しかし、申命記 29:29 でモーセはイスラエルの子どもたちにこう言っています。
「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。」
そう、モーセは隠されていることと、現わされたことの 2 つのものがあると言っています。隠されていることは、神のものであり、それらを理解することは誰にもできないと言っています。現わされたことは、私たちが行なうためのものです。 預言の学びで人々が混乱する主な理由は、隠されたことを理解しようとするからで、また同時に、現わされたことに従わないからであると私は思います。
私が預言について語り終えた後、ほとんどいつも、誰かがやって来て、こう聞きます。「前か、中か、後ですか。」どういうことを聞いているかお分かりですか。前患難、患難中、患難後、いつの預言かと質問しているのです。私はどう答えると思いますか。「わからない」です。それを恥ずかしいとは思いません。さらに言うと、私は誰も知らないと思います。イエスでさえ知らないと思います。というのは、その時がいつ、どんな時かは御子でさえ知らない、父だけが知っていると言っているからです。ですから、イエスが知らないことを私も知らなくても、恥ずかしくはありません。問題は、 人々が知らされないことを知りたがることです。その背後にある動機は何だと思いますか。高慢です。それはあらゆる動機において最も危険なものです。もし、私たちが現わされた真理を知ってそれに従うなら、神は私たちにさらにお与えになります。もし従わないなら、それ以上与えてはくださらないでしょう。「神さま、どうか次のものを見せてください。」とあなたが言うなら、神は言われます。「あなたは私がすでに示したことを行わなかった。なぜ、それ以上のものを示さなければならないのか。」
それは、聖書的預言を効果的に用いるカギです。神が私たちに理解してもらいたいということを知ってください。そして、神が私たちに理解してもらいたくないことについて神を煩わせないでください。
次に、神があなたに示しておられることは何であれ、従い、行なってください。これは私の意見で、マタイ 24:14 に含まれる聖書的預言の一つの明確な啓示です。
「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」
いつ終わりの日は来ますか。この御国の福音が全世界に宣べ伝えられ、すべての国民にあかしされるときです。それは誰の仕事ですか。そう、私たちです。もし、私たちがその働きをしていないのなら、その啓示に従っていないのなら、どうして神はそれ以上のことを私たちに教えてくれるでしょうか。しかし、あなたがその啓示に行動し始めたなら、すべての国民に御国の福音を伝えるふさわしいどのような方法であれ、あなた自身をささげ始めたら、神が次を示してくださることに、あなたは驚くでしょう。しかし、あなたが行動を起こさないなら、どうして神はそれ以上のことを示されるでしょうか。そうはなさいません。
この終わりの時代の様子に戻りましょう。この時代が終わりに近づき、継続するであろうことについて、確かな概略をお話ししたいと思います。これは私の個人的な意見ですが、私たちは終わりの時代にかなり近づいていると信じます。 私は日付を設定したくはありませんが、書かれているすべてのことが今後 50 年以内に起こり得るのではないかと思います。起こる、と言っているのではなく、起こり得るのです。
終わりの時代の確かな特徴を取り上げましょう。3つの重要な聖句を取り上げます。イザヤ 60 章です。終わりの日が近づき、正義と悪のどちらも増し加わります。正義は栄え、また悪もはびこります。光は輝き、大いなる闇もあるでしょう。私たちは、この光と闇、また正義と悪という正反対のものに順応しなければなりません。イザヤ 60:1-3 で、主はご自身の民にこう語っています。
「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」
これは、終わりの時代にあたっての神の民への約束です。神の栄光が私たちの上に輝き、私たちを取り囲み、すべての国々を四方からおおう暗闇のただ中で、真理に向かう心を持つ人々、光を求める神の民は暗闇から出てきます。 しかし、暗闇に終わりが来ると期待しないでください。それは続き、さらに深い闇へとなります。しかし、光はさらに輝くでしょう。
光と闇について、創造の時へと戻るという一つの素晴らしい事実があります。光と闇が出会うところどこにおいても、光が勝つのです。それを忘れないでください。私たちが光であるなら、私たちは勝利します。
それから、麦と毒麦のたとえです。時間がないので、その箇所は読みませんが、そのたとえは、畑に良い種を蒔いた農夫についてで、種をまいたその夜、敵が来て毒麦を蒔きました。それは見たところ麦のようですが、たった一つ、 それは実をつけず、何も生み出さない無駄なものです。その畑の労働者は、「行って、毒麦を抜いてきましょうか。」と言いました。農夫は、「いや、毒麦を抜こうとして麦も抜いてしまうかもしれない。収穫まで両方とも育つままにしておこう。」と言いました。そして、イエスはそれを説明して、収穫とはこの世の終わりであると言いました。イエスは世の終わりには、御使いが来て、義人の中から不法を行なう者たちを取り分けると言っています。不法を行なう者どもは、縛られ、火に投げ込まれ、義人は父の御国で太陽のように輝くのです。しかし、忘れないでください。世の終わりには麦と毒麦は並んで育つのです。
それは、異教の世界について語っているのではなく、クリスチャンの世界について言っているのです。なぜなら、それはクリスチャンについてのことだからです。その状況において、麦も毒麦も並んで育ちます。もし、あなたが自分は毒麦ではなく、麦でありたいと願うなら、あなたが生み出す実を確かめてください。なぜなら、それは異なるからです。
教会は、世の終わりまで、完全にきよめられることはありません。そして、私たちはきよめを行なうのではありません。それをしなくていいことは、うれしいことです。御使いがするからです。
そして、黙示録 22 章で聖書のほとんど最後の部分で、イエスご自身からのことばです。黙示録 22:10-12。
「また、彼は私に言った。『この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。』」
それは、神から来る驚くべき宣言です。事実、神は、もしあなたが不正な者でありたいのなら、そうしなさい、あなたの命は長くはない。もしあなたが汚れた者となりたいなら、ますます汚れなさい。しかし、もし、あなたが正しいなら、いよいよ正しくありなさい。聖くありたいのなら、いよいよ聖でありなさい。なぜなら、これは分岐点だからです。
そして、イエスは続けて言っています。
「見よ、私はすぐに来る。私の報いは私と共にあり、各人の行いに応じて与えるためである。」
そう、これは主の再臨の直前のことです。不法を行なう者と正しい者は横並びになっており、不法者はさらに不法を行ない、正しいものはさらに義となります。
霊的な光において、現状維持はないと言いましょう。あなたは立ち止まっていることはできません。あなたは前進するか、後退するかのどちらかです。箴言は、「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。」 と言っています。義は停止しているものではなく、歩む道です。それは、あなたが踏み出すものです。もし、あなたがそこへ踏み出すなら、その光は日々輝きを増します。もし、あなたが昨日の光によって今日を生きているなら、あなたは背教者となり始めており、義の道を歩んでいません。
いいでしょうか。それらは 2 つのものです。
そして、このすべてのただ中において、イエスは、ルカ 21:25-28 で私たちに慰めの素晴らしいことばを語ってくださっています。これは終わりの日についてのことです。
「そして、日と月と星には、前兆が現れ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。」
地球全体が揺り動かされるのです。
「そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。」
これは、イエスの再臨です。まさに、イエスが弟子たちに話されたことです。
「これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。」
あなたは、すべての混乱と争いに、どのように反応するでしょうか。失望と絶望に陥るでしょうか、それとも、「主をほめたたえます、私たちの贖いは間近です。」と言うでしょうか。そのように、あなたの反応は、あなたの心がどこにあるかを教えるものです。
イエスは新しい時代の出産の苦しみについて語り、マタイ24章でそれを説明しました。後でそこを少し見てみましょう。それは非常に不快なものです。私は赤ちゃんを産んだことはありませんが、それが決して簡単な経験ではないことは理解しています。出産の苦しみがそれに関連しています。問題は、赤ちゃんが欲しいかどうかです。赤ちゃんが欲しいなら、出産の苦しみに耐えるでしょう。出産の苦しみがなければ、赤ちゃんもいません。ですから、あなた自身の態度を確認することができます。もし「物事はどんどん悪化している、ああ、これはとても憂鬱だ、私はとても惨めに感じる。神はどこにいるの?何もしているのが見えない」と言うなら、あなたは出産の苦しみを拒否しているのです。それが本当に意味することは、あなたが赤ちゃんを待っていないということです。赤ちゃんとは何でしょうか?それは地上における神の王国の誕生です。それは出産の苦しみなしには来ません。出産の苦しみは保証されています。私たちが決めなければならないのは、それにどう反応するかです。
すでに言いましたが、同時に、これらのことすべてにおいて、教会は完成の役割があります。それは何でしょうか。すべての国民に御国の福音を宣言することです。マタイ24:7 節から産みの苦しみの様子を見てみましょう。
「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり・・・」
Ethnos が ethnos に敵対するのです。民族の衝突です。
「国は国に敵対して立ち上がり・方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。」
お分かりですか。あなたは赤ちゃんがほしいですか。産みの苦しみに耐えなければなりません。他の選択肢はありません。
そしてイエスは、「また」という言葉で続けます。
「そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。」
この中のあなたとは、私たちのことです。人々は私たちクリスチャンを苦しい目に会わせます。私たちはイエスの名のゆえに、すべての国の人々に憎まれるのです。 10 節。
「また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。」
大ぜいとはだれでしょう。大勢のクリスチャンです。その圧力はものすごく、多くの人があきらめてしまいます。自分を守るために、仲間の信者を裏切るのです。これは、中国やソ連で一世代、あるいは二世代にわたり起こったことです。 信じてください。そこだけにとどまりません。11 節。
「また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。」
また、信じて下さい。この世はにせ預言者であふれ、その多くは教会の中にいるのです。それについて詳しく取り扱いませんが、あなたがよく考えるために言っておきます。
「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」
今日、世界に不法がはびこっているのを見ているでしょうか。いいえ、と言う人は誰もいないでしょう。それはイエスが言われたことです。不法がはびこり、その結果どうなるとイエスは言っていますか。「多くのクリスチャンの愛は冷たくなる」、です。ここでの愛の意味はアガペで、クリスチャンのために特別に用いられる単語です。ですから、世界の不法の圧力のもとで、私たちのうちでその愛が冷たくなるのです。
次の 13 節は非常に重要です。
「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」
あなたは今救われていますが、救いにとどまるためには耐え忍ばなければなりません。そして、このように私が言うと、人々は喜びませんが、忍耐を学ぶ唯一の方法は忍耐することです。ですから、もし、今あなたが耐え忍んでいるなら、神は終わりの日まで忍耐して生き抜くために、あなたを訓練しておられることを忘れないでください。お分かりでしょうか。
それから、こうあります。
「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ・・・」
あなたは、「時代は、私たちが行って福音を宣べ伝えるのが容易になるのだ。」と思うかもしれません。いいえ、そうではありません。時代はますます困難になります。出て行って、福音を伝えるために根性を入れるのです。根性という下品な言葉は好きではありませんか。アメリカ的な表現です。アメリカでの翻訳は、粘り強さです。それこそ私たちに必要なものです。根性あるクリスチャン。状況は容易になっていくのではなく、さらに困難になります。今でも十分困難だと思われるかもしれませんが、さらに困難になる前に早く行動しましょう。
このように、イエスが願っておられる教会は、反対や迫害によって思いとどまるのではなく、イエスとイエスの目的、 働きに献身する教会です。
イエスの再臨に関連する出来事に移り、それらを少しリストアップしてみましょう。順序にこだわらなくてもいいです。なぜなら、正しい順序を私は知らないからです。正しい順序を知っていると確信している何人かの聖書学者に会ったことがあります。問題なのは、彼らが同意しないなら、どちらも正しくないということです。そのことは主にゆだねることにしました。私は出しゃばりではありません。答えのために神にせがむことはしません。ダビデはある時、「まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。私のたましいは乳離れした子のように御前におります。イスラエルよ。今よりとこしえまで主を待て。」(詩篇 131)
これは私にとって、とても鮮明で、みなさんが私のことを下品と思わないように願いますが、何年も前、私は大勢のアフリカ人を前に定期的にメッセージしていました。前から 2 列目までは子供のいる母親たちが座っていて、赤ちゃんがぐずり始めると、母親は私の目の前であやし始めます。ですから、私は前から 2、3 列目以降を見るようにしました。しかし、あることに気づきました。ぐずらない子どもは、食べ物がほしいとき騒ぎますが、ぐずっている子どもは母親が準備するのを待っているのです。ダビデは言いました。「私のたましいは乳離れした子のようです。私の問題で神を煩わせません。ただ、神が私に示したいことを神に示していただくだけです。」聖書的預言を理解する鍵は、どのような時も、神があなたに示したいと思っていることにあなたの注意が集中するように聖霊にしていただくことです。ぐずらない子どものようにならないでください。
では、いくつかの出来事を見ましょう。真のクリスチャンの復活と裁きです。最初に、携挙です。携挙についてどのように感じますか。Iテサロニケ 4 章です。あるクリスチャン研究者は新約聖書には携挙という言葉はないと言うでしょう。それは、幼稚な考えです。なぜなら、翻訳によるものだからです。私は携挙という言葉を使っている聖書訳も用いていますが、それは全くふさわしい訳でしょう。Iテサロニケ 4:15、これは、主がパウロを通して言われたことです。
「私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。」
すなわち、主が来られるとき、私たちが生きているという事実により、すでに死んだ人たちより先にそこへ行くのではないということです。逆にパウロは言っています。
「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。」
人々がどうして隠れた携挙を信じるのか、私にはわかりません。私にとって、号令と、御使いの声と、神のラッパの響き以上に公けなものはありません。どんな秘密がその終わりに残されているでしょうか。
「それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり・・・」
生きている私たちが変えられる前に、
「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ・・・」
「一挙に引き上げられ」というのは、携挙の完璧な訳です。携挙という言葉は、ラテン語の「力強く何かを奪い取る」という意味の語から来ています。そしてギリシャ語でそれは泥棒が家に入って物を盗むときに使われます。羊の群れの中に狼が来て、一匹取っていくときに使われます。基本的に、それは突然、力強くつかむことを示します。それこそが携挙の様子です。イエスは降りてきて突然に、力強く私たちをつかむでしょう。イエスと泥棒の違いは、たった一つです。何でしょうか。泥棒は自分のものでない物を取っていき、イエスは、再臨の時にご自身のものである人々だけを連れて行きます。
「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに・・・」
そしてパウロは、どこか他の場所で私たちは一瞬の間に変えられると言っています。これには非常にワクワクします。もしあなたがワクワクしないなら、問題ありです。たとえば、目の前にいる妻が、私が瞬きしている一瞬の間に、まったく変えられ、栄光ある素晴らしく、輝く被造物になります。私も変えられます。妻も驚いて私を見ます。それには長い時間かかりません。一瞬で、まばたきしている間に、私たちは完全に造り変えられるのです。神にそれができると信じますか。とてもワクワクします。もしあなたが、わくわくしないとしたら、どうしてなのか私にはわかりません。
携挙は、クリスチャンのさばきに続きます。それに気づいていないクリスチャンもいますが、私たちはまず裁かれます。ペテロは、さばきは神の家で始まらなければならないと言っています。神の家とは何でしょう。教会です。IIコリント 5: 10 です。これについては、永遠のさばきについての学びでまたお話ししますが、少し見てみましょう。IIコリント 5:10。
「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて・・・」
現われて、という翻訳は、実は現わされるという意味です。それはとても恐ろしい言葉です。私たちについてのすべてが完全に知られ、秘密は一つもないのです。私たちはみな、キリストのさばきの座の前に現わされるのです。さばきの座はギリシャ語でbemaで、ローマの役人が、自分が遂行する裁判で座るものです。それこそ、イエスをさばくときにポンテオ・ピラトが座っていたものです。別の場面で、残された者たちのさばきのために大いなる白い御座と言うのがあります。これはクリスチャンのさばきです。そして忘れないでください。ローマ 8:1 です。
「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」
それは有罪判決のさばきではなく、私たちの奉仕の質を評価し、ふさわしい報いを与えるさばきです。パウロは、私たちはキリストのさばきの座の前にすべて明らかにされると言っています。
「私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」
善か悪かの 2 種類しかないことに気づいてください。ヨハネは最初の書簡で、正しくないものはみな、罪であると言っています。正しくないことはすべて罪深いのです。それは、誰かがあなたに曲がった言葉を例証してくださいと言うようなものです。私ならこうするでしょう。直線を人々に見せて、その線からそれているものはみな、曲がっているということです。たった 1 度それていても、90 度それていても、それは曲がっています。
それが義というものです。義でないものはみな、罪深いのです。良くないものはみな、悪いのです。中間はありません。これは、教会に押し付ける、敵の嘘です。「え~と、私は正しいことをしていませんが、本当に悪いこともしていません。」それは不可能です。どちらか一方です。
これはキリストのさばきの座です。それから、私たちは反キリストとその力を倒します。Iヨハネ 4章でヨハネは3つの方法で反キリストについて語っています。反キリストの霊、多くの反キリストたち、反キリスト者です。
反キリストの霊はすべての反キリスト者を通して働きます。
多くの反キリスト者は西暦 2 世紀以降存在します。最も知られているうちの一人が、メシヤだと宣言したバル・コクバで、完全に制圧され、全国民が殺されるか捕虜となったローマへの最後の反乱でユダヤ人たちを率いました。もう一人は、メシヤと宣言された 17 世紀のサバタイ・ツヴィで、彼はユダヤ人を中東に帰らせ、自分たちの土地を入植すると言いました。彼は中東に行き、トルコ人に捕まり、イスラムに改宗させられました。残念なことです。ユダヤの百科事典にはイエスの時代以降ユダヤ人の所へ来た 40 人のにせメシヤが記録されています。イエスは言われました。「わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」ですから、教会に多くの反キリスト者が存在してきたのであって、それについて特定する必要はありません。
しかし、本当の反キリストはまだ来ていません。私は個人的に、人間の歴史の中にその影は落ちてきたと思いますが、まだ現れていません。彼は邪悪でサタン的なすべてのものの最終的な具現となるでしょう。彼が人類を支配する時、それはおよそ 3 年半で、人間の歴史上最悪の時となるでしょう。神はそれを許されます。なぜなら、人類に向かって、「あなたが選んだのです。あなたが選んだものを見なさい。あなたは私を拒絶し、御子を拒絶した。二者択一だ。自分で考えよ。」と言われているからです。
神は、ただ理論的に教えるのではないと発見しましたか。あなたは、このように言うことができます。「神さま、その教理を学びました。」「それは良かった。では、それがあなたの人生でうまくいったかどうか見てみよう。」それは人類の真理となるでしょう。人類は今まであった最も恐ろしい教訓を受けようとしています。ポンテオ・ピラトは、ユダヤ人の前にイエスとバラバという二人の男を連れてきました。バラバは凶暴な犯罪人、扇動者でした。ピラトは言いました。「どちらを釈放してほしいのか。」すると、人々は「バラバを渡せ。イエスを十字架につけろ。」と言いました。この世の終わりには、人間は似たようなことをするでしょう。人々は、「私たちには、キリストはいらない。私たちが選んだリーダーを引き渡せ。この才能ある優秀な、超自然的な力を持った人だ、私たちは彼を望む。」と言うでしょう。そして、何が起こったでしょう。ユダヤ人はその人を得ます。そしてまた、ピラトに言います。「私たちには王はいない、カエサルがいる。」そのように言うことは、ユダヤ人にとって驚くべきことで、19世紀もの間、彼らはカエサル家に支配され、バラバ家はユダヤ人たちの攻撃を受け続けてきました。それは、ユダヤの歴史の真の本質です。同じことが人類に起ころうとしています。私たちは、自分たちが選んだものを手にします。イエスを選んだ人は、イエスの統治のもとにいることになります。イエスを拒絶する者は、反キリストの支配のもとにおかれます。
続けましょう。黙示録 19:19-21 の反キリストの打倒です。イエスが白い馬に乗って天から現われるところです。あなたは天に馬がいると信じますか。私は信じます。あなたが信じようが信じまいが、私には関係ありませんが。
「それに乗った方は、『忠実また真実』と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。」
イエスは戦いをされます。
「その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって・・・」
そして 15、16 節です。
「この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、ももにも、『王の王、主の主』という名が書かれていた。」
これは、悪と戦うために、神が示された統治者としてやって来るイエスです。
そして、同じ章の少し後、19-21 節にこうあります。
「また、私は獣と・・・」獣とは、反キリストの名前です。」
聖書の最後の書、黙示録はとても興味深く、相反する2つの性質がセットになっています。一つは小羊で、もう一つは獣です。小羊はイエスで、獣は反キリストです。「小羊」という言葉は、黙示録に 28 回出てきます。獣は反キリストに関連して 33 回出てきます。これは、終わりの時の獣と小羊の対立です。どちらが勝つでしょう。小羊ですね。それは私たちにとっての教訓です。私たちは、暴力によって勝つのではなく、また憎しみによってでも、強さによって勝つのでもありません。イエスのように私たちのいのちを捨てることによって勝つのです。黙示録5章で、だれも巻き物を開ける人がいないので、ヨハネが泣いたことを覚えていますか。長老の一人が言いました。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得た・・・」みなさん、どうか忘れないでください。イエスはなお、ユダ族の獅子です。ユダ族からどのような名前ができたか知っていますか。ユダヤ人です。そう、イエスはなお一人のユダヤ人です。イエス 33 年間だけユダヤ人になっただけではなく、永遠にユダ族として見なされています。あなたがユダヤ人と関わる時、イエスにある兄弟姉妹と関わっているのだということを心に留めておいてください。慎重になりましょう。 19-21 節。
「また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを 惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。」
それが、神のごみの処理方法です。鳥です。鳥はすべてをきれいにします。きれいに骨だけを残します。エゼキエル書でそれらの骨の埋め方が見られます。
このすべてのことのただ中で、19 世紀もの間歴史の中心から省かれてきたイスラエル、つまりユダヤ人は、歴史の中心に戻ってきています。ご存知の通り、イスラエルはとても小さな土地です。イギリスのウェールズ州よりも、アメリカのニューハンプシャー州よりも、小さく、400 万人のユダヤ人と 100 万人の他の民族がいます。しかし、日本でさえ、ほぼ毎日ニュースに出てきます。なぜだかわかりますか。それは、イスラエルが世のクライマックスのためにステージ中央に戻ってきているからです。そここそが、クライマックスが来るとき彼らがいる場所です。
さて、ローマ 11 章に非常に重要な啓示があります。ローマ 11:25-26です。これらのことばは異邦人、すなわち非ユダヤ人の背景をもったクリスチャンに対するパウロによるものです。私たちクリスチャンは、ほとんどが異邦人であることにみなさんは気づいていらっしゃいますか。妻はユダヤ人ですが、少数派です。私も異邦人です。クリスチャンでない人は異教徒ですが、ユダヤ人でない人は異邦人です。これはある人にとっては理解しづらいでしょう。パウロは異邦人の背景からのクリスチャンに書いており、こう言っています。ローマ 11:25 です。
「兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。」
うぬぼれないでください、思い上がらないでください。奥義とは何でしょう。
「その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり・・・」
一部がかたくなになった、というところに注目して下さい。ユダヤ人全体が完全にかたくなにされることは決してなく、どの世代においても、イエスを信じていたユダヤ人が常にいました。時には、その人たちはかなりの少数派でした。しかし、イスラエルの一部がかたくなになることは、永遠にではなく、ある時までです。どんな時ですか。異邦人の完成のなる時までです。教会がその働きを成し終え、この御国の福音がすべての国民に宣言されるまでです。一方、主は、異邦人の収穫を集め始めました。私も、これまでに見てきた教会の大いなる収穫がなお先にもあると信じます。何百万人という人々が神の国にやって来ると信じます。しかし、それはイスラエルの回復への準備であることを心に留めておいてください
そして、パウロは 26 節でこう続けています。
「こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。」
他方、すべてのイスラエルとは、現在生きているすべてのイスラエル人ではないことを覚えておいてください。というのも、パウロはローマ 9:27 でイザヤ書を引用してこう言っています。
「また、イスラエルについては、イザヤがこう叫んでいます。『たといイスラエルの子どもたちの数は、海べの砂のようであっても、救われるのは、残された者である。』」
「イスラエルの子供たちの数は海の砂のようであっても、残りの者は救われる。」
残された者とは、神が預言してご自身のために選んだ残された者です。ですから、今現在イスラエルの地に生きているすべてのユダヤ人ではなく、神のものとさせるために大いなる苦難と試練、苦しみを切り抜けさせる残りの者です。
そして、イエスが異邦人の国々をさばくときが来ます。この様子は、ヨエル書 3:1-2 にあります。これは、ユダヤ人でない私たちが理解するために、非常に、非常に重要です。ヨエル 3:1-2。
「見よ。わたしがユダとエルサレムの繁栄を元どおりにする、その日、その時・・・」
言い換えれば、神が 100 ヶ国以上に散らばるユダヤ人たちを、自分たちの土地に連れ戻している時代に生きています。神は言われます。
「わたしはすべての国民を集め、彼らをヨシャパテの谷に連れ下り・・・」
そしてヨシャパテとは、ヘブル語で「主はさばく」です。
「その所で、彼らがわたしの民、わたしのゆずりの地イスラエルにしたことで彼らをさばく。彼らはわたしの民を諸国の民の間に散らし、わたしの地を自分たちの間で分け取ったからだ。」
これは、理解しなければならない非常に重要なことです。神は、ユダヤ人をどのように取り扱ったかを基に、国々をさばきます。特に、神の土地を分け取ったことについてさばきをされます。現代のことばで言うなら、分断です。それは確かに、国々がこれまでに行ない、今もそうしようと躍起になっていることです。神はそれを怒っています。自分の国を愛する私たちは、私たちの国がイスラエルに対する神の目的を妨害しないように、緊急の祈りをする必要があります。
すべてのユダヤ人がそこでさばかれるとは書いていません。私個人的には、ユダヤ人はすでに受けるべきさばき大いなる苦難を通ってきたと考えます。ある人は、何年か前に考えるに値することを言いました。「神はユダヤ人を直接祝福し、ユダヤ人を通して異邦人を祝福する。神は異邦人を直接さばき、異邦人を通してユダヤ人をさばく。」このことは、歴史の中で繰り返し起こってきたと思います。
ですから、イスラエルは大いなる苦難の中で彼らのさばきを通るでしょう。彼らはさばかれ、しかし、彼らを迫害した国々はさばかれます。マタイ25 章でイエスは言っています。これは、新約聖書でヨエル 3 章を明確に現わしているからです。マタイ 25:31、32 です。
「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして・・・」
これは、ヨエル3:1 と同じ場面です。
「・・・すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け・・・」
その章を学ぶと、分割の基本原理は、イエスにある兄弟姉妹をどのように取り扱ったかであるとわかります。ですから、国々は知らなければなりません。私たちの国が知らされ続けるようにしなければなりません。私たちの国に声を上げて、警告をしなければなりません。「神の民と神の土地であるイスラエルをどう取り扱ってきたかによってさばかれる。」と。
さて、それに伴って、地上のキリストの御国が建て上げられます。あなたがよく祈っている主の祈りを祈る時、この地にキリストの御国が建て上げられるようにと祈っていることに気づいていらっしゃるでしょうか。最初の願いは、「御国を来たらせたまえ。」です。それは、すべての他の願いに優先されます。あなたが知っていようがいまいが、それを祈る時、イエスの再臨と地上に神の国が建て上げられることを祈っているのです。これは、イザヤ 24:19 に書かれています。聖書的預言の知識を持つことがどれほど重要かわかるでしょう、このイザヤ 24:19-23 は、ある意味、世の終わりのクライマックスです。それは、黙示録で何回も繰り返されています。これは、絵です。
「地は裂けに裂け、地はゆるぎにゆるぎ、地はよろめきによろめく。地は酔いどれのように、ふらふら、ふらつき、仮小屋のように揺り動かされる。そのそむきの罪が地の上に重くのしかかり、地は倒れて、再び起き上がれない。」
これは、私たちが住む地球です。
「その日、主は天では天の大軍を、地では地上の王たちを罰せられる。」
主は 2 つの王国を取り扱われます。空中のサタンの王国と地上の人間の王国です。主は、イエスの義の統治を拒む者をみな、罰します。
「彼らは囚人が地下牢に集められるように集められ、牢獄に閉じ込められ、それから何年かたって後、罰せられる。」
そしてこの節、これがクライマックスです。
「月ははずかしめを受け、日も恥を見る。万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり、栄光がその長老たちの前に輝くからである。」
主の御国は、首都エルサレムで再び建て上げられます。なぜ、太陽が恥を見、月もはずかしめを受けるのでしょうか。これは、私の思う回答です、ルカ 9:26 はイエスの再臨の記述です。イエスは言われました。
「もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。」
少し考えてみましょう。イエスは、ご自身の栄光、父の栄光、そして聖なる御使いを伴って来られます。その栄光の輝きは、私たちが想像することさえできないものですが、その輝きは私たちの目を傷つけません。しかし、太陽と月が目立たなくされ、こう言います。「私たちが与える光は、イエスとともに来る光とは比べものにならない。」それが、太陽と月が恥を見るかという理由です。
時間があまりないので、少し急ぎます。聖書箇所を開く時間はありませんので、ざっと説明します。
次に起こることは、イエスはご自身の御国を千年間建て上げることです。聖書は、千年は一日のようだと言っています。それは主の計算で一日なのです。
サタンが牢からしばらくの間解き放たれ、出て行って、国々の中で反逆を起こします。それがサタンの仕事です。主が介入し、国々に最後のさばきをし、すでにそこには反キリスト、にせ預言者とともに、サタンは火の池に投げ込まれます。現在の天と地は過ぎ去り、新天新地が現われます。残されているすべての死者は、神のさばきの大きな白い御座の前に立ちます。
神さま、明日も私を助けてください。神が助けてくださるなら、私は行き、神の永遠のさばきに取り組むことができます。主の祝福がありますように。
コード: MV-4167-100-JPN