悔い改めから信仰へ

デレク・プリンス
*Last Updated: 2026年3月
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「というのは、すべての人を救う神の恵みが現れ、私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」
神は歴史から何を教えようとしているのか、なぜこんなにも長い間、悪や不正と苦しみを容認しているのかと疑問に思っていますか。その答えは、神はご自身のために人々を得ようとされているからです。それこそが、今の時代における神の究極の目的です。
「土台を据える」の 3 つ目のメッセージのタイトルは、「悔い改めから信仰へ」です。初めに言っておきたいことは、信仰への道は、悔い改め以外にはない、ということです。他の方法で信仰へたどり着くことができると主張しているものは、すべて欺きです。悔い改めなしには真の信仰はあり得ません。
では、これまでに学んできたことを簡単に復習しましょう。まず、クリスチャン信仰の土台、個人的土台は、イエス・キリストです。真のクリスチャンになるには、その土台の上に自分の人生を築かなければなりません。ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです」と宣言した、イエスとペテロのその対面は、私たちひとり一人の人生の中で特定の方法で起こる必要があるものです。その対面には 4 つの要素があると言いました。
一つ目は、対面です。イエスとペテロは向かい合って立っていました。二人の間に仲介者はなく、祭司も第三者もいませんでした。
二つ目は、イエスの永遠のご性質の聖霊による啓示があったことです。大工の息子ではなく、生ける神の御子というご性質です。
三つ目に、ペテロはその啓示を受け取り、認めました。それを拒絶せず、受け入れました。 四つ目に、ペテロはその信仰を公に告白しました。
四つ目に、ペテロはその信仰を公に告白しました。
これらの要素は、祝福されたクリスチャン人生のすべての基礎となるべき要素であると私は信じます。 対面、啓示、認めること、告白です。
そして、非常に重要で実際的な質問をしました。この土台を据えたあと、どのようにしてその土台の上に築いていくかです。イエスが語られた「賢い人と愚かな人」のたとえから、この土台の上に建てるには、まず聖書を、書かれた神のことばとして、また生けることばとしてのイエスを認め、イエスの言われたことを聞いて行うことです。ですから、この土台の上に建てるとは、イエスの言われることを聞いて行うことなのです。
次に、神のことばの権威と力を見てきました。私は、言葉の権威はそれを記した著者にあることを指摘しました。ですから、すべての書物の権威は著者にあります。聖書の権威は著者にあり、その著者とは、聖霊、つまり神ご自身の霊です。神の権威は聖書の中にあります。
また、みことばには、書かれたことばと個人的なことばという二つの形があると言いました。イエスは、神のことばが肉となったものです。そしてこのことを、聖書とあなたの個人的な関係とに結び付けました。繰り返しますが、あなたは神のことばを愛する以上に神を愛することはありません。あなたがみことばに従う以上に神に従うことはありません。もし、あなたの人生のどこに神がおられるのかを見出したいなら、あなたが聖書をどのように扱っているかを知らなければなりません。聖書と神は同じだからです。聖書は書かれた神のことばであり、イエスは個人的なことばです。書かれた神のことばを通して、個人的なみことばが私たちの人生に入ってくるのです。
では、今日は教理的土台について話しましょう。これまで、イエス・キリストが個人的土台であることを見てきました。しかし、新約聖書は、教理的土台もあることを啓示しています。これは数多くのクリスチャンが気づいていない掲示ですが、へブル 6:1-3 節で明確にされています。では、そのヘブル6章 1-3 節を読んでみましょう。
「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。神がお 許しになるならば、私たちはそうすべきです。」
ここで、2つの考えを結合させなければなりません。まず、土台を据えることが不可欠です。もし、今までに土台を据えたことがなければ、あなたは建物を建てることはできません。しかし、いったん土台をしっかり据えたなら、土台を据え直し続けるのではなく、建物の完成へと移っていきます。それらは結びついています。しかし、へブル 6:1 を見ると、基礎的だと言っています。これは、クリスチャン信仰の教理的土台です。もう一度その 6つの教理を見ていきましょう。
一つ目、死んだ行いからの回心、
二つ目、神に対する信仰、
三つ目、きよめの洗いについての教え、
四つ目、手を置く儀式、
五つ目、死者の復活、
そして六つ目、とこしえのさばきです。
そして、それに従うなら、信仰のまさしくその出発点から、永遠という最終的な成就に至るまで、私たちを運んでくれることがわかるでしょう。クリスチャンの信仰は、いつか終わるものでもなく、このそして、それに従うなら、信仰のまさしくその出発点から、永遠という最終的な成就に至るまで、私たちを運んでくれることがわかるでしょう。クリスチャンの信仰は、いつか終わるものでもなく、この人生やこの世界で終わるものでもないということを理解することは、とても重要です。信仰はこの世界を越えた、また時間を越えた永遠へと私たちを導きます。今日クリスチャンの多くが、永遠というビジョンをほとんど持っていないことに、私は不安を覚えます。彼らは、重要なことはすべて、遅れることなく起こるかのように行動し、また考えています。事実、パウロは、もし私たちが単にこの世でキリストに希望を置いているだけなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です、と言っています。もし、あなたが時間を越え、あなたを永遠へと導くビジョンを持っていないのなら、あなたの状況は哀れで、多くの失望に苦しむでしょう。時間は完成ではないからです。完成は、永遠の中に訪れるのです。
ですから、これら6つの教理は、悔い改めという出発点から、復活とさばきに至るまで私たちを導いてくれます。
では、最初の教理である、死んだ行いからの回心について話していきます。しかし、まずへブル 6 章 3 節の一つのとても重要なことを取り上げましょう。こう書かれています。
「神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。」
神がお許しになるならば、私たちは完成と成就を目指します。あなたは、「神がお許しにならないことがあるのですか。神は私たち全員にそれらを目指してほしいのではないのですか」と質問するかもしれません。建築についての簡単な例でお答えしましょう。今日の文明的な世界の大都市では、建物を建てるには計画を立て、役所などからの認可を得なければなりません。そして、その役所の担当者が来て建建物を段階ごとに検査します。最初に検査するのは基礎です。基礎がしっかりしていなければ、建物も 安全ではないからです。基礎がしっかりしていなければ、建築の継続許可は下りません。
そして神は、私たちにも全く同じように取り扱われます。神は言われます。「あなたの土台を検査します。わたしの要求に従って土台が据えられていないなら、継続する許可を与えることはできません。」正しく土台を据えていないと、このクリスチャン信仰の初歩の段階を永遠に続けるだけで、成熟することも、完成や成就に近づくことも決してできないのです。ですから、クリスチャン信仰の土台であるこれら 6 つの教理を習得することが、どれほど重要であるかがわかるでしょう。
では、一つ目の、死んだ行いからの回心を見ていきましょう。死んだ行いとは何でしょう。ほとんどの現代翻訳では、「死に導く行い、行為」となっています。それは正確ではないと思います。死んだ行いとは、神への信仰に基づいていない、あらゆる行いだと私は考えます。信仰によらない行いはすべて、死んだ行いです。私たちの行動にいのちをもたらすものは、信仰だけです。ですから、教会に忠実に通っていても、貧しい人に施しをしても、祈りをささげていても、それが信仰に基づいていなければ、それらはすべて死んだ行いです。私たちは信仰によらないすべての行いを捨てなければなりません。信仰だけが、私たちが信じていること、私たちが行うことにいのちを与えてくれるのです。
それは、必ずしも罪深い人生を歩んでいるという意味ではなく、信仰があなたの心の中に入らず、神のいのちがもたらされなかったため、神にあって生きていないだけなのです。
さて、悔い改めとは何かを理解する必要があります。悔い改めは感情ではありません。私は今までに何度も、説教者たちが人々を感情的にさせて、キリストへの信仰を呼びかけるのを見てきました。そして非常に多くの場合、その感情は尽きてしまい、人々は喪失感を覚えて失望してしまうのです。ですから、聖書が定義する悔い改めとは、感情ではなく、決心であることを忘れないでください。悔い改めは感情から生まれるのではなく、意志から来るのです。私たちが人々の意志へと語りかけ、その意志を変えることができるなら、永遠の回心を見ることができるでしょう。今日の教会で行われている、いわゆる回心の多くは、その人の意志が全く変えられていないため、一時的なものとなっています。彼らは感情的な体験をし、興奮し、数週間、数か月、いや何年かは素晴らしいと感じるかもしれません。しかし、最終的には、その人の意志に触れられていないため、信仰にとどまることができないのです。
さて、聖書には、新約聖書はギリシャ語、旧約聖書はへブル語の2つの主な言語が用いられています。それぞれの言語には、悔い改めの特別な単語があります。私たちはその2つの単語を一緒にして初めて、悔い改めの完全な意味を理解することができます。ギリシャ語の単語では、「考え方を変える」、「思いを変える」と常に訳されています。ですから、まず悔い改めとは、あなたのこれまでの生き方について、思いを変えるということです。今まで自分を喜ばせるため、自分のことをするために生きてきたけれど、 これからは私の救い主イエスを喜ばせるために生きるということです。前にも言いましたが、それは感情ではありません。あなたは、はっきりした感情がなくても悔い改めることはできますが、自分の意志を変えなければ悔い改めることはできません。
そしてヘブル語ですが、ユダヤ人がとても現実的な人々なので、典型的にユダヤ的な単語になっています。彼らは実際にどうするのかを知りたいのです。ヘブル語の悔い改めに使われている単語は、文字通り「向きを変える」です。神に背を向けて間違った道を歩んでいた人が、180 度向きを変えて神に向かって言うのです。「神さま、私はここにおります。どうすればよいのか教えてください。そのようにします。」
ですから、この 2 つの単語を一緒にすると、悔い改めの全体像が見えてきます。信仰は悔い改めの後にしか来ません。聖書のメッセージはすべて、悔い改めて信じなさい、という順序です。多くの人々が信仰のために葛藤しています。実は、信仰のために葛藤しているのではなく、悔い改めの条件を満たしていないのです。これが 6 つの基礎的教理の一つ目です。もしその土台となる石を据えていなければ、あなたの建物は常に不安定です。
私はこれまでに個人的な問題を抱えた多くの人々、多くのクリスチャンのカウンセリングをしてきました。その数多くの経験から、次のような結論に達しました。それは、クリスチャンたちの問題の少なくとも50%が、一度も本当の悔い改めをしていないことが原因だということです。彼らは思いを変えたことがありません。一度もはっきりした決心をしたことがなく、自分の人生でイエスに主権を明け渡したことがないのです。まだ、「私がこれをしたら、私のために何があるか。あれをしたら、何が受けられるか」という視点で決心を考えているのです。悔い改める時には、そのようには考えません。「これをすることはイエスの栄光を現すことになるだろうか。あのことは、イエスの栄光を現すことになるか」と考えます。若い人々だけに言っているのではありません。聖書は、二心の人はすべての道に安定を欠いていると言っています。そのような人はしっかりとした土台がなく、安定した建物を作ることができません。
ですから今、少しの間静まって、自分自身に聞いてみてください。「私はこれまでに、本当に悔い改めたことがあっただろうか。私はまだ二心ではないだろうか。月曜日の私の目的はイエスを喜ばせることであり、火曜日の私の目的は自分自身を喜ばせることではないだろうか。」もしそうであるなら、あなたは実際、両方の世界で最悪の状態に陥っています。自分ためだけの、この世の生き方をした方がいいのではないですか。なぜなら、あなたは二心の人だからです。
では、悔い改めの性質について考えいきましょう。イエスが語られた、真の悔い改めの最も鮮明で完璧なたとえ話があります。それは、放蕩息子のたとえ話です。ある人が、そのたとえ話は、思いやりのある父の話と呼んだ方がいいと言いました。ほとんどのみなさんが知っているルカ 15 章の話です。裕福な家庭の次男は、今すぐ父の財産の分け前を手にして遠い国に出て行きました。彼はあらゆる罪深いことをしました。そして全財産を使い果たした時、飢饉が起こり、彼が得られた仕事は豚の餌やりだけでした。ユダヤ人だった彼にとって、豚の餌やりは最低の仕事でした。養豚業の人を軽蔑しているのではありません。単にユダヤの人々にとって、豚は汚れたものだったのです。
ここで、彼はぼろぼろの服を着て豚に餌をやり、お腹もすいていて、豚が食べるいなご豆でお腹を満たしたいとさえ思いました。そして、このようなことが起こりました。ルカ15章17節からです。
「しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。」
これこそ、あなたに訪れなければならない瞬間です。私はそれを、真理の瞬間と呼んでいます。我に返ることです。あなたの現実を知らなければなりません。神が見ておられるように自分を見なければならないのです。
「しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
この中で 2 つの行動があります。このように続きます。
「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。」
彼は決心し、向きを変えました。それが悔い改めです。決意し、その決意を実行に移すことです。自分が傷つけた父、自分を愛しておられる神のもとに行って言うのです。「私の人生は無茶苦茶です。自分でどうすることもできません。あなたが必要です。私をもう一度受け入れてくださいますか。」驚くべきことに、彼が「雇い人の一人にしてください」と父に言おうと決めていたとき、父親は彼の心を知っていました。これはとても美しい姿です。それは、まさに神の姿です。私たちが立ち返り始めるとき、神は私たちの心を知って、待っていてくださいます。
「ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き...」
まさに神の姿です。そのように神は私たちに出会ってくださいます。
「口づけした。」
そして父親は息子に、「雇い人の一人にしてください」という最後のことばを言わせませんでした。父親はこう言いました。
「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。」
これが真の悔い改めの結果です。そのように神に迎えられる悔い改めは貴いものです。あなた自身について少し考えてみてください。彼は我に返り、「自分の人生を台無しにしてしまった。お父さんがくれたすべてのものを浪費してしまった。でも決心し、向きを変えてお父さんの元へ帰って謝ろう」と言って向きを変えて歩き始めたのです。そのことについて考えてみてください。それが本当の悔い改めです。行動を伴った悔い改めです。
「後悔」という偽りの悔い改めもあるでしょう。ユダはそれを経験しました。マタイ 27 章 3 節以降に書かれています。
「そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、『私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして』と言った。しかし、彼らは、『私たちの知ったことか。自分で始末することだ』と言った。それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。」
ユダは後悔しましたが、変わることはありませんでした。事実、彼は変われるチャンスを逃したのだと思います。これは厳粛な問題です。人は生きている間に、変われるチャンスを逃してしまうことがあります。人間の人生の最も重要な瞬間とは、神が悔い改めについてあなたを取り扱い始めるときだと、私は考えます。あなたが「関係ないよ。あとでもいいではないか」と鼻であしらうなら、神が再びあなたを取り扱ってくださるという保証はありません。すべての人にとって人生の最も重要な瞬間は、神が「悔い改めなさい。私はあなたを取り戻したい。あなたを愛している。あなたを失いたくない」と言っておられる時なのです。
私はこれまでに見てきた人々の人生と、聖書に書かれていることを思い巡らしてみました。そして、神を本当に怒らせるものが一つあるという結論に達しました。それは神の恵みを軽んじることです。神はご自身の恵みを惜しみなく提示しておられますが、私たちがそれを軽視するなら、神は怒りに転じます。神の恵みを軽んじた一人の人がいます。エサウです。へブル 12章を見ていきましょう。私たちの中に、エサウのような人が多くいるからです。私たちはエサウのような決断をしないように気を付けなければなりません。へブル12:14からです。
「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」
聖くなければ、だれも主を見ることはできないと言っています。
「そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。」
今ここでは、エサウが偶像礼拝をしていたという記録はありませんが、彼の態度は、神の目には偶像礼拝と同じぐらい悪いことでした。どのような態度だったでしょうか。一杯のスープのために、自分の長子の権利を見下したのです。彼は長男として長子の権利があり、すべての遺産を得るはずでした。しかし、お腹がすいていたので、ヤコブが調理していたおいしそうなスープの匂いに負けたのです。私はアラブ人の中で生活していたことがあるので、その光景が鮮明に浮かびます。彼らはヤコブが調理していたのとまったく同じレンズ豆のスープを作っており、それはアラブ語で「スラビット・アディス」と呼ばれます。本当にいいにおいで、部屋中に充満します。猟から疲れて帰ってきて、お腹がすいていたエサウが、このおいしそうな匂いをかいだのです。そしてヤコブが言いました。「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売ってくれたらこのスープをあげましょう。」おそらく、エサウは今の自分にとって長子の権利には何の意味があるだろう、とにかく空腹なのだと考えたのでしょう。いま差し出されているものをもらうだけだと。そしてエサウは長子の権利を軽蔑し、神の大きな怒りをかうことになったのです。後に預言者マラキを通して神は言われています。「わたしはヤコブを愛した。わたしはエサウを憎み...」
それは非常に厳粛な教えです。もしあなたが故意に、この世の安っぽい一時的な楽しみのために、神の恵みとイエス・キリストにある相続とを軽んじ、背を向けるなら、神を非常に怒らせることになります。この話の続きを見てみましょう。
「あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。」
ギリシャ語では明確です。彼は悔い改めようとせず、祝福を求めました。彼には悔い改める思いが全くなかったため、退けられました。人生の中で悔い改めの機会を逃してしまった人は、二度とそれを取り戻すことができないかもしれません。みなさんに強く勧めます。これは非常に厳粛な教えです。今日、多くの教会や教派で悔い改めの必要性について語られることがあまりにも少ないのです。しかし、真の悔い改めなしには、真の信仰はありえません。最初の土台である悔い改めを据えていないので、日々浮き沈みがあるのです。自分を喜ばせ、自分本位の行いをやめ、神に言いましょう。「神さま、ここに私はおります。何をすべきか教えてください。私はそれを行います。」それが悔い改めです。
今までに本当の悔い改めをしたことがない人もいるかもしれません。それがあなたの問題の原因となっているのではないでしょうか。日々浮き沈みするのです。素晴らしい集会があり、喜びを感じる日もあります。翌朝、他のことが起こり、落ち込みます。最初の土台の石を据えていないからです。あなたが持っているものはただ、いつか崩れてしまう不安定な建物だけです。
強調したいことは、悔い改めが信仰の前に来なければならないことです。悔い改めのない真の信仰はありません。このことは、新約聖書で一貫して強調されています。マタイ3章には、メシアであるイエスの来られる道を備えるために遣わされたバプテスマのヨハネの奉仕について書いてあります。彼のメッセージは、一言で言うと「悔い改めなさい」です。つまり、メシアが来る前に悔い改めが不可欠だったのです。悔い改めが、メシアが来られる道を備えたのです。神の民であるイスラエルが、悔い改めというその経験を通るまでは、メシアに会うことができない状態であったということです。マタイ 3:1-3 で言われています。
「そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。「悔い改めなさい。 天の御国が近づいたから。」この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われたその人である。」
彼はどのように主の道を備えたのでしょうか。神の民に悔い改めへと導くように呼び掛けることによってです。そして悔い改めこそが、私たちの心と人生の中に主を招くために備える唯一の道です。
その後、ヨハネが自分の働きを終えたとき、ヨハネの預言的ことばが成就し、イエスご自身が福音の働きを続けるために来られました。マルコ 1:14-15 です。
「ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。』」
悔い改めて、信じる。まず悔い改めなければ、あなたは本当に信じることができません。イエスの唇から出た最初の言葉は、信じなさいではなく、悔い改めなさいです。
東南アジアの集会で、ある説教者が癒やしのメッセージをしていました。神のみこころと癒やしの計画について非常に表現力豊かに語り、癒やしに関する約束のいくつかを引用していました。しかし、彼は悔い改めについて一言も語りませんでした。そして彼は、人々を前方に招きましたが、その人たちのほとんどが偶像礼拝の背景から来ており、神が差し出しておられるものを受け取るために何をしなければならないのか全く分かっていませんでした。私は彼らのカウンセリングに関わっていたので、そのことを知っていました。それは私にとって大きな教訓となりました。その説教者の優しい言葉は、悔い改めなしに神の元へ来ることができるという印象を彼らに与えたので、彼らは完全に混乱してしまいました。彼はメッセージの中で、一度も悔い改めという言葉を使いませんでした。説教者を批判するために言っているのではありません。これは私が学んだ教訓でもあり、多くの福音的教会や福音的礼拝で、神があなたのためにしてくれることしか聞いたことがなく、神があなたに何を求めておられるかを聞いたことがないために、混乱している人がたくさんいるのです。神がまずあなたに求めていることは、悔い改めです。あなたの思いを変え、180度向きを変えて、神に向かって、「神さま、何をすべきか教えてください。それを行います」と言うのです。それが悔い改めです。
イエスのミニストリーの終わりの時を見てみると、そのメッセージはまったく変わっていません。ルカ24章で、イエスは復活の後、弟子たちに指示を与えました。46-47節です。これは復活のあとにイエスが天に昇られる前のことです。
「こう言われた。『次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』」
そのメッセージは、悔い改めと罪の赦しです。しかし、悔い改めのない赦しはありません。それこそ、エルサレムから始まり、あらゆる国々に宣べ伝えられるメッセージです。悔い改め、そしてイエスの御名による赦しです。
そして、教会がペンテコステの日に公に知られることになった時、聖霊の大いなる注ぎがあり、ユダヤ人の多くは何が起こっているのかを知りたがっていました。そしてペテロが立ち上がり、使徒の働き2章にある有名なメッセージを語りました。そして、最後に彼らは心を刺されて、ペテロに「私たちはどうすればよいのか」と尋ねたのです。これは教会が、罪人たちに「私たちはどうしたらいいのか」と尋ねられた最初の出来事です。これを読みましょう。使徒の働き2:37です。
「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか』と言った。」
もし、神があなたに望んでおられることを知りたいと心から願い、それを行いたいと願うところまでたどり着いたなら、神はご自身の願いをあなたに知らせないままにはしません。神にとっては、あなたに伝えることが難しいのではなく、あなたが知りたい、行いたいと思うところへ導くことが難しいのです。罪を本当に自覚したその人たちは、すぐに使徒たちに聞きました。「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」ペテロは、神と教会の代弁者として、彼らに明確に、正確に、具体的な答えを与えました。
「そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。』」
最初に何と言いましたか。悔い改めです。
「そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」
三段階です。
一つ目、悔い改める。
二つ目、水のバプテスマを受ける。
三つ目、聖霊を受ける。
私は、神のプログラムが変わってしまったとは思いません。これこそ、神が今日も罪人たちに願っておられることだと信じます。これこそ、教会が宣言すべきメッセージだと信じます。悔い改めて、水のバプテスマを受け、聖霊の賜物を受け取ることです。
そのメッセージが語られる場所では、ペンテコステの日と全く同じことが起こります。人々は悔い改め、バプテスマを受け、聖霊を受けます。水のバプテスマから上がって来た人が聖霊に満たされるのを、私は何度も見てきました。なぜ私たちはメッセージの質を落としてしまうのでしょうか。私たちにはそんなことをする権限はありません。私たちが持っている権威はただ、悔い改めなさい、水のバプテスマを受けなさい、聖霊を受けなさい、という新約聖書のメッセージを宣言することだけです。私たちがそのメッセージを伝える時、神は答えを与えてくださいます。神もメッセージも変わることがありません。多くの場合、変わってしまったのは教会なのです。
今から言うことに、あなたはショックを受けるかもしれませんが、使徒の働きの書以降で、水のバプテスマを受けずに、イエスの救いの宣言をした人を見つけることができません。調べてみてください。イエスは、「信じてバプテスマを受ける者は救われます」と言われたのです。私たちには、「バプテスマを受ける」という言葉を削除する権利はありません。救いとは、信じることとバプテスマを受けることです。それをしたなら、あなたは聖霊を受ける候補者となります。それが教会のメッセージであり、神の考えが変わることは決してありません。
次に、異邦人の偉大な使徒であるパウロのミニストリーを見てみましょう。使徒の働きの書でそれを見ることができます。第一に、パウロは非常に知的で偶像礼拝的な町アテネにいました。パウロは、ついに、アテネの人々に説教しました。彼にはその意図があったとは思えませんが、人々がパウロの信じているものを知りたいと願ったので、彼らに語ったのです。使徒の働き17章30節以降で、人々が常に偶像礼拝の生き方をし、神への無知の中で生きてきたことについて語ってメッセージを締めくくっています。
「神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」
神は今、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられる、と非常に明確に言っています。例外となる場所も人もありません。それが、神の人類に対して普遍的に求めておられることです。私たちが悔い改めるなら、神は過去を見過ごしてくださいます。
続きです。
「なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」
もう一つ、忘れられがちな、使徒たちの説教の特徴に注目してください。イエスは救い主であるだけでなく、さばき主でもあるのです。イエスは救いと同様、さばきにおいても、完全な公正性を持っておられます。あなたがイエスと救い主として出会わないなら、さばき主として出会うでしょう。繰り返しになりますが、これはほとんどの説教から抜け落ちています。人々は救い主について話しますが、さばき主については全く触れないのです。実は、アテネの人々へのメッセージの中で、パウロは救い主については語らず、さばき主とだけ語ったのです。
イエスのさばきに直面するという事実を知らなければ、全く異なる人生を送ることになるでしょう。現代のキリスト教の多くには、イエスが救い主であるだけではなく、さばき主でもあるという事実を直視しないために、不注意でずさんな点があります。「神は世界を義によってさばく日を定めておられます。」さばきの目的は何ですか。それは義です。私たちがどのように生きているか、どのような人であるかです。教派や国籍、社会的地位などは問題ではありません。さばきにおける論点はただ一つ、「義」です。ヨハネの第一の手紙で、ヨハネは、不正はみな罪であると言っています。それは、曲がっているとは何かを知りたいことと似ています。私は幾何学者ではありませんが、直線を見せて、その直線から逸脱するものはすべて曲がっていると言います。それはわずか1 度だけのずれでも、90度ずれていても、すべて曲がっているのです。そしてすべての不正は罪です。正しくないものは、すべて罪です。第三の分類はありません。
今日、多くの信者は、第三の分類というものを持っています。義でもないが、罪深いわけでもありません。そのような分類は神の考えの中には存在しません。義でないものはすべて罪深いのです。
次に、パウロの全ミニストリーでも最も素晴らしい結果を見た、エペソでの彼の働きの記述を使徒の働き20章から見ていきましょう。パウロはそこを立ち去ろうとしていて、エペソの教会の長老たちにこう語っています。「もう二度と私の顔を見ることがないでしょう。」パウロは彼らに対するこの愛と心配りのメッセージをしました。20-21 節で、エペソでの自分のミニストリーについてこう言っています。
「益になることは、少しもためらわず...」
私は、「少しもためらわず」というこのフレーズをよく考えます。それは、自分の社会的地位を犠牲にするかもしれないので、完全な真理を語らないことがあるかもしれないということを暗示しています。もし、あなたがある教団の牧会者であるなら、教団内でのあなたの立場が危うくなるかもしれません。もし、あなたが社会的に有名であるなら、その評判に影響を及ぼすかもしれません。ですから、パウロは、「私は良く考えた結果、私にメッセージを語ることをためらわせるものは何もないと決心しました」と言ったのです。
「益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え...」
パウロのメッセージは群衆の前でも、家の集まりでも変わることがなく、同じメッセージでした。そのメッセージとは何だったのでしょうか。
「ユダヤ人にもギリシャ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。」
最初に何を主張しましたか。信仰ですか、それとも悔い改めですか。悔い改めです。神への悔い改めです。「神さま、赦してください。私は罪人でした。自分勝手な道を歩んできました。」そして、イエスに対する信仰です。「イエス、私はあなたが私の身代わりとなってくださったことを信じます。あなたが十字架で私のために死んで私の罪を取り去ってくださいました。」しかし、まず神に対する真の悔い改めがなければ、イエスへの真の信仰を持つことはできません。
そのように、新約聖書は一貫しています。教会は悔い改める必要があると思います。私たちはあまりにもメッセージを薄め、人々を欺き、真のクリスチャンになるということについて誤った印象を与えてきました。悔い改めなしに本当のクリスチャンになることはできません。悔い改めがなければ信仰はありません。
聖書は、どこでもすべての人が悔い改めなければならないと言っています。なぜ、どこでもすべての人なのかと思うでしょう。イザヤ 53:6 にある預言者イザヤのことばを見てみましょう
「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。」
これが、私たちの問題なのです。私たちは殺人や偶像礼拝に関わったり、何かを盗んだりしたことはないかもしれません。しかし、私たちはみな、一つのことをしてきました。自分勝手な道を行ったのです。私たちの道は神の道ではないことは、教団や人種的背景に関係なく、すべての人に共通しています。肌の色に関係なく、私たちはみな、自分勝手な道に向かって行きました。
そして、次のように言っています。
「しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」
「咎」は非常に強い語です。自分勝手な道とは何でしょうか。それは咎であり、反抗であり、神よりも自分を優先することです。ですから、神はすべての人に悔い改めを求めているのです。私たちはみな、自分勝手な道を歩みました。私たちは自分のためのこと、自分を喜ばせることをし、神を無視してきました。神は言われます。「あなたが悔い改めるなら、わたしはあなたを受け入れて赦す。イエスがしたことのゆえに。」悔い改めこそが重要なのです。
悔い改めは神から始まります。すべての良いものは神から始まります。私たちは常に神の恵みにより頼んでいます。神の恵みがなければ、神の霊の働きがなければ、私たちは悔い改めることができません。このことは詩篇80篇で非常にはっきりと書かれています。この詩篇には同じフレーズが3回出てきます。3節でこう言われています。
「神よ。私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。」
「もとに返す」とは、言い換えれば、悔い改めです。
「私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。」
7 節。
「万軍の神、主よ。私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせてください。
19節。
そうすれば、私たちは救われます。」
お分かりでしょうか。神があなたを変えてくださらない限り、悔い改めることはできません。悔い改めは神から始まるのです。だからこそ、神が私たちをもとに返され始めるときが、私たちの人生にとって重要な瞬間なのです。それを無視して背を向けるなら、私たちは悔い改めることができません。悔い改めようとするとき、私たちは神にゆだねなければなりません。
次に、哀歌5章21 節を見ましょう。哀歌は、神に反抗し続けたためにエルサレムが荒廃したことに対するエレミヤの嘆きです。5章 21 節の「みもとに帰らせてください」は、ヘブル語では詩篇80篇と同じ語が使われています。
「主よ。あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです。私たちの日を昔のように新しくしてください。」
日本語では、「帰る」です。みもとに帰らせてくださるなら、私たちは帰ります。これは、非常に厳粛な教えです。神があなたを帰らせ始めない限り、あなたは帰ることができません。ですから、すべての人の人生の中で非常に慎重な瞬間なのです。
軍隊の仲間だった一人の若者の話をします。彼は、私が救われた時の唯一の証人です。彼は私の人生の変化を見ました。のちに同じ部隊で私はバイブル・クラスを始めました。私は何かをしなければと思ったのです。どのようにバイブル・クラスを持てばいいのか、どこから始めたらいいのかもわかりませんでした。新約聖書から始めようと考えました。どこからでしょう。マタイ1章です。イエスの系図から始めました。4、5人の兵士が参加していました。これは北アフリカの砂漠でのことです。私が本当に親しくしていたその彼が私に言ったのです。「悪いけど、もう君の聖書の学びには参加しないよ。」私は理由を尋ねました。彼は、「だって学んだら、僕は回心するとわかっているから」と言ったのです。数年後、彼に会うと、彼は私の知っている中でも最も悲惨な人になっていました。彼は私に助けを求めました。私はできる限りのことをしました。私はこれまで人々を主に導いてきましたが、彼を助けることはできませんでした。彼の妻を手助けし、彼女は救われました。彼が結局どうなったのかわかりませんが、それは私に対する警告でした。あなたは、自分が帰りたいと思ったら、帰ることができると思っているかもしれません。「神さま、今はいいです」と言うかもしれません。しかし、それはできないのです。彼が戻りたいと思ったときに、彼は帰ることができませんでした。彼が悔い改めのチャンスを失ったと言っているのではありませんし、彼がどうなったのかわかりません。しかし、それは私にとっての教訓でした。神が彼に救いを受け入れように語られていたとき、彼は背を向けました。彼が救いを求めたとき、神は彼に語ってくれませんでした。彼の結末は誰も知りません。
さて、聖書では、悔い改め以外の選択肢はただ一つであると言っており、ルカ 13章に書かれています。
「ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。」
どうやらピラトは、彼らが実際にいくつかの犠牲を捧げている最中に処刑したようです。それが彼らの善行としてカウントされると思うかもしれませんが、イエスは答えて言いました。
「イエスは彼らに答えて言われた。『そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。』」
悔い改めるか、滅びるか、その2つの選択肢しかありません。これはイエスご自身のことばです。
悔い改めは、信仰への道だとお話ししました。信仰の本質について少し考えてから、次のテーマに移りましょう。前に引用したローマ10:17では、「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのみことばによる」と言っています。これは非常に重要な教理です。聖書で用いられている信仰とは、常に、神のことばへの信仰という意味です。信仰の源はただ一つ、神のことばだけです。神のことばだけに焦点があるのです。現代の言葉で言うなら、私は主治医に大きな信頼を寄せている。あるいは、あの政党を信じている、または特定の薬、ダイエット法を信じているという感じです。そのような言い方をすることは間違ってはいませんが、聖書が言う信仰ではありません。聖書の中の信仰とは、常に神のことばに基づいています。神のことばに基づいていないものは、聖書的な信仰ではありません。
へブル11章で信仰の定義があります。聖書が実際に定義している唯一の言葉だと思います。実際に聖書で定義されている他の言葉は思いつきません。へブル11:1 です。
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
つまり、信仰と希望には関連性があります。多くの人は、自分に信仰があると思っているとき、希望を持っているということを私は発見しました。信仰は今ここにあるもので、希望は将来のためのものです。信仰とは実体と呼ばれるほど、現実的なものです。それは私たちの心の中にあります。信仰の土台の上に、私たちは将来への正当な希望を持つことができるのです。しかし、正しい信仰に基づかない希望は、単なる希望的観測に過ぎません。しかし、忘れないでください。信仰は私たちの心の中の実体です。まさに今その場所にあるものです。
ローマ 10:9 は言っています。
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」
聖書的な信仰とは、思いの中にあるのではなく、心の中にあります。パウロはこう続けています。
「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」
新約聖書で、信じるとは動作を伴う語です。静的なものではありません。知的な立場を取ることでもありません。あなたの心の中のものが、新しい何かに導くことです。信仰とは動詞です。信仰によって私たちは救いを信じます。知的な信仰を持っていても、それがあなたを変えるのではありません。聖書のすべての教理を知的に悟っても、まったく変わらないままでいることもありえます。しかし、あなたが心の中に信仰を持つとき、救いに導かれるのです。
信仰は現在にあり、希望は将来にあります。信仰は心の中にあり、希望は思いの中にあります。第一 テサロニケ 5:8 でパウロはその両方について、とても興味深いたとえを用いて語っています。
「しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。」
2つの武具があることに気づくでしょう。信仰は胸当てです。胸当ては何を守りますか。心です。しかし、希望はかぶとです。かぶとは何を守りますか。頭です。信仰は心の中に、希望は思いの中にあります。
希望はとても重要です。すべての真のクリスチャンは楽観主義者であるべきだからです。悲観主義者は、信仰を否定することになります。私は希望をこのように定義しています。神のことばの土台に基づいた良いことへの自信に満ちた期待。そして、真の信者である私たちひとり一人は、自信に満ちた良いことを期待しています。なぜなら、この世で何が起ころうとも、私たちはイエスと永遠にいることができるからです。もしそれがあなたの希望なら、あなたは落胆しても、がっかりしても、決してあきらめないでしょう。それは、信仰に基づく希望があるからです。
では、へブル 11 章に戻って、信仰についてもう少し見ていきましょう。偉大な信仰の章です。3節でこう言っています。
「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」
信仰は、見えないものとあなたをつなぐものであることを理解することが重要です。信仰は目に見えるものに基づいているのではありません。信仰は、感覚的な領域を超えて、見えない領域の中へと私たちを導きます。
パウロは第二コリント5:7で言っています。
「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」
二つのものがあります。見えるとき、私たちは信じる必要はありません。見えないときにこそ、信じる必要があるのです。ですからパウロは、私たちは信仰によって歩んでいると言っているのです。私たちは見えるものによって歩んでいるのではなく、信じることによって歩んでいます。
ララザロの墓の外でイエスはマルタに言いました。ヨハネの福音書11:40です。
「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
どちらが先ですか。信じることですか。見ることですか。そう、信じることです。「見たら信じます」と多くの人は言います。それは正しくありません。なぜなら、見たら、知る必要がないからです。見えないときに信じる必要があるのです。私たちは見えるものによってではなく、信仰によって歩むのです。多くの人は言います。「見ることができていたら信じていたのに。」それは違います。信じる必要はなかったのです。見えないときに信じる必要があるのです。もう一度言います。私たちは見えるものによってではなく、信仰によって歩むのです。
そして、原語のギリシャ語とヘブル語でもお伝えしたいことは、信仰は教理ではなく、特性であるということです。私たちの福音的考え方は間違って捉えています。私たちは信仰について、特定の教理を知的領域のように語る傾向があります。本来、信仰とは特性です。ヘブル語の単語の発音では emanau、ギリシャ語では pistos と言います。どちらの語も、忠実、忠誠、献身というのがおもな意味です。
イエスは弟子たちに、「けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです」と言いました。それが信仰です。イエスと歩み続けることです。それは個人的な献身です。
私たちが信仰を告白する時、私たちの大祭司であるイエスと私たちを結び付けます。へブル 3:1 にこう書かれています。
「私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」
それを忘れないでください。とても重要なことです。イエスはあなたの告白する大祭司です。あなたがそう告白するなら、イエスはあなたの大祭司です。もしあなたが黙っているなら、イエスは私たちの大祭司となることができません。だからこそ、信仰を告白することは非常に重要なのです。
へブル 4:14 には、こう書かれています。
「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」
私たちは信仰を告白し、試されますが、固く保つことが大切です。私たちが堅く保っている限り、イエスは私たちの大祭司です。
しかし、へブル 10 章では、さらに次の段階へと私たちを導きます。へブル 10:21、そして 23 節です。
「私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります...私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。」
私たちは信仰から希望へと前進していることに注目してください。私たちは信仰に基づいた希望を持っています。信仰を告白し、今、希望を告白するのです。「動揺しないで」と言っています。なぜそう言っているのでしょうか。なぜ、「私たちの信仰の告白を堅く保ちなさい」と言っているのでしょうか。それは、私たちに反対する多くの力があるからです。圧力をかけ、落胆させ、私たちの信仰を弱くしようとさせる力です。これは、決意の戦いです。忍耐の戦いです。
最後に、言いにくいことですが、信仰は試されます。試されることのない信仰は、神の目には価値のないものです。イエスはラオデキヤの教会に言われました。
「わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。」
それが、試練に立つ本物の信仰です。古代、火で精錬されない金は何の価値もないとみなされました。試練を受けない信仰は、神にとって全く価値のないものです。
最後に、ヤコブ 1:2-4 を紹介しましょう。
「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」
あなたは、何一つ欠けたところのない完全な者となりたいと願いますか。あなたは忍耐を完全に働かせなければなりません。それが、あなたが通る試練です。ペテロは別の箇所でこう言っています。
「...いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」(Iペテロ 1:6-7)
最後に、一言だけ言わせてください。忍耐を学ぶ方法はただ一つ、耐えることです。
神の祝福がありますように。
コード: MV-4162-100-JPN